第21話 彼女の死と蘇生
昼下がりの校庭は、風の向きを確かめるようにゆっくり旗を揺らしていた。講堂での公開検証を終え、新聞部の臨時号外も貼り出され、緊張の糸は校舎じゅうでほどけかけている。保健室の前に積み上げられた簡易ベッドの予備、体育倉庫から運び込まれたパーテーション、空になった紙コップ。雑然とした片付けの気配は、事件が現実の床に降りたことの証で、足元の影はいつもより少しだけ短い。
朝霧レイジは観測者ノートを閉じ、ペンのクリップを制服の胸ポケットに滑らせた。篝アヤカは校庭の中央に視線を投げ、深く息を吸って、吐いた。呼吸の糸は細いが、切れてはいない。切れないはずだ。そう思っていた。
次の瞬間、彼女の右手から、力がすっと抜けた。肩がわずかに落ち、膝が前へ折れる。レイジは反射的に手を伸ばし、支えようとしたが、指先は間に合わなかった。アヤカの身体は芝生の上に静かに崩れ、視線は空へ抜け、瞳孔の輪郭が光を失っていく。
足音が砂を蹴った。水無瀬ユナが駆け寄り、早乙女ミコトが声を上げる。「アヤカ!」 御子柴カナメは周囲を一瞥し、近くの教諭に救急車の要請を指示する。「十一九、呼吸停止、校庭中央!」
レイジはアヤカの頬に触れ、呼びかける。返答はない。胸の上下動——ない。頸動脈——脈を指先が探し、空を掴む。「……脈、ない。ユナ、タイマー!」 ユナがスマートフォンのストップウォッチを起動し、声に出して時間を刻む。「いち、に、さん——」
レイジは片手で顎先を上げ、気道を確保。口腔内に異物がないことを一瞬で確認し、鼻をつまんで人工呼吸を二回。胸骨の位置を探る。剣状突起を避け、胸骨中央へ手根を置き、もう片方の手を重ねる。腕は伸ばし、肘を曲げない。体重を真上から落とす。胸骨が沈む感触は硬く、そして戻る。
胸骨圧迫——三十。呼吸——二。
ユナの声が時間を切る。「二十秒、二十五、三十——」
芝生の匂い、遠くの校舎のざわめき、風の音。世界は音を持っているのに、アヤカの胸は、動かない。レイジは歯を食いしばり、圧迫のリズムを変えない。速すぎても遅すぎてもいけない。百から百二十。指先で彼女の骨の下にある心臓の拍動の影を想像する。戻れ、と命じる。戻れ。
ミコトは祈るように手を組み、合間に周囲の人々を下がらせる。輪を広げ、空気を空ける。「すみません、離れてください、風を止めないで——」彼女の声は震えるが、指示はまっすぐだ。御子柴は体育倉庫に走り、救急用のAEDを持って戻る。ケースの蓋を開け、電源。アナウンスの合成音声が、騒がしい現実に割り込む。
「電極パッドを装着してください——」
レイジが圧迫をいったん止める。ユナが時間を告げる。「八十秒——」
パッドを剥がし、胸の右上と左の側胸部へ貼る。肌は冷え、薄い汗が湿り、粘着面がわずかに空気を噛む。ケーブルを接続。
「心電図を解析しています。患者に触れないでください——」
時間が針で律されるように遅くなる。校庭の旗が、風に一度だけ大きく揺れる。
「ショックは不要です。胸骨圧迫を再開してください——」
レイジは再開する。三十、二。三十、二。手のひらの骨が軋み、腕が熱を持ち始める。呼吸のための二拍で彼は自分の肺も絞り出し、彼女の肺へ空気を渡す。ミコトはセカンドタイマーを回し、御子柴は肩の位置を微修正する。「もう少し上。戻しを確実に」
ユナの声。「百秒——百二十——」
百二十秒のうち、一・四秒。
アヤカはその一・四秒の中にいた。
◇
光は白だった。白でありながら、紙よりも軽い。呼気の音はない。世界の音は切り取られている。幽刻——死の手前の一秒。いつもより長い。刃の縁が広がり、縫い目の針が休みなく動く。重力が薄れ、ものの輪郭が紙片のようにめくれていく。
アヤカは、子供になっていた。小さな手、小さな爪。指の腹に薄い傷がいくつもあり、その一つひとつが時刻の目盛りのように等間隔には並ばない。夜の居間。父の膝、テレビの青い光、壁の時計。秒針は止まらない。むしろ速く見える。世界はいつも彼女を置いていく。彼女だけが遅い。置いていかれる怖さに、彼女は椅子を引き、時計に手を伸ばし、落とした。ガラスが割れ、秒針が床で、零になる。
父が慌てて駆け寄る。「アヤカ!」 母が小さく息を呑む。家の空気が固まる。彼女は泣かない。泣いたら時間が動くような気がしたから。泣かなければ、止まった一秒を永遠にできると、子供の彼女は思った。その思い込みは、彼女を救わず、しかし彼女を作った。
時計は止まっている。けれど、台所の蛇口は落ちる。音は逆流しない。父の腕の筋肉は震え、母の指は電話のボタンを間違えない。世界は続く。止まったのは、時計だけ。止められたと思った一秒は、ただの表示だった。
アヤカは、床に膝をついた。子供の視線は低く、床の木目がうねり、破片の間にやわらかい塵が溜まっていることがよく見える。細いガラス片に自分の目が映り、そこに映るのは、止まった秒針と、止まらない呼吸。
止まらない呼吸——誰の?
白い世界が小さく波打つ。遠いところで、誰かが数を数えている。いち、に、さん。声は緊張の膜を通して届く。伸ばさない四拍。圧迫の音の気配。胸の奥で針が引かれる。戻れ。戻れ、と何度も命じる声。
彼女は子供の彼女に言う。
——もう、壊さないで。
——壊すのは時計じゃない。
——止めるのは、あなたじゃない。
子供の彼女は振り向かない。振り向かないから成長する。振り向かなかったから今がある。ならば彼女が振り向く。等速で、遅れない。止められない。止めない。世界は続く。息も続く。
破片の間で、秒針が一度だけ微かに、跳ねた。跳ねたような気がした。気がしただけでも、いい。幽刻の白は、縁からほつれて、現実の色にほどけていく。黒板の粉のような、芝生の匂いのような、誰かの汗の塩の味のような。彼女は空気を吸う前に、先に涙が出た。涙は重力に引かれず、光に引かれて落ちる。落ちる場所は、胸の中だった。
◇
ユナの声。「百三十——百四十——」
レイジの手は正確に動いている。ミコトは両手を胸に押し当て、御子柴はAEDのアナウンスに合わせてスイッチの位置を再確認する。教諭たちの足音は円の外に留められ、救急車のサイレンが遠くで、規則正しく近づく。
レイジが圧迫を止め、人工呼吸を二回。再開する。胸の弾性、戻り——手に伝わる情報は、わずかに変わった。弾む。薄く、しかし確かに。
ユナの声がひとつ跳ねる。「百四十五——」
アヤカの喉が、かすかに鳴った。咳とも呼吸ともつかない音が、空気の膜を破る。胸が浅く、しかし自力で上下する。レイジは圧迫の手をいったん止め、頸動脈へ指をあてる。
脈——ある。薄いが、波がある。
「戻った」
レイジの声はやわらかくない。確認の線だ。火照った手のひらが震える。
ミコトが泣き笑いの顔で「アヤカ」と呼ぶ。御子柴が短く息を吐き、ユナはタイマーを切り替えて、経過時間をノートに記す。「心停止推定一・四秒——再呼吸、百四十五秒」
アヤカのまぶたがゆっくり開き、光が瞳の上を流れていく。焦点は初めは結ばれず、次第に、レイジの顔の輪郭を捉える。レイジの額には汗、頬には芝の粉。口元が緊張で薄く引き締まり、目の奥だけがほどけている。
「レイジ」
アヤカは、自分が自分の声を出すのに驚いた。息が音になる。それは、止まった白の中では起こらない現象だ。
「……壊さない」
「何を」
レイジは問いかける。問いの調子は、彼がこれまで記事で作ってきた質問の調子と同じだ。感情を先に置かない。答えの入る器を開けるだけ。
「時計」
アヤカは言って、自分で笑った。涙はもう頬に流れている。手の甲で拭う。拭う手が震える。
「壊しても、時間は止まらない。子供の頃、私は壊せると思ってた。——だから、もう、逃げない」
レイジは彼女の手を握った。握る強さは、胸骨圧迫よりずっと弱い。けれど、戻る力は同じくらい正確だ。「約束する。君の“死の一秒”を、僕は全部、“生きるための記録”に変える。何度でも」
アヤカは頷いた。胸の中の針目はまだ痛むが、痛むことが彼女を縫い合わせている。痛まないとき、彼女はほどけてしまうのだと、白い世界で学んだ。「お願い。私は私の刃を鞘に入れたり出したりするだけ。生きる側へ戻す地図は、あなたが持って」
「任せて」
レイジは笑った。息はまだ少し上ずっているが、笑いは落ち着いている。「地図は紙でできてる。破れても、継ぎ目が残る。継ぎ目の分だけ、次は強い」
救急車が校門に滑り込み、救急隊員が駆けてくる。隊員の指示は手短で、確実だ。酸素マスク、血圧測定、心電図。数字は現実の側で彼女を囲い、幽刻の白はもう彼女の背に回っている。ユナは学校の医師と連絡を取り、保健室へ搬送の動線を作る。ミコトは小さく祈り続け、手をほどかない。御子柴はAEDを電源オフにし、ケースを閉じ、隊員に状況を伝える。「心停止推定一・四秒。胸骨圧迫開始から蘇生まで百四十五秒。ショック無し」
担架が下ろされ、アヤカはそれに乗る。空を横切る旗の影が彼女の頬を一度かすめ、消える。彼女はマスク越しに一度だけ息を深く吸い、レイジの手を探す。レイジは片方の手で担架の縁を押さえ、もう片方で彼女の手を包む。「保健室まで付き添う」
「来て」
短い言葉に、すべてが入っていた。
◇
保健室はいつもの白で、いつもの薬品の匂いが強い。細長い窓から光が斜めに落ち、ベッドの柵とカーテンの影が床に薄い格子を作る。養護教諭は落ち着いた手つきで酸素流量を調整し、救急隊員から経過を引き継ぐ。数値は安定に向かっている。心電図の山は低いが規則的で、呼吸の波は浅いが、切れない。
ミコトはカーテンの外に立ち、胸の前で手を組んだ。祈りの手つきは、フェーダーを握る手と似ている。動かすことで音を決めるのではなく、動かさないことで静けさを守る手つきだ。彼女は祈る相手を持たない。祈りの相手は、呼吸だ。呼吸が続くように、とだけ願う。
御子柴は壁際で独り言のように呟いた。「合理で説明できない選択が、人を動かす。……ゼロに寄らない、と決める選択も、合理では測れない。けど、それで動いた」
ユナが隣で頷く。「運用は合理で作る。けど、最初の一歩は、たいがい、合理じゃない。——だから、照明は人に付く」
保健室の扉が小さく開き、警察の私服が顔を出す。「様子を見に来ました。会長は署での手続きに入りました。顧問の方は、供述が始まっています」 ユナは手短に礼を言い、扉を閉める。
カーテンの内側。レイジは椅子に腰掛け、アヤカの手を握ったまま、観測者ノートを膝の上に開いた。ペン先が紙の上に落ちる音は、保健室ではすこし大きい。彼は書く。匂い、温度、騒音、足音、影の角度。——そして、時間。数字の列は、さっきまでの恐怖の余白を埋め、呼吸の速度に少しずつ追いついていく。
アヤカは目を閉じている。閉じたまま、小さく笑った。「書いてる音、聞こえる」
「聞かせてる」
レイジは答える。「君が戻ってくる道を、紙で引き直す音」
「ねえ」
アヤカは目を開け、白い天井を見た。
「子供の頃ね、時計を壊したことがあるの。止まると思ってた。止まれば、怒られないと思った。宿題も、朝も、夏休みの終わりも、みんな止まると思った。止まらなかった」
「止められないから、記録が要る」
レイジは言葉を置く位置を選ぶ。「止められない時間に、線を引く。ここに君がいた、って」
「ありがとう」
アヤカは喉を潤すように唾を飲み込んだ。
「もう、逃げない。逃げないって決めるの、合理じゃないけど、私の“最初の一歩”は、そこからでいい」
「十分、合理だよ」
レイジは笑う。「生きるのに合理は要らないけど、生き延びるのに合理は役に立つ。君の“最初の一歩”に、僕の“次の十歩”を合わせる。そういう合理なら、僕は信じる」
カーテンが少し揺れ、ミコトが顔を覗かせる。「入っていい?」
「いいよ」
レイジが答えると、ミコトはそっと中へ入り、ベッドの端に腰かけた。目は赤いが、声は安定している。「生きてて、よかった」
「まだ死んでないよ」
アヤカが冗談を言うと、ミコトは頬を膨らませ、すぐに笑って、涙ぐんだ。「死なないで。幽刻は、あなたを“人と繋げる時間”なんでしょ。……じゃあ、繋いで。私とも、みんなとも」
「繋ぐ。約束する」
アヤカはミコトの手も握った。温度は違うが、握り返す力の方向は同じだ。握った手の数が増えるたび、幽刻の白は遠ざかる。白は刃の色だ。刃は必要なときだけ、光ればいい。
御子柴がカーテンの外から声をかける。「今夜、条文のドラフト、投げる。見てくれ」
「見る」
アヤカは即答する。
ユナが運用の案を読み上げる。「質問票は紙で、匿名不可、週次回答。『ゼロに寄らない』ガイドライン、草稿できた。——“止めない・隠さない・煽らない”。三原則」
「いい」
アヤカは目を細める。「短いの、好き」
保健室の時計は、静かに進む。秒針は、規則的に音を打つ。彼女はその音を嫌わない。嫌うために壊した過去を思い出しても、今は、壊さない方を選ぶ。選ぶという行為は、合理で測れないが、紙で残せる。残すために、レイジがいる。
「レイジ」
彼女はもう一度、彼を呼んだ。
「ねえ。もし、また私が——」
「言うな」
レイジはやわらかく遮る。「言葉にすると、刃がそっちへ向く。……君が幽刻へ行くときは、僕がここで線を引く。戻るときは、ここへ来る。紙の上で会おう」
「うん」
アヤカは目を閉じ、呼吸を数えた。止める時間は、さっきより短い。肺は痛いが、痛みは“いま”の証明だ。彼女は痛みを嫌わない。嫌うのは、無感覚だ。
白は遠い。匂いは薬品と紙。音は呼吸とペン。影の角度は、窓の外の光の変化でゆっくり浅くなる。
保健室の扉の向こうで、靴音がひとつ、ふたつ。先生が通り、誰かが走る。世界は止まらない。止まらない世界を、彼女はようやく受け入れる。受け入れることが、逃げないことだ。
◇
夕方。空は薄く茜に傾き、校舎の窓に色を乗せる。保健室のベッドの上で、アヤカは上体を起こした。養護教諭が慎重に注視し、数値は安定している。「今日は安静に。明日は病院で精査。——幽刻は、ほどほどにね」 冗談めかす口ぶりに、アヤカは苦笑で返す。「先生、ほどほどっていちばんむずかしい」
保健室の外では、ミコトがスマートフォンを握り締め、目を閉じて深呼吸を繰り返していた。祈りの形は、呼吸に似ている。呼吸は祈りだ。御子柴は机に向かい、条文の“前文”に悩んでいる。「倫理って言葉、入れるか?」 ユナが肩越しに覗いて「入れない。運用の言葉だけで行く」と言う。
レイジは観測者ノートの最後のページに、今日の見出しを記す。
——校庭、心停止一・四秒。蘇生百四十五秒。AEDショック無し。
——幽刻:子供の記憶、時計破壊。
——告白:「もう逃げない」。
——再誓約:「死の一秒を、生の記録に」。
——祈り:ミコト。
——観察:「合理では説明できない選択が、人を動かす」御子柴。
ペン先が止まる。彼は少しだけ目を閉じ、紙の余白に細い線を一本引いた。余白は、言葉にならない拍のためにある。今日の余白は、長くない。長くないことを、彼は喜ぶ。
カーテンがもう一度だけ揺れ、アヤカが顔を出した。色が戻っている。瞳の輪郭ははっきりし、頬の温度は、指で触れずとも分かる。「ねえ、レイジ。窓の外、夕焼け。……きれい」
「きれいだ」
レイジは立ち上がり、カーテンを広げた。
窓の外の光は、校庭の芝を横から撫で、旗を下から照らす。影は長いが、濃くない。
「明日も、同じ時間に、同じ場所に、同じ色は来ない。だから、記録する。今日の色は、今日だけ」
「うん」
アヤカは笑った。
「今日の色を、今日の言葉で」
彼女は時計を見た。秒針は、進む。不揃いに見えることはある。見えるだけだ。進む。進むなら、彼女も進む。ゼロに寄らず、外側で。刃は鞘に。必要なときだけ、光る。光るときは、観測者の紙へ渡す。紙は線を引く。線は、呼吸と同じ速度で。
祈りの外で、現実は音を持つ。救急車のサイレンは次の場所へ向かい、職員室の電話は別の相談に応じ、講堂のセットは解体され、鏡は布に包まれて倉庫に戻される。顧問は取調室で自分の言葉の順序に向き合い、会長は署で紙に向かう。トワは“危険性の章”に文章を打ち、ミコトは無音の証明を編集して公開用に整える。御子柴は条文の前文から“倫理”を追い出し、ユナは運用の一行目を短くする。
レイジはアヤカの手をもう一度握って、言う。「行こう。ゆっくりでいい。ゼロじゃない時刻で」
「行こう」
アヤカは頷いた。
「ゼロの外側で、生きよう」
窓の外で、風が一度だけ強くなり、旗が大きく鳴った。秒針の音は風に消えない。消えないことが、今は安心だ。
彼らは、次の一秒へ向けて、体を起こす。
呼吸は続く。
紙は増える。
刃は、鞘に。
そして、必要なときにだけ、光る。




