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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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第24話 零秒の密室

 講堂の天井は、高い。いつもよりも高く見えるのは、張られた静けさのせいかもしれない。平日の午後、全校集会でもなく文化祭でもないのに、客席はほとんど埋まっていた。前列には生活安全課の私服、情報科の教員、外部からの見学者。中段には新聞部と放送部、物理部の面々。後方には、事件の当事者たちの顔。会長はいない。彼は取調べの最中で、ここには来られない。顧問もいない。彼は別の場所で、自分の言葉の順序に向き合っている。代わりに早乙女ミコトと御子柴カナメが臨時役員として腰を下ろし、トワは淡い色のシャツで目立たぬ位置に座っている。


 舞台上には、黒板が三枚並び、その手前に机と椅子が二脚。片側に簡易的な電子黒板が置かれていて、波形やログを投影する準備が整えられている。マイクは二本。片方を篝アヤカが、もう片方を朝霧レイジが持つ。


 開会の挨拶は短かった。教頭は手元の紙を一度も見ずに言った。「これは公開講義です。異能の宣伝ではなく、論理の説明です。拍手は許可しますが、ヤジは許可しません」


 笑いは起きなかったが、空気はわずかに緩んだ。アヤカはマイクを胸元に下げ、手の甲で黒板の端を軽く叩く。チョークの粉が指に移り、白い薄膜が光を返す。


「始めます。題は“零秒の密室”。副題は“幽刻を使わずとも到達できる論理”」


 板書が始まる。字は大きく、簡潔で、行間は広い。最初の行には「事実」と書かれ、次の行から番号が振られる。


 一、電波時計の“00:00:00”停止表示。

 二、録音機の“再生時間0秒”音声。

 三、内側から施錠されたはずの生徒会室。

 四、理科棟での鏡角度の錯視。

 五、EXIFと掲示板の基準時刻「Z」の混入。

 六、非常口からの搬出痕。

 七、台車と担架の“戻り”の痕。

 八、空調ノイズの不連続。


「全部で八つ。現場に落ちていた“謎の破片”です」


 アヤカは白い指先で一つずつ数え、チョークを置いた。レイジがマイクを受け取る。


「私たちは、これを“幽刻”で説明しません。幽刻は観測の補助であって、証明ではないからです。証明は紙に、紙は手順に。では、破片を手順に並べ替えるところから」


 電子黒板に、机の裏に仕込まれた薄いUSBサイズの送信機の写真が映る。御子柴が用意した拡大図だ。機種は一般流通品だが、基板に手が入っている。出力を弱める改造、アンテナの特性を絞る調整。


「一、送信機による“再送信”。親局の時刻信号に薄く上書きをかけ、校内の時計の一部だけ、同期の歯が噛み違う瞬間を作る。結果、あの“00:00:00”が生まれます。ただし、止まるのは表示だけ。時間は止められない」


 今度は、録音機の波形。可視化したスペクトラムの裾野に、うすく“段差”が残っている。


「二、“再生時間0秒”の音声。放送用ミキサーに無音を薄く挿入し、幽刻の残滓に編集の指紋を重ねた。波形はあるのに、プレイヤーは0秒と認識する。その“嘘”を支えるのは、ここ」


 レイジがレーザーポインタで、空調ノイズの落ち方を指す。「前後1.2秒だけノイズが不連続。これは幽刻では説明できない現実側の手。つまり、トリックは現実にある」


 三、四は連続で。アヤカが黒板に簡単な図を描く。内側からのサムターンと、理科準備室と暗室の配置。


「三、内側施錠は、外からできる。鍵穴から極薄のワイヤを通し、座金の裏の“引っかかる角度”でサムターンを回す。滑車代わりの円は、準備室のステンレス天板。四、暗室と準備室の鏡を“この角度”で置く。隣室の像が真正面と重なり、“二人のトワ”が生まれる」


 客席がざわつく。放送部の何人かは、すでに何度もこのデモを見ているので表情に余裕があるが、他の生徒は初めての者も多い。見えるものが信用できない瞬間ほど、言葉が必要だ。


「五、基準時刻の混乱。“Z”。UTCのゼロ点。会長の文書、会長のログ、その癖が“Z”に現れる。掲示板のロールバックとEXIFの巻き戻し。これで“いつ”が崩れる。——けれど、崩せるのは記録の側だけ。現場の側は崩れない」


 六と七は、御子柴が台車を押して見せる。体育倉庫から借りてきた業務用。タイヤの痕が布に印され、戻りの重なりが見える。


「六、非常口からの搬出。運ばれたのは“金属ケース”。七、担架は二度進み、一度戻る。戻りの位置に塩素の顆粒。地下で衣服の入れ替えがあった」


 最後に八。空調ノイズ。レイジが電子黒板に解析の手順を映し、観客に向けて言葉を割り振る。「これを聞こえる言葉に変えると、“内側にいた人の荷重移動”です。外に同伴者はいない。単独犯」


 黒板の左端に、アヤカは横線を一本引いた。線はまっすぐで、板の端まで駆ける。「これが“論理の線”です。幽刻はこの線の外側にいる。線は幽刻を必要としない」


 拍手が生まれる。生徒たちの手のひらが空気を押し、音が天井に届いて丸く返る。拍手の中で、アヤカはマイクを持つ手を少し下げ、静かに言った。


「異能は、謎を“作る”ことはできる。——けれど、謎を“解く”のはいつも、人間の手順です」


 拍手が少しだけ強くなり、それから、波のように収まっていく。静けさが戻る刹那、スピーカーの高域がほんのわずかに震えた。放送部席のミキサー前には誰もいない。舞台袖にも、人影はない。


 音が鳴った。


 波形はあるのに、再生時間は、ゼロ。


 “0秒音声”。


 講堂全体にどよめきが走る。誰かの息が詰まり、誰かの椅子が床を擦る音。ユナが反射的に立ち上がり、ミキサーに駆け寄る。ミコトは客席の通路から音響ブースへ回り込む。御子柴は端末を取り出し、場内の電波の呼吸をすばやく測り始めた。教頭は壇上に向かおうとして、足を止めた。何も言わずに立ち尽くすのが、正しかった。


 レイジは、観測者ノートを閉じずに手に持ったまま、袖の簡易オシロへ走った。波形を掴む。耳ではなく、目で聴く。


 ——違う。


 彼は即座に断言した。マイクを取り、声を張らないまま、はっきりと言う。


「これは、僕たちの学校の手口じゃない。違う“ゼロ”だ」


 客席のざわめきは収束せず、むしろ増幅する。ユナがミキサーのフェーダーを下げ、マスターを切る。なのに、スピーカーは鳴る。ミコトが非常用の直結ラインを引き抜く。なのに、鳴る。外からではない。中からでもない。場内の空気そのものに混ざったように、音が“ある”。そして、再生時間は、ゼロ。


 アヤカは壇上のまま、息を一度止め、すぐに吐いた。止める拍は短い。短いから、刃は鞘に入っている。「ユナ、場内アナウンス。——合図を回して」


「了解」

 ユナは緊急用のハンドマイクを取り、合図の言葉を短く流す。「暗転しません。音は止めません。落ち着いてください。今の音は記録に回します。——いま、合図を出しました」


 言葉は照明だ。言葉があると、音は恐怖ではなく事実に戻る。御子柴の声が舞台袖から飛ぶ。「親局の縁、撫でられてない。波形の原器が違う。——“変奏”だ」


 電子黒板に、さっきまで示していたスペクトラムと、今鳴っている音のスペクトラムが並ぶ。似ている。似ているのに、違う。裾野の揺れ方。底部の位相。空調ノイズの落ち方が、今度は“滑らかに繋がって”いる。校内の手口では、幽刻と編集の段差が必ず残った。これは——それが、ない。


「幽刻の“残滓”を前提にしていない」

 レイジが言う。「“幽刻がなくても成立する0秒音声”。編集の段差を、別の方法で隠している」


 どこかから、パタリと紙の落ちる音がした。客席の中段、新聞部の机の脇。レイジが視線だけを動かすと、名刺大の紙が一枚、床へ滑るように落ちていた。拾い上げたのはミコトだ。彼女は紙の表を見、それから裏を見、表情を強くしすぎないようにして頷いた。


 ——00:00:00 の外で会おう

 ——変奏を聴け


 アヤカは紙を受け取り、指の腹で端を揃えた。紙は薄い。けれど、切れるほどには鋭くない。彼女は客席に向かい、言葉を選んだ。


「公開講義を、続けます。——いま、場内で鳴っている音は、“変奏”です。私たちの学校で使われた手口の忠実な再現ではなく、いくつかの“差し替え”がある。いちばん大きいのは、“幽刻の段差”を使わずに、ゼロを作っていること」


 黒板に新しい行が加わる。


 九、変奏——幽刻なしの0秒。

 十、場内直結ではない“場外挿入”。

 十一、合図を先に奪う手口。


 レイジがつづける。「ミキサーを切っても鳴るのは、場外の電源系統に“戻り道”を作っているから。音声の原器を“外”に置いて、講堂の構造音に混ぜる。——校内の手口より、音響の知識が深い」


 放送部の生徒の一人が手を挙げた。緊張しているが、声は出ている。「つまり、私たちの“ゼロ”を勉強した上で、別の“ゼロ”に置き換えてきた、ということですか」


「そうです」

 レイジは頷く。「しかも、こちらが“止めない・隠さない・煽らない”の合図を回すタイミングで、“合図の外側”から鳴らしてきた。——合図を奪うのではなく、合図の外に座るやり方」


 御子柴が端末を掲げる。「ZE.R0。——この署名の指紋、ニュースの“完全再現”と同じ。郊外のスタジオ、市民ホール、そして旧校舎で見つかった手口。波形の癖、階段の歩幅。ぜんぶ繋がる」


 アヤカは一歩だけ前へ出て、観客全体を見渡した。恐怖の増幅は、暗転が一番早い。だから照明は落とさない。言葉を置く。板で光を返す。紙を手に持つ。


「異能は、謎を“作る”ことはできる。——でも、その謎を“変奏”してくるのは、いつも人間の手です。私たちは、その手を、手順で追います」


 その瞬間、場内の音はぴたりと止んだ。無音ではない。室内の空気の厚みが、元の厚みへ戻る。誰の合図でもなく、音は消えた。合図を奪わず、合図の外側で終わる音。拍手は起きない。誰も、すぐには手を叩かない。叩けない。叩くべきではない、という直感が講堂全体を支配している。


 静けさの中で、トワが立ち上がった。彼はマイクを持たない。持たないから、言葉は遠くまで届かない。届かない代わりに、近くの人の顔へ届く。


「僕は“危険性の章”に、こう書きました。——“合図は共有する”。“観測者は、観測のタイミングを独占しない”。……でも、今の音は、その約束の外にある。外から来て、外へ去った。なら、僕たちがやることはひとつです。——外と、約束を作る」


 若い声に、複数の場所で頷きが生まれた。新聞部の生徒たちがメモを取り、放送部の生徒たちが機材の位置を再確認する。情報科の教員は、誰に言われずとも、きょう公開する予定だった“運用ページ”に“外部観測者との合図”の項目を追加する作業に入った。


 アヤカは黒板の一枚目に線を引き、二枚目の左上に新しい見出しを書いた。


 ——次巻予告のための“問題提示”。


 客席が少しだけ笑った。緊張がほどけたわけではない。笑いは、恐怖の反射ではなく、言葉遊びへの反応だ。講義の文法で悪ふざけをする余裕。それを作るのも、論理の仕事だ。


「いま、ここで“解けない謎”が提示されました。二つだけ、はっきり言えることがあります」


 アヤカは指を立てる。一つ目。


「一、いまの“0秒音声”は、私たちの校内で使われた手口とは違う。幽刻の段差がない。外部の音響系統に“戻り道”を作っている。だから、同じ鍵では開かない」


 二つ目。


「二、ZE.R0は、こちらが“合図のある場所”で講義をしているタイミングで、“合図の外側”から音を重ねた。つまり、彼らが狙っているのは“合図の独占”ではない。“合図の無効化”です」


 レイジが続ける。「これに対して、私たちがやるべきことは三つ。——“止めない。隠さない。煽らない”。それに一つ、加える。“合図の外側にも合図を”。紙で。運用で。——ゼロに寄らず、ゼロの外へ」


 教頭が舞台袖から一歩進み、マイクを握った。「公開講義は以上です。——拍手は、しても、しなくてもかまいません。自分で選びなさい」


 静けさの後、小さな拍手が幾筋か、遠慮がちなリズムで立ち上がった。誰かが合わせようとし、誰かが合わせず、音はばらばらのまま薄く天井へ達して、ほどけた。ほどけた音は、恐怖の増幅とは違う色をしていた。色のある音。ゼロではない音。


     ◇


 講堂を出ると、廊下の空気は少し温かい。夕方の手前、校庭の旗はまだ鳴らず、風は弱い。アヤカは歩調を崩さぬように呼吸を数え、胸の内側の針目を撫でる。痛みは短い。短いあいだに、彼女は短い言葉を選び、レイジに渡した。


「やっぱり、来たね」


「ああ」

 レイジは観測者ノートの表紙を親指で撫でた。「しかも“変奏”。——音の原器が違う。幽刻を要らないゼロ。次は、そこを紙で崩す」


「崩せる?」

 ミコトが不安を隠さず問う。「合図の外に座られたら、合図が届かない」


「届かないところには、別の合図を置く」

 ユナが言った。「暗転の前に“緑”を点けるみたいに。外側の“緑”。——市民ホールの照明部に連絡して、運用の“緑”を作ってもらう」


「図書館や市役所にも」

 御子柴がうなずく。「親局の縁を撫でられても、撫で返す。撫で返すのは、ゼロの外から」


 トワが立ち止まり、掲示板の前で深く息を吸った。「僕、“付記”をまた更新する。“外部観測者との合図”。ゼロに寄らない。ゼロの外で。——握手の絵文字、ないよね」


「ない」

 レイジは笑う。「だから、言葉でやる」


     ◇


 夕暮れ。新聞部室では臨時号外の組版が進んでいた。見出しは簡潔に。「公開講義“零秒の密室”——幽刻を使わずとも到達できる論理」。小見出しに「講堂内に“変奏”の0秒音声」「ZE.R0からの挑戦状」「合図の外側にも合図を」。本文は短くないが、冗長でもない。波形の話は図で済ませ、手順は箇条書きに削った。今夜、校内と市内数カ所に紙で貼る。紙は遅いが、効く。


 レイジは最後の段落に手を入れ、ペンを置いた。紙を束ね、湿ったスポンジで糊の端を軽く湿らせる。貼る手が増えるほど、紙の速度は上がる。速度はゼロではない。ゼロの外だ。


 ドアの向こうで、誰かの足音が止まった。一歩が大きく、次の一歩が少しだけ早い。階段を二段飛ばしにする人の歩幅。レイジは視線だけを扉へ向けた。扉は開かなかった。足音は、一秒待って、去った。一秒より、少し短い。


 アヤカは窓を開けた。風が入る。匂いは薄い汗と紙。呼吸は、続く。胸の内側の針目は、きょう一日でいちど増え、縫い目はまた一段固くなった。彼女はそれを嫌わない。嫌うのは、無感覚だけだ。


「次は?」

 ミコトが問う。


「次は、外だ」

 アヤカは答える。「市民ホール、スタジオ、旧校舎。——そして、ゼロの外側」


 レイジは観測者ノートの余白に短く書いた。


 ——問題提示は鳴った。

 ——変奏。幽刻なしのゼロ。

 ——合図の外側にも合図を。

 ——紙で追う。音で照らす。運用で支える。

 ——刃は鞘に。必要なときだけ、光る。


     ◇


 日が沈み切る前、校門の外で風が少し強くなった。旗は一度だけ大きく鳴り、すぐに静かになった。掲示板の紙は剥がれず、角は折れず、文字は黒のまま、夜の色に移り変わる。講堂の灯りは落ちない。照明は緩やかに呼吸して、夜のほうが近いことを知らせている。


 誰もいないはずの講堂のスピーカーが、ほんの、ほんのわずかに、息を吐くような音を立てた。音ではない。気配。気配のような音。ゼロに寄らない耳には、ただの電源の熱の音にしか聞こえない。


 だが、約束は交わされた。

 合図は共有された。

 ゼロの外側で、次の一秒が待っている。

 彼らは、そこへ行く。

 紙を持って。

 合図を持って。

 刃を鞘に入れたまま、光の走り書きに向けて。


 講堂の黒板には、まだ白い線が残っていた。

 ——異能は、謎を作る。

 ——手順は、謎を解く。

 そして端には、小さくこう書かれている。

 ——“変奏を聴け”。

 それは挑発ではなく、次巻予告。

 物語は、ゼロの外側で続く。

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