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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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第23話 死後の手紙

 朝の校庭は、夏の手前の湿りを少しだけ含んだ風で満ちていた。掲示板の前には、知らないうちに列ができる。誰もが自分の名前を探している。名簿にある名前も、ない名前も、今日は同じ速度で目を滑る。掲示板の一番上、白紙に近い文面が貼られていた。

 ——生徒会、解体。臨時役員を置く。会計は早乙女ミコト、渉外・設備担当は御子柴カナメ。期間は期末まで。

 ——校内ネットワークの運用は情報科教員と新聞部が協力。

 ——掲示板の投稿は「紙の申請」を経る。匿名質問の受付は停止。週次回答。

 校舎の壁に影が細く伸び、その上を朝の光が浅く撫でていく。早乙女ミコトは掲示物の角を押さえて、テープの端の空気を指で追い出した。薄い紙の下で風が鳴る。鳴るのは紙で、声ではない。彼女は深呼吸し、胸の内側の拍を“仕事の拍”へ合わせる。フェーダーに手を置いたときの呼吸と同じ速さに。

「ミコト」

 後ろから呼ばれて振り向くと、御子柴カナメが自転車の鍵をポケットに投げ入れていた。彼のシャツは珍しくアイロンが効いていて、袖の折り目が強気すぎない角度で降りている。「臨時役員、二名。——相棒、いける?」

「いける」

 ミコトは短く答え、笑う。笑顔は硬いが、硬さは彼女を支える。

「“ゼロに寄らない”で回す。照明と音声の“合図”を、学校の運用言語にする」

「合図がある場所は、走りやすい」

 御子柴は頷き、掲示板の下の方、新聞部の臨時号外を指で叩く。「ほら、これ。『密室の真実、論理で破られる』。——紙は、まだ勝ってる」

 紙の勝ち方は、いつだって地味だ、とミコトは思う。だが地味でよかった。派手な勝利は、派手に消える。紙の勝利は、紙で残る。

     ◇

 午前の二時間目が終わったころ、学校のポータルサイトに新しいページが立ち上がった。東雲トワの研究公開ページだ。タイトルは、簡潔だった。

 ——「同期ズレが認知に与える錯覚」技術文書・倫理文書(公開版)

 本文は固い。けれど、「危険性の章」が一番最初に置かれ、可視化されている。最初の一行は、昨日、保健室で彼が打ったままの短い文だった。

 ——この技術は、人を傷つけないために使う。

 すぐ下に、太字でも見出しでもない普通の大きさで、付記が続く。

 ——付記:幽刻現象(死の直前一秒に関する観察報告)を想定した倫理指針。

 被験者の安全を最優先にする。観察者は、観察を以って「証明」としない。幽刻相当の現象が疑われる場合、観察者二名以上の「紙の記録」を前提にする。実験の停止権は被験者にある。停止の合図は、言葉を介さない動作でもよい(握手・指差し・呼吸のリズム)。観察記録は公開前に「傷つけないための編集」を経る。ゼロの演出を事前に排除する運用を敷く。……。

 重ねられた言葉の上を、視線が静かに渡っていく。新聞部の閲覧端末の前で、朝霧レイジは指の腹でスクロールバーを押し、観測者ノートの左ページに走り書きをした。

 ——付記=「幽刻の外の倫理」。

 ——停止の合図=握手・指差し・呼吸。

 ——“観察を以って証明としない”。

 紙に落とす文字は、画面の上の文字よりも歩く速度が遅くなる。遅いぶんだけ、残る。レイジがゆっくり読み進めていると、コメント欄に通知が現れた。表示は淡い。だが、名前は濃かった。

 ZE.R0

 名前の横に、本文が折りたたまれている。クリックすると、長い文章が滑るように開いた。句読点は正確で、誤字はない。無駄な形容がひとつもないのに、温度は低い。温度の低さを、技巧で作っている。レイジは息を飲み、読み始めた。

 ——止まった一秒は、世界のバグ。

 ——表示が止まっても、世界は止まらない。だが、表示が止まったと「思える一秒」は、観測者の精神に穴を開ける。

 ——その穴は、覗き窓ではなく、刃物の鞘。

 ——君たちは、刃を鞘に戻そうとしている。やり方は、まだ優しい。優しさは、時に世界を壊す。

 ——世界は壊れるとき、静かに壊れる。音を立てない。

 ——僕らは知っている。

 ——ゼロは、時間ではない。ゼロは、合図。

 ——合図を知らない者は、走り続ける。

 ——合図を知っている者は、止まる。

 ——止まった者は、世界の外側にいる。

 コメント欄には、その長い文だけが置かれていた。署名は「ZE.R0」。リンクはない。引用もない。ただ、筆致だけが、明確だった。

「挑発か、忠告か——」

 背後から声がした。篝アヤカだ。保健室のベッドから許可が出て、短時間の登校。胸の内側の痛みは引かないが、表情は、昨日よりも柔らかい。「どちらにしても、“合図”という言葉を、彼は重く扱っている」

「合図は、運用だ」

 レイジは低く言う。「合図を“誰が持っているか”で、現場の順序が決まる。ZE.R0は『合図を知る者は止まる』と言った。——彼は、止まる側に居たい人かもしれない」

「止まる側に居たい人は、ときどき、動く人を侮蔑する」

 アヤカは画面を覗き込み、最後の二行を指でなぞった。「“世界の外側にいる”。——外側にいる人は、責任から出られると思い込む。責任は、外側にもあるのに」

 そのとき、ミコトが勢いよく部室の扉を開けた。顔色が悪いわけではない。むしろ血色は良い。だが、手がわずかに震えている。「見た、コメント。……この人は、私たちの味方じゃない」

「味方なら、合図の扱いを共有するはず」

 ユナが言って、ヘッドセットを首にかけ直した。「“優しさは世界を壊す”。——運用の言葉じゃない。演説の言葉だ」

「演説は照明を浴びたがる。運用は照明の位置を決める」

 御子柴が苦笑いし、机の上のスペアナを撫でた。「“世界の外側”からの演説は、時々、照明の方角を無視する」

「レイジ」

 アヤカが言う。「文体で、顧問でも会長でもないと分かる?」

「分かる」

 レイジは即座に答えた。「顧問は比喩を嫌い、会長は比喩を飾る。この文は、比喩を“構造”にしている。つまり、思考の癖が違う。さらに、語彙の端に英単語の影がない。会長の文には、いつもどこかに英語の影が落ちる。——三人目だ」

「三人目」

 ミコトが小さく息を吸う。「最初から、見てた人」

「“死後の手紙”」

 アヤカが呟いた。「遺言ではない。死ぬ前に用意して、死んだあとに届く手紙。——コメントは、私たちの“死後”に届くように設計されている」

 死後。ゼロの外側。外側からの手紙。

 レイジは観測者ノートへ走り書きした。

 ——ZE.R0=三人目。顧問でも会長でもない。

 ——比喩を“構造”にする癖。英語の影なし。

——「死後の手紙」=ゼロの外で書き、内へ投函。

——味方ではない。——“合図”の独占を志向。

 ミコトは腕を組み、肩を縮めた。「ねえ、怖いの。——この人、私たちの反応を、“遺影”みたいに並べて楽しむ気がする。人が泣いたり、謝ったり、手を震わせたりするのを、“ゼロの外”から眺めて、うんうんって頷く感じ」

「分かる」

 ユナが眉根を寄せた。「“優しさは世界を壊す”って言葉、受け手の罪悪感に寄生するためのフックだもの。照明に使うには危険すぎる」

「危険を危険のまま、紙に置く」

 レイジはノートを閉じ、代わりに白紙のメモを机の上に広げた。「このコメントは、紙で反応する以外にない。反応しない、でもない。煽らない。止めない。隠さない。——“ゼロに寄らない三原則”で返す。トワの付記の“停止の合図”を強化して、観測者の責務を明確にする」

「いい」

 トワが部室の隅で、静かにうなずいた。彼はまだ本調子ではないが、顔には決意があった。「僕の付記、応急的だった。……“観測者の責務”の項目、追記する。“観測者は、観測のタイミングを独占しない。合図は共有する”」

「“合図は約束”」

 ユナが短く言葉を与える。「約束は、分かる言葉で書く」

 アヤカは誰にも聞こえないほどの声で言った。「では、次の事件で会いましょう」

 レイジだけが、その小さな声を拾い、目を上げる。

「会うなら、“ゼロの外側”で。私たちが選んだ速度で」

     ◇

 昼休み、体育館のステージ裏に臨時の会議席が組まれていた。教頭が出席し、臨時役員のミコトとカナメ、情報科教員、新聞部二名、放送部一名、保健室の養護教諭、そして新たに「外部連携」の名目で、市の図書館職員がひとり。顔ぶれはぎこちないが、目の向きは揃っている。

「生徒会の解体に伴い、意思決定の合図系を再設計します」

 教頭の声は低く、少しだけ震えを帯びるが、言葉は崩れない。「従来の“合図なし”をやめる。——一、すべての全校放送に事前アナウンス。二、ネットワーク再起動は事前通知し、紙の掲示を併用。三、管理カメラのメンテナンスでは暗転の前に“緑のライトを点灯”。四、EXIFの自動書き換えを停止。五、匿名投稿の停止。——以上」

「合図があるなら、私たちの曲がり角は減る」

 ユナが言い、指でステージ上の立ち位置の印をコンコンと叩いた。「ここで待って。ここで止まって。ここで走って。——言ってくれるなら、走れる」

「ゼロの外で」

 ミコトが付け足す。「ゼロに寄らない合図で」

 市の図書館職員が、控えめに手を挙げた。「図書館では匿名利用が当たり前です。でも、危険な匿名は切り離す方針を取っています。——“匿名で閲覧”は許すが、“匿名で破壊”は許さない。言い換えれば“匿名の自由”と“匿名の免罪”は違う。学校にも、同じ線引きが必要です」

 教頭がうなずく。「線引きは紙にする。——新聞部、頼む」

「はい」

 レイジは返事をし、メモの冒頭に太い線で書いた。

 ——合図は約束。

 ——匿名の自由/匿名の免罪。

 ——ゼロに寄らない。

 会合が終わるころ、体育館のステージ袖に風が入り、幕がわずかに揺れた。揺れた幕の隙間から見える校庭は、いつもと同じ明るさで、しかし音の透明度が違った。空気の温度が変わっている。温度計の数字は同じなのに。誰かの呼吸が整っている。誰かの足音が、急に止まらない。——そういう違い。

     ◇

 放課後、アヤカとレイジは屋上へ上がった。風はまだ優しく、手すりの影がコンクリートに均等な格子を作っている。遠くの道路の車の音が薄く届き、校庭では帰宅部の笑い声が途切れ途切れに浮いたり沈んだりする。

 アヤカは手すりに背を預け、胸に手を当てた。内側の縫い目は、針を刺す痛みを残しながらも、彼女に“いま”を知らせる。「痛みはある。けど、止めない。止めたら、白に引かれる。止めないために、あなたが居る」

「居る」

 レイジは隣に立ち、観測者ノートの新しいページを開いた。「居る時間を、紙にする。居ない時間は、紙にしない」

「ねえ、レイジ。——“死後の手紙”って、どう思う?」

「誰の死後かによる」

 レイジはペン先を止めた。「書き手の死後に届く手紙は、遺言の仮面を被った支配にもなる。受け手の“死後”に届く手紙は、追悼に擬態した誘導にもなる。……ZE.R0のコメントは、“受け手の死後”を望んでいる。——私たちの今の時間を奪い、遅れた場所に居させようとする」

「だから、ゼロに寄らない」

 アヤカは小さく笑った。「“今”に文字を置く。——“今”に合図を置く」

 そのとき、レイジの端末が震えた。トワからのメッセージだ。

 〈追記完了。観測者の責務、公開。コメント欄に“合図の共有”の項目を固定表示〉

 続けて、画面に新しいコメントが表示された。投稿者名は「匿名」。内容は短い。

 ——ありがとう。生きているうちに、読めた。

 レイジは眉をひそめる。「これは、たぶん普通の生徒のコメントだ。……でも、普通のコメントが“生きているうちに”と書くとき、どういう気持ちだろう」

「“死後の手紙”に当てられたのかもしれない」

 アヤカは息を整え、空を見上げた。「言葉には、温度がある。私たちは、その温度で人を凍らせたくない。温めたいわけでもない。——やけどしない温度に、保ちたい」

 屋上のドアが開き、ミコトとカナメ、ユナ、そしてトワが顔を出した。全員、少しだけ顔色が良い。トワは風に前髪を持っていかれ、笑って押さえた。「“責務”の項目、上げた。合図の共有、最初の文は“握手”。——握手で、止める」

「握手」

 ミコトが手袋を外し、指を広げた。「今、いい?」

 アヤカは頷き、ミコトの手を握った。温度は違うが、方向は同じだ。彼女は次に、レイジとも握手した。握るたび、幽刻の白は遠ざかる。白は刃の色。刃は鞘に。鞘には、紙の匂いが移っている。

「空気の温度、変わったね」

 カナメが空を見て言った。「同じ二四度でも、風の角度が違う。音の反射の仕方も」

「温度は数字じゃない」

 ユナが笑う。「照明だよ。——“明るさ”の言葉で、温度が決まる」

「明るさの言葉で、温度が決まる」

 レイジは観測者ノートに、そのまま書いた。「ゼロの外で、明るさを選ぶ」

 その瞬間、レイジの端末に、また通知が来た。トワの研究公開ページ。新着コメント。差出人は、やはり——ZE.R0。

 今度は、短かった。

 ——次の事件で。

 レイジは、息を飲んだ。アヤカは目を細め、ほんの少しだけ微笑んだ。「やっぱり、言うと思った」

「次は、どこ」

 ミコトが震える声で問う。「私たちの“外”?」

「たぶん、外」

 アヤカは頷き、ゆっくりと立ち上がった。「外で会う。——ゼロの外側で」

「準備する」

 カナメが端末を開き、波形のテンプレートを呼び出す。「“おびき出し”をやるとしても、ゼロに寄らずに。縁だけ撫でる」

「運用は固める」

 ユナがメモを掲げる。「合図は約束。匿名の自由/匿名の免罪。——三原則は大きく貼る」

「紙は僕が書く」

 レイジはノートを閉じ、胸ポケットに差し込んだ。「“死後の手紙”に、今の手紙で返す」

 トワが、小さく笑った。「ありがとう」

     ◇

 放課後の校舎は、人の足音が一段階小さくなる時間帯になる。図書館の奥で本が閉じられる音、保健室で包帯の箱が片付けられる音、廊下で掃除用具の車輪が回る音。音は全部、等速だ。等速の音に、自分の呼吸を重ねることができる時間。

 アヤカは保健室に寄り、養護教諭に挨拶をしてから、窓辺の椅子に腰を下ろした。窓の外の光は柔らかく、カーテンの端が呼吸の速度で揺れる。胸の内側の針目は、ゆっくり痛む。彼女は、その痛みを嫌わない。

 机の上に置かれた一冊の本に目が止まった。背表紙には、黒い文字で「手紙」とある。養護教諭が微笑み、「寄贈」と言う。「卒業生が置いていったのよ。——『手紙の本は、死後に効く』って」

「死後に効く」

 アヤカは表紙を撫で、「……死ぬ前にも、効くといい」と呟いた。

 携帯が震えた。レイジからだ。

 〈掲示板、週次回答のフォームできた。匿名不可。紙優先。運用のページ、公開〉

 返信を打つ。

 〈ありがとう。握手の絵文字ないね〉

 〈ないね。言葉でやる〉

 言葉でやる。そうだ。言葉でやるのだ。

 アヤカは窓の外を見つめ、心の中で刃を撫でる。鞘の中で、刃は冷たく眠っている。必要なときだけ、光る。光るときは、必ず戻る地図を先に用意する。地図は紙で、紙は言葉で、言葉は合図で、合図は約束で——約束は、人と人の手の中にある。

     ◇

 夕暮れどき、校庭の風は昼よりもやわらかく、旗は控えめに鳴る。掲示板の前には、もう列はない。代わりに、掲示板のガラスに映る人影が、数人ぶん、ばらばらの方向へ歩いていく。歩幅は違い、速度も違う。だが、どれも走らない。

 レイジは掲示板の前で立ち止まり、貼り紙の端を確認した。剥がれかけている角はない。紙の上の言葉は、昼と同じ強度で残っている。「合図は約束」。その六文字は、やけに安定して見える。

 背後から、誰かの足音が近づいた。一歩ごとに、かすかに間が短い。背の高い人の歩き方。階段を二段飛ばしにする人の歩幅。

 振り向くと、そこには、見知らぬ生徒が立っていた。背が高く、痩せている。髪は長くも短くもなく、目は真っ直ぐで、しかし何かに焦点を合わせていない。制服は正しく、靴は新しい。彼は掲示板を見ず、レイジの顔を見た。

「新聞部の人」

 声は低く、温度が薄い。「記事、読んだ」

「ありがとう」

 レイジは笑い、頭を下げる。「いつでも、紙の上で質問して」

「紙は遅い」

 彼は微笑まない。「でも、遅いから、効く。——“死後の手紙”に効く」

 レイジは、頷いた。頷きながら、胸の内側で、細い糸が一度きゅっと縮むのを感じた。彼の「死後の手紙」という言い方は、ZE.R0のコメントの語法に似ている。比喩を“構造”にする癖。英語の影はない。

「君は?」

 レイジは尋ねた。「どの部?」

「帰宅部」

 彼は答え、掲示板のガラスに映る自分の影を一度だけ見た。「帰宅部は、合図がない。——だから、合図を学びに来た」

「合図は約束だから、学べる」

 レイジは微笑む。「うちの欄、毎週、紙で出す。教頭の印も押す。——遅いけど、効くよ」

 彼は、頷いた。それから、掲示板のガラスに指先で軽く触れ、歩き去った。歩幅は大きく、階段を下りるとき、一度だけ二段飛ばした。

 風が、遅れて吹いた。掲示板の角がほんの少し、めくれかけて、すぐに戻った。

 レイジは観測者ノートを開き、最後の行に短く書く。

 ——学校は平常へ戻る。空気の温度は、以前と違う。

 ——列はない。影は長くない。足音は走らない。

 ——「次の事件で」。

 ——ゼロに寄らず、ゼロの外側で。

 彼はペンを置き、紙を閉じた。紙は彼の胸のポケットに戻り、胸の前で呼吸と一緒にゆっくり上下する。呼吸は続く。呼吸が続く限り、紙は増える。紙が増える限り、刃は鞘に入っていられる。

 夕焼けの色は、昨日と似ているが、昨日ではない。旗はもう鳴らない。校舎の影は、細くなって、消えていく。

 死後の手紙は、届いた。

 だが、こちらは生きている。

 生きている者の手紙は、遅いけれど、返せる。

 返す手紙は、紙で。

 紙は、合図。

 合図は、約束。

 約束は、握手。

 握手は、ここにある。

 ここは、ゼロの外側だ。

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