第3話 幽刻の探偵
昼休みの終わり、音響室に残っていた冷気は、まだ指先にまとわりついていた。
新聞部の朝霧レイジは、録音ソフトのウィンドウを最小化し、かわりに現場写真のフォルダを開いた。サムネイルが規則正しく並び、そのどれにも校章入りの赤いテープと、机の上の電波時計が写っている。
「その前に、ひとつ約束を」
背中越しに、篝アヤカの声が落ちる。
彼女は片手で制服の胸元を押さえ、もう片方の手に携帯用の脈拍計を挟んでいた。測定の青い光が脈のたびに微かに揺れる。
「幽刻に入ること——つまり、一秒の外に出ることは、私にとっては心停止と同じ。入るたびに心電図に小さな傷が刻まれて、寿命が削れる。だから、軽々しくは使わない。使う時は、命を担保にする時だけ」
レイジは椅子を引いて向き直る。アヤカの瞳は冗談の余地を残していなかった。
「……わかった。俺の方も約束する。幽刻を頼むのは、ロジックで到達できない最終線だけだ」
「いい返事」
アヤカは、胸ポケットから小さな罫線ノートを出した。表紙に、ボールペンで四角が組まれている。
「観測者ノート。幽刻に入る前に、ここに“今”を固定して。時刻、匂い、温度、音の有無。できれば照明の角度も。私が戻った時、差分を読むための定点になる」
ノートを受け取ったレイジは、いつもより丁寧な字で書き始めた。
——一三時〇四分三二秒。
——匂い:消毒薬、ケーブルのゴム、微かに紅茶。
——温度:二一・四℃(壁掛け温度計)。
——音:エアコンの唸り、蛍光灯の高周波、校庭の歓声。
——照明:机上スタンド四十五度、白色、反射板に汚れ。
書いている間にも、胃の奥で小さく何かが鳴る。緊張の音だ。
「さて、可視情報から行こう」
アヤカが顎で示したのは、生徒会室の机を俯瞰で撮った写真。倒れた椅子、紅茶のカップ、そして、死んだ顔で「00:00:00」を映す電波時計。
レイジはズームを上げ、秒針と分針、影の伸び方に目を凝らした。
「……これ、おかしい」
「気づいた?」
アヤカが少し嬉しそうに目を細める。
「何がおかしいか、言葉にして」
「分針の影の落ち方。机上スタンドの位置が写真の右上だから、影は左下に落ちるはずなのに、時計の分針の影だけ、真横に伸びている。しかも影が太い。ガラスに反射した二重の影——いや、違う。ガラスの反射なら輪郭は柔らぐはずだ」
「その通り。影の質感が硬い。さらに注目すべきは、文字盤のガラス。一般的な電波時計の表面はアクリルで、反射率は二〜四%程度。机上スタンドの角度が四十五度なら、反射は斜め上に逃げる。つまり、ここまで濃い影は、本来出ない」
アヤカは、写真の中のスタンドの根元を指で叩いた。
「この写真が撮られた時、スタンドは“右上から”照らしていた。でも、時計の影は“左から”照らされた影に近い。つまり——」
「時計は止まってから向きを変えられている。影が“見せたい角度”に合わせて演出された」
「そう。停止後の“演出”。ゼロの時間を飾る、美術の手」
アヤカは、スタンドの影と時計の影の角度差に、透明定規を当てた。
「差は、およそ二十七度。犯人は時計をそれだけ回して、文字盤の“ゼロ”を真正面に置いた。シャッターの前に、誰かが“整えた”」
レイジは息を呑む。写真の中の机上が、ふいに舞台のように見えた。照明、置道具、役者の出入り。
ゼロの文字は、演劇の黒目のようにこちらを見返してくる。
「動機の仮説は二つに割れるわね」
アヤカは、ホワイトボードの端に素早く二本線を引いた。
一、研究資料の奪取。
二、副会長本人の逃走補助。
「一は、東雲トワくんが何かを研究していたと仮定する。時間、電波、幽刻。彼はきっちりした人間だったみたい。机まわりの整理も、ケーブルの束ね方も、ラベルの書き方も、情報を“見えるように整える”人の癖。それに対し、犯人は時計をあえて“見せるために整えた”。整える者同士の美意識がぶつかってる」
「二は?」
「東雲くんは、消えたのではなく、消したい誰かが“逃がした”。御子柴の言い方も気になる。鍵の不正送受は、犯人にとって“善意”の行為だった可能性。零秒の声が告げた“まだ鍵”は、罪の告白じゃなくて、助けの継続だったのかもしれない」
レイジは、現実の重たさと謎の軽やかさの中間で、喉に引っかかる疑問を選ぶ。
「二十七度、誰の癖だろう。演出の角度って、手癖が出る」
「出るわ。ちょっと実験しよう」
アヤカは机上の小さな置き時計を持ち、スタンドの光に対して二十度、三十度、四十五度と回転させ、影の伸び方を、レイジに観察させた。
影は角度に応じて縁が荒れ、文字盤の立体感が変わる。二十七度あたりで、影の輪郭が妙に締まり、ゼロの表示が正面から覗き込まれるように強調された。
「この“見せカット”は、写真映えを知っている手のもの。候補は、放送部、広報担当……書記も入れたいわね。文書と写真の両方に関与できるから」
水無瀬ユナの顔が浮かぶ。
白い指に残っていた黒いインクの線。手の甲の消えない癖。
だが、アヤカは軽々に名を口にしない。
「動機の推定だけ積み上げても、人は救えない。だから、もう一段材料を足す」
彼女は脈拍計を指先から外し、深く息を吸った。
「限定的に、幽刻に入る」
レイジは椅子の背もたれが凍るような感覚を覚え、立ち上がった。
「待て。さっき、自分で言ったばかりじゃないか」
「わかってる。だから“限定”よ。入った先で、できることを三つに絞る。
一、電波時計の表示と影の関係を現場で固定する。
二、空気の匂いの成分を記憶に刻む。
三、机の上の“紙の圧痕”を見る」
「圧痕?」
「筆圧で紙に残る跡。時間の情報は、紙に残る。幽刻では、光の向きが固定されて、陰影が静止する。圧痕の読み取りには最適」
アヤカは観測者ノートを指差した。
「観測者はあなた。私は戻ればすぐに記憶が薄れる。その前に、あなたが“今”と“戻った直後”の差を、箇条書きで刻む。匂いの語彙は、オゾン、金属、樹脂、紅茶、埃、インク。音の語彙は、蛍光灯、エアコン、廊下、足音、窓。温度は壁の温計でいい。照明角度はスタンドの支柱の目盛りと影の長さ」
「了解した」
準備に十五分。
現場の生徒会室は、管理の鷺沼先生から許可を得て、我々だけに貸し切られた。窓は閉め、スタンドは音響室のものと同型を持ち込み、位置と角度を写真の通りに再現する。机上の紅茶カップは、あの冷えたままのものをそのまま置いた。カップの表面に薄い膜が張り、縁に淡い虹が揺れる。
レイジは、観測者ノートの二ページ目に、丁寧に罫線を引いた。
上段は「前」、下段は「後」。
左端に時刻、右端に一言メモ。
鉛筆の芯を新しいものに替え、スタンドの光で文字の縁に薄い影をつくる。
アヤカは制服の上からジャージを羽織り、机の角に座った。
右手の人差し指に、細い赤い線が一本残っている。昨日、幽刻に触れた痕。
脈拍計を左手首につけ、何かに祈るでもなく、目を閉じる。
「三十秒後に入る。中にいるのは、三呼吸ぶん。戻ったらすぐ書くから、止めないで」
レイジは喉が乾くのを感じた。水筒の蓋を閉め、代わりに時刻を見直す。
一三時五八分二九秒。
アヤカの肩が一度だけ上下する。
次の瞬間——蛍光灯の唸りが、薄紙を引き裂いたように消えた。
世界が止まる。
時計の液晶は相変わらずゼロ。
窓の外、校庭のボールは空中に凍り、陽光の粉が動かない。
アヤカだけが、動く。
彼女は、止まった空気の中で、机の上の電波時計を二センチだけずらし、スタンドの光に対して角度を合わせた。
文字盤のゼロが、真正面からこちらを見る。
影の縁が締まる。
……写真と、同じ角度。
彼女の鼻先がかすかに皺をつくる。
空気を嗅いでいる。
彼女の目が、ほんの少しだけ涙ぐむ。
匂いは、記憶の奥に直接触れるらしい。
紙の束に指を滑らせ、最上段の書類をそっと横にずらす。
机の革のデスクマットが露わになり、その下から白い紙の圧痕が、浮世絵のように浮かび上がる。
光は動かないから、影は濃い。
そこには——数字の列。
七、スラッシュ、二、四。
“7/24”。
返却記録と同じ、左肩から書き出す癖の角度。
さらに、デスクマットの角。
わずかに黒い粉。樹脂の欠片。
そして、紙の端に、透明な糸が触れて擦れた微細な筋。
釣り糸。
鍵の通った道。
アヤカは吸う、止める、吐く——三つの呼吸を終えようとしていた。
その時だ。
耳の奥で、かすかな囁き。
女の声だ。
——まだ。
——窓を、開けるな。
アヤカのまぶたが震える。
幽刻の声は、命令形で落ちた。
戻るタイミングを告げる鐘のように。
蛍光灯が息を吹き返す。
エアコンが唸り、窓の外のボールが地面に落ちる。
レイジは同時にノートへ書き込んだ。
——一四時〇〇分一一秒。
——匂い:オゾン強、紅茶(柑橘)、樹脂粉。
——温度:二〇・七℃(〇・七℃低下)。
——音:蛍光灯・エアコン停止期間あり、校庭無音。
——照明:スタンド角は一定、影の縁が濃化。
「……戻った」
アヤカの声は掠れていた。
額にうっすら汗。唇が少しだけ白い。
だが、目は生きている。記憶が消える前に、と急いで机の角に指を走らせる。
「ゼロの角度、写真と一致。マットの下に7/24。樹脂粉。糸の擦れ。匂いは——」
「オゾン、紅茶、樹脂。温度は下がった。音は、止まった」
レイジが即座に返す。
「よし」
アヤカは、デスクマットの下から圧痕紙をそっと剥がして、透明フォルダに滑り込ませた。その手つきは、献体から器官を摘出する医師のように冷静だ。
「窓を開けるな、って声がした」
レイジは、さっきの囁きを思い出す。
「君にも、聞こえたか」
「幽刻の中の反響は、時々こちらに流れる。命令形というのが気になる。これは“救助のための指示”か“演出の維持のための命令”か」
演出。
二十七度の“見せカット”。
ゼロの数字は観客席を見ている。
「これで、仮説二に重心を移せる。誰かが東雲トワを“逃がす”ために、ゼロ秒の舞台を作った。鍵は外から動いた。通気口と磁石。管理簿の時刻は上塗り。送信機で校内の時計の注意を引く。そして——窓は開かない」
「窓を開けたら、何が崩れる」
「演出が崩れる。補助ロックの内側からの施錠という条件が、鍵の“外出入”によって成り立っている間、窓を開ければ、外からの介入が露見する。もしくは——窓の外、すぐに“協力者”がいた」
レイジは写真の一枚を開いた。生徒会室の窓の外は、隣の棟の壁面。外廊下が張り出し、非常扉が一本。
窓を開ければ、そこに立っている人を見てしまう。
——見られたくない誰か。
「候補は三人に絞る」
アヤカは指を三本立てた。
「会長。書記。放送部長。いずれも“見せる”仕事を持ち、鍵に触れ、送信機に触れられる距離にいる。御子柴は演算の助言者に回っている。彼の警告のニュアンスは、内部の誰かを庇う音だ」
「会長室で見つけた、丸い磁石と糸巻」
「持ち主が会長とは断言できない。でも、机にそれらが“自然にある”のは、外から鍵を受けた者の席。
さらに——」
アヤカは、透明フォルダから圧痕紙を出し、机の上で斜めから光を当てた。
7/24の数字の癖。左肩の鋭い起筆。
そして、もう一行、薄く別の数字が出た。
“14:03”。
上にかぶせた紙の端で隠されていたのだろう。僅差の時間。
「これ、ゼロ秒事件の直前の書き込みだ。返却欄では“7:42”に直してあった。
——14:03に、鍵は“まだ戻っていなかった”。
これは、幽刻なしに証明できる、紙の時間」
ロジックが音を立てて噛み合う瞬間は、いつも静かだ。
レイジの胸の内だけが賑やかに踊る。
「残るのは動機の紐付け」
アヤカは椅子に浅く座り、胸に手を当てた。脈拍計の青い表示が少し速い。
「東雲トワの研究資料。ゼロ秒の現象に関するメモが、机から消えている。誰かが持ち出した。逃走補助の対価か、あるいは保険」
「誰に質問をぶつける」
「順序を間違えると、証拠が消える。だから、最初に“演出の角度”から入る。二十七度。写真の撮り方。広報用に“装置の事故”として校内に拡散させる意図があれば、書記の動線に乗る。放送部なら動画が残る。会長は、絵面より“体裁”を取る人。……私はまず、水無瀬ユナに会う」
ちょうどその時、扉が控えめにノックされた。
水無瀬ユナが立っていた。
白い指に、黒の細ペン。手の甲に、また薄い線が付いている。
「書類の回収に来たの。鷺沼先生から、片付けていいって」
アヤカが立ち、道を開ける。
「ちょうど、あなたにも見せたいものがある」
デスクマットをずらし、圧痕紙の上に照明を傾ける。
7/24。14:03。
ユナの目が、一瞬だけ泳いだ。それは、動揺というより、計算のための目線の迷い。
「……それ、個人情報に当たるのでは」
「捜査の範疇。ここに“14:03”がある。返却時刻の欄には“14:30”の記載。つまり、三十分の空白がある。鍵は戻っていなかった。誰が持っていた?」
アヤカの声は滑らかだった。すぐに矛先は決めない。逃げ道を残す。
ユナは静かに首を振る。
「鍵は、会長の机の鍵箱に。私は書記だから、触れない」
「あなたの手の甲にあるその線は、何の線?」
「さっきペンを落として、インクが跳ねたの」
「窓を開けるな、って知ってた?」
アヤカはまるで雑談のように、急所を打った。
ユナは瞬きひとつ分の間、呼吸を止める。
「何の話?」
「ゼロ秒の声だよ」
レイジが言った。自分でも驚くほど低い声が出た。
「幽刻の中で、誰かがそう言った。窓を開けるな。あなたは、窓の外で何を見られたくなかった?」
ユナは笑わない。
その代わり、机の上の時計を見た。
「00:00:00」は、相変わらずこちらを見ている。
「あなたたちは、信じるのね。幽霊の声を」
「いいえ。ロジックを信じる。声は、紙と影と匂いで補強される」
ユナはペンを胸ポケットに差し、軽く肩をすくめた。
「なら、ひとつだけ。私は、東雲くんを嫌っていない。会長と彼は、同じ方向を向けないことが多かったけど。……今はそれだけ」
彼女は書類の一部をファイルボックスに収め、部屋を出た。
アヤカは深い吐息を漏らし、しばらく何も言わなかった。
レイジは観測者ノートを見返す。匂いの欄にある“紅茶(柑橘)”。
アールグレイ。ユナがいつも持ち歩いている銀の水筒が、わずかにベルガモットの香りを放っていたことを思い出す。
「会長室に行く」
アヤカの声に、再び硬さが戻る。
「角度の癖を見る。会長が書く“7”の左肩。写真の撮り方。机の上の磁石と糸の所在の説明。……それと、東雲トワの研究メモの所在」
レイジはうなずき、観測者ノートをポケットに差した。
扉に向かう直前、アヤカは机の引き出しの隙間に目を止め、ピンセットで何かを摘み出した。
透明な、細い鱗片のようなもの。
光に透かすと、微かに虹が走る。
「フロロカーボンのささくれ。釣り糸の端。窓の外側に、これと同じものがもっとあるはず。証拠は、まだここにいる」
レイジはその小さな証拠を見つめ、唾を飲み込んだ。
幽霊の足跡は、意外なほど物理的だ。
「篝」
「なに」
「さっき言った、“命を担保にする時だけ”。今は、そうなんだな」
「ええ。人が一人、ゼロの中に閉じ込められてる。引き戻すには、ゼロに触れるしかない」
廊下に出た時、校内放送のチャイムが鳴った。
音階が、ほんのわずかにずれている。
レイジは思わずアヤカを見る。
アヤカは頷くだけで、会長室の方角へ歩き出す。
ゼロの舞台はまだ片付いていない。
観客であるはずの生徒たちは、誰も気づかない。
ただ、小さな観測者ノートの中で、音と匂いと影が、確かな時間を刻み始めていた。
そして、会長室の扉の前で、御子柴カナメが壁にもたれていた。
目だけが鋭い。
「忠告を、二つ。
窓は、内側からしか開かない。けど、心は外から閉じられる。
それから——助けるための嘘は、たいてい悪意の形をして現れる」
「心に鍵穴はない」
アヤカは冗談めかして言い、扉を叩いた。
ノブが回る。
中から、低く整えられた声。
会長が、こちらを見ている。
ゼロと人間のあいだに張られた薄い糸が、光の中で震えた。
アヤカは一歩踏み込む。
幽刻の探偵は、寿命を刻む傷を抱えたまま、現実の中心へ向かっていく。




