第22話 時間の狭間で
連日のニュースは“0秒音声”を見出しにして、朝も昼も夜も等速で流れていった。コメンテーターは軽く眉を寄せ、専門家は身振りで波形を描き、キャスターは「近頃の若者」を主語にし、テロップは簡単な図解に矢印を添えた。どれも、手の届く範囲だけを握っている。再送信器の弱出力改造を真似た粗悪品。掲示板の時刻ロールバックを数分単位で乱暴に巻き戻しただけのログ。EXIFのタイムスタンプに雑な加工痕。——ほとんどは、模倣というより“寄りかかり”の音だった。
ひとつだけ、違った。
午後の校内放送が終わるころ、レイジの端末に報道各社の速報が並んだ。郊外のレンタルスタジオで、「波形はあるのに再生0秒」の音声ファイルが見つかった。波形の裾野の揺れ方。再送信器の波形プリント。EXIFの時刻痕跡の“Z”。掲示板のロールバックの戻し方。——すべてが、同じ筆致だった。校内で自分たちが見た“0秒音声”の、鏡写しのような完全再現。
「挑戦状」
ユナが呟き、配信機材のケーブルを無意識に指で整えた。
「でも、これはもう校外だ。私たちの照明の届かない場所」
「届くやり方はある」
御子柴が背伸びをし、物理準備室の窓を開けた。初夏の匂いが列をなして入り込む。「波形の指紋は残る。親局の“親”は、そう簡単に隠せない」
「会長は」
ミコトが小さく問う。「署で何か言った?」
レイジは観測者ノートの余白に、その言葉をそのまま書いてから答えた。「取調室で“僕の手口を誰かが観察していた”と述べたそうだ。廊下で私服の人が言っていた。供述の細部は紙が出るまで触れられないけど、ひとつだけ——“自分がやる前に、誰かに見られていた感覚が何度かあった”」
「幽刻の外に、もう一人の観測者」
アヤカが言った。保健室のベッドから起き上がって二時間。目の下の影は浅く、呼吸の止める拍は昨日より短い。
「ゼロの刃に触れず、ただ“隙間”に耳を当てる人。そんな気配」
「観測者がふたりいると、記録の位相がずれる」
御子柴はホワイトボードに細い線を引き、波形を二つ重ねた。「同じ現象でも、取り出すときに“揃え”の癖が出る。会長の癖はUTCのZ。顧問の癖はプリセットの圧縮。——新しい指紋が混ざってないか、確かめたい」
最初の手がかりは、ありふれたログに隠れていた。校内の無線LANの接続記録。新聞部は許可を得て、ネットワーク管理室に併設されたサーバラックの前に立つ。薄暗い部屋は常時冷房で空気が乾き、ファンの音が途切れず回っている。
「二〇時から二一時の間、事件当夜だけ現れて消えた端末がひとつあります」
情報科の教諭が端末を操作し、モニタに一覧を出した。BSSIDの列が縦に並び、その横に端末の識別名が小さく表示される。
「機器名——」
黒地に白の文字が浮かぶ。
ZE.R0
ユナが息をのんだ。「ゼロ……」
「名前は変えられる。けど、指紋は残る」
御子柴が前のめりになり、MACアドレスの配列に目を凝らす。「このベンダID、国内にはない。範囲はアジア圏の安価なボード……いや、カスタムの可能性もある。問題は、接続の仕方。この端末だけ、認証の直前に“偽装されたNTPパケット”を投げてる」
「校内の親局の手前で、時刻の挟み込み」
レイジが観測者ノートに写す。
「ログの先頭行に一瞬だけ“Z”。——誰?」
「校外の挑戦状と、ここが線で繋がる」
アヤカは静かに言った。「誰かが、私たちの“ゼロ”を読んでいる。読みながら、“ゼロに寄らないはずの場所”へ移している」
画面のスクロールは止まらない。ZE.R0は事件当夜、一度だけ現れた。アソシエーションのログは、廊下側のAPから体育館近くのAPへ、そして理科棟のAPへと滑るように移動している。滞留時間は短く、各APでの接続は四十秒、二十秒、八秒。最後の八秒で、親局へ同時同期のリクエストを投げ、校内の一部で一瞬だけ“かみ合わせのズレ”が生まれた時間と一致する。
「八秒」
ユナが口の中で繰り返す。「短い。——でも十分。照明の暗転に近い」
「ゼロを作る歌詞じゃない。ゼロに隣り合う沈黙の、縁をなでる指先」
ミコトが言った。「放送部でも見たことのない、繊細な手」
レイジは画面を指で示した。「機器名は自己申告で、MACは偽装できる。でも、電波の呼吸は難しい。プローブリクエストの癖、RSSIの落ち方、チャネルホッピングの間隔。——“人の歩幅”が乗る」
「歩幅を逆算する」
御子柴は新しいウィンドウに、各APでの受信強度をプロットした。低い山が連なる。彼は顎に手を当てて、等速を疑い、少しだけばらしてから平均を引く。「この人、階段を上がるときに一段飛ばしを二回だけやってる。速度、身長、歩幅の組み合わせで、おおざっぱに“背の高い人”が出る。ジャイロの癖は……取れない」
「犯人像、または観測者像が“背の高く、階段の歩調に迷いのない誰か”」
レイジがノートに記す。「校内の誰かか、部外者か」
「会長の証言に出てきた“見られている感覚”の時間帯は?」
ユナが尋ねる。
「二回ある。ひとつは生徒会室のセットを仕込んでいるとき。もうひとつは理科棟の暗室から準備室へ“同一視点”の調整をしていたとき」
レイジはメモをめくり、供述を思い出すように目を細めた。「どちらも、ZE.R0の軌跡と重なる」
「つまり、もう一人の観測者は、ゼロのすぐ外側に居る」
アヤカは目を閉じ、心の内側の刃を撫でるように呼吸を数えた。「幽刻ではない。幽刻に近い、しかし死の白には触れない場所。時間の狭間——“止められたと思い込まれた表示の外側”」
彼女はノートに自分の字で書いた。
——時間の狭間。
——ゼロの縁。
——幽刻の外側。
そのとき、管理室のプリンタが低い音を立てて動き、誰も送っていないはずの紙が一枚吐き出された。驚いて振り向くと、紙の中央に黒い文字が一行、印字されていた。
00:00:00 の外で会おう
室内の空気が一瞬で細くなった。情報科の教諭が「ジョークだろう」と言い、プリンタのジョブ履歴を開く。空白。履歴は空だ。ダイレクト印字。——開放ポート? 御子柴が即座にケーブルを抜き、プリンタのパネルに触れてジョブを止める。二枚目が、吐き出される寸前で止まった。はみ出た文字の端だけが、白い余白ににじむ。
レイジは紙を裏から光に透かして見た。薄い、しかし見覚えのあるフォント。校内のどの端末からでも出せるもの。けれど、タイムスタンプは印字されていない。ZE.R0。——名前が脳裏に残像を作る。
「挑戦状」
ユナがもう一度言い、今回は頷きを添える。「校外からの、そして校内への」
「会長は取調室で“僕の手口を観察した誰かがいる”と言った。顧問は“観察可能なデータのみが価値”と主張した。——“観測者”という言葉の位置が、三人で違う」
レイジは整然と話しながら、内心の熱が少しずつ上がっていくのを感じていた。新聞部の事件は、長く追ったときほど、終わりの形を選び間違う。追い方を間違えれば、次の暴力の居場所になる。
「私たちの観測は、“ゼロに寄らないため”の線引きだ。ゼロの外側の挑戦状は、その線を試しに来ている」
アヤカはプリンタの紙を受け取り、指先で端を整えた。紙の硬さが、現実を確かめる道具になる。彼女はうなずき、短く言う。「受けて立つ」
◇
放課後、新聞部室は臨時の“時刻対策室”になった。ホワイトボードの左半分には事件のタイムライン、右半分には“模倣事件リスト”が貼られ、黄色い付箋に「粗悪」「準完全」「完全」と小さな分類が並ぶ。ユナは運用の注意事項を手短に読み上げる。「今夜から、校内NTPの再起動は警告後五分以内に通知。掲示板は巻き戻し禁止。EXIFの強制オーバーライドを停止。——つまり、“戻さない・触らない・記録する”」
「照明の言葉にすると、暗転の直前に『暗くします』と必ず言う、に近い」
ユナは頷いた。「合図は約束。約束のない暗転は、人の足を折る」
御子柴は波形の比較を進め、“完全再現”のニュースで流れたスペクトラムをフレームから抜き出して並べる。「親局の癖、やっぱり似てる。校外のスタジオの親局は市内某所。……これ、校内に持ち込んだ個人の親局と“癖が似る”理由はひとつ。“同じ場所で一度でもキャプチャされた”からだ。原器の前で、一度でもゼロを吸い込んでいる」
「校内に、外部の観測者が入っていた時点で、もう“校外”は始まっていた」
ミコトが目を伏せる。「私たちは、ここだけを守っても足りない」
「だから公開した」
トワが部室の扉を静かに開け、顔を出した。昨日より表情は落ち着き、声は細いが濁りがない。「“危険性の章”、半分まで書いた。『0秒音声の再現手順』をどうしても書いてほしいとメールが来たけど、断った。“出来ること”と“やること”は別だ、と最初に書いた」
アヤカは頷いた。「ありがとう。順序が整うと、刃は必要なときだけ光る」
「で、次」
御子柴が椅子を回し、足で移動してホワイトボードの前に立つ。「ZE.R0を炙り出す。八秒でAPを渡り歩き、親局の縁で波形を撫でる人。——その歩幅と指の速さを、逆に利用する」
「おびき出す?」
レイジの問いに、御子柴は肩をすくめる。「餌箱、置く。架空の“再送信器ログ”。掲示板に“わざと修復可能なバグ”を作る。NTPの親局の前に“観測者しか気づかないズレ”を仕込む。ZE.R0なら、触る。触らずにいられない。触った瞬間、握手の途中で“握りの力”が分かる」
「危険だ」
ユナが眉を寄せる。「こちらがゼロに寄る誘いにならない?」
「寄らない。——触らせて、“触った痕跡”を紙で拾うだけ」
御子柴は太いペンに持ち替え、赤で書いた。「ゼロに触れない。ゼロに寄らない。ゼロの縁だけ測る」
「やる価値はある」
トワが静かに言った。「僕の“公開”は、誰かの手を軽くする。軽くなった手は、悪い方にも速くなる。だから、僕は“禁止”を書いた。——でも、書くだけじゃ遅い。運用と観測が同じ側に立たないと」
アヤカは椅子から立ち上がり、窓を開けた。風は少し湿り気を含み、旗は校庭の向こうで水平に伸びている。
「やろう。けれど、刃は出さない。幽刻は使わない。——ゼロの外側で、観測する」
「はいよ」
御子柴が軽く手を上げ、作業に戻った。ミコトは放送部のコンソールを持ち込み、ユナは運用のチェックリストを短く詰める。トワは“危険性の章”に追記する。「観測者に向けての注意」。
レイジは観測者ノートの最初のページに戻り、走り書きをした。
——挑戦状、校外へ。
——ZE.R0=一度だけ現れた端末。歩幅は大きく、階段は二度飛ばす。
——プリンタに「00:00:00 の外で会おう」。
——おびき出し作戦:ゼロに寄らず、縁だけ測る。
——幽刻は使わない。紙でやる。
ペン先が止まったそのとき、部室の扉がノックもなく開いた。情報科の教諭だ。顔色は悪くないが、目の焦点が揺れている。「さっきのニュース、あれ——もう一件、増えた。完全再現。郊外のスタジオの他に、市内の市民ホール。それと……」
「それと?」
ユナが訊く。
「本校の旧校舎。立入禁止。——管理カメラのログに、“0.5秒の欠落”。廊下が、空白になった。今、警備会社と確認を取ってる」
室内の空気は、もう一段細くなった。
アヤカは一拍だけ呼吸を止め、すぐ吐いた。止める拍は短く。短くていい。
「行こう。旧校舎」
「行く前に」
レイジが手を上げ、机の上の配布用カードを掴んだ。「これ、皆で持つ。『ゼロに寄らない三原則』。——止めない・隠さない・煽らない。現場でも、これで動く」
ミコトはカードをポケットに入れ、ヘッドセットを首にかけ直した。「音は私が見る。静けさが破られる前に、合図を出す」
「波形は俺」
御子柴は端末と簡易スペアナを抱える。「ゼロの縁、撫でてくる。撫でられたら、撫で返す」
「照明は私」
ユナが懐中ライトと予備バッテリーを掴む。「暗転は合図してから。無許可の暗転には、暗転で返さない。——点けて、見せる」
トワはノートPCを閉じ、肩にカバンをかけた。「危険性の章、未完のままは嫌だけど……現場の危険は、未完で行くしかない」
アヤカは頷いた。「時間の狭間は、ゼロの外側にある。そこへ行く。幽刻は使わない。——でも、もし、刃が必要になったら」
「紙で止める」
レイジが言う。「刃は最後の最後まで出さない。出すときは、戻る地図が紙の上にあるときだけ」
旧校舎へ向かう廊下は、夕暮れの光で薄い金色に染まっている。生徒の気配は薄く、遠くの体育館の音が風に乗って届く。階段を降りる途中、アヤカは一瞬だけ足を止め、古い踊り場の壁の傷に触れた。誰かが昔、ここで時計を落としたような傷。彼女は指を離し、呼吸を整えた。
旧校舎の入口は鎖で閉じられ、立入禁止の札が二枚、両扉にぶら下がっている。警備会社の担当が鍵を持って現れ、教頭が立ち会い、署の私服が二人、無言で頷いた。鍵が回り、鎖が外れる。その金属音は、薄暗い内部に吸い込まれ、すぐに戻ってこない。
入る。
匂いは古い木と湿気。床板は時々、弱い音で鳴く。廊下の先に細い光。管理カメラは廊下を見下ろす位置にあり、レンズの縁に薄く埃が積もっている。ユナが埃を払う。「許可済み。——見えるようにする」
御子柴がスペアナを起動し、近傍の電波を走査する。画面に小さな山がいくつも現れ、その中に、不自然に平たい台地のようなものが混じる。「いた。親局の縁。撫でてる。——ZE.R0」
ミコトが息を呑み、ヘッドセットのイヤーパッドを耳に当てる。「音は……まだ来ない。沈黙の前の沈黙」
レイジは観測者ノートを開き、行を引く。匂い:古木・湿気。温度:二四度。騒音:遠い体育館。足音:六人。影の角度:窓の縁、十九度。——時間。
時間は、ある。止まっていない。止められていない。
ただ、薄い。
廊下の端に、白いものがふわりと舞い落ちた。天井の穴から降りたのは埃ではない。紙——名刺大の厚み。ユナが拾い上げ、裏返す。表には何もない。裏に、印字が一行。
00:00:00 の外で会おう
同じ筆致。
同じ約束。
同じ、挑発。
アヤカは紙を受け取り、指で四隅を軽く押さえた。指の温度が紙に移る。紙の温度が、ほんの少しだけ現実の温度を上げる。
「会おう」
彼女は言った。
「ゼロに寄らず、ゼロの外で」
その瞬間、管理カメラのランプが、ひときわ明るく瞬いた。スクリーンに映る廊下の映像は等速で流れ、次のフレームで、空白。半秒の欠落。廊下に人影はなく、次のフレームで、影が戻る。何も動いていないようで、すべてが変わっているような、気持ちの悪い滑らかさ。
「録画を巻き戻すな」
ユナがすぐ言う。「見たものを“今ここで”だけ記録する」
御子柴がスペアナの画面を指で叩いた。「今、縁の撫で方が変わった。——“見られている”のを知ってる手の癖」
レイジはペン先を強く紙に押しつけ、書いた。
——ZE.R0、こちらを見ている。
——時間の狭間で、視線が交差。
——幽刻は使わない。
アヤカは深く息を吸い、止めた。止める拍は短い。短くていい。彼女は刃の柄に触れず、ただ真っ直ぐに前を見た。廊下の突き当たり、旧理科準備室の扉が、風のないのに、ほんのわずか揺れた気がした。
「入ろう」
彼女は言う。
「00:00:00 の外側で」
扉の向こうで、誰かの歩幅の音が、一段、二段。階段を飛ばす癖のある、背の高い歩き方。
ゼロの縁に立つ音。
時間の狭間に撒かれた、挑戦状の音。
レイジは観測者ノートを閉じ、胸ポケットに差し込んだ。
紙は増える。
呼吸は続く。
ゼロは、外側で待っている。
彼らは、そこへ行く。
刃は鞘に、紙は手に。
時間の狭間で、会うために。




