第19話 零秒の告白
市立時計塔の足元は、夜風で少しだけ冷えていた。改修工事中のフェンスは一部が外され、管理者立会いのもとで、わたしたちは塔の踊り場まで上がる許可を得た。今夜だけ、階段の錆びた匂いと油の匂いが混ざる。その混ざり具合は、観測者ノートに書けば「鉄・油・夜気」と三語で足りる。けれど、紙に載らないものがある——修理を終えたばかりの歯車の、微細な“待機音”。金属が、動く前にだけ鳴らすきいんという緊張の響き。
レイジは踊り場の縁に三脚を据え、新聞部の簡易配信機材を繋いだ。市の許可の範囲で、校内チャンネルと教育委員会に限定配信する。画角は塔の針と、こちら側の顔を同時に映す斜めの構図。ユナはバッテリーの残量を確かめ、御子柴カナメは予備のアンテナの角度を微調整する。「風が強い。指向性、ほんの少し右」と彼が言う。
会長は塔の壁にもたれ、警察署員と短い会話を交わしていた。自首の意思は既に伝え、今夜は「説明の場」を一度だけ設ける条件で同行してもらっている。彼は頷き、こちらへ戻って来ると、視線だけでトワの所在を確かめた。
簡易ベンチに座るトワは、まだ少し顔色が薄い。だが、目の奥に沈んでいた濁りは引いている。点滴は外れ、袖口のテープだけが小さく残る。隣にはミコト。彼女は泣き腫らした目を洗い、放送部のヘッドセットを首にかけて、今は“音の見張り番”に徹している。
「回線、安定。音も入ってる」
ミコトが手を挙げると、レイジが親指を立てた。
「時間、確認」
ユナが時計を掲げた。
「JSTで二十三時五十五分。——“ゼロ”じゃない“告白”の時間が始まる」
アヤカは塔の針を見上げ、それから一度だけ深く息を吸った。呼吸のたびに、胸の奥で縫い目のような痛みが走る。幽刻を長く使った日は、針が太くなる。けれど、この痛みは“繋がる側”に身体を置いた証拠でもある、と彼女は自分に言い聞かせる。
「始めよう」
アヤカが小さく頷くと、レイジがカウントを示した。
「三、二、一——入った」
画面のランプが緑に変わる。校内屋上の受信機が働き出し、新聞部サイトの臨時ページには「時計塔からの声明」とタイトルが載る。教育委員会の担当者へは、URLが自動で送られる設定だ。
最初に立ったのは会長だった。制服のブレザーの襟が夜風に僅かに揺れ、その揺れが彼の声の震えと同じリズムを描く。
「生徒会長として——いえ、一人の生徒として、話します。私は、東雲トワを“守る”と称して、校内で虚偽の密室を作り、時刻の基準を弄りました。『ゼロ』に寄りかかることで、誰かを傷つけました。逮捕監禁、証拠隠滅、その場しのぎの“正義”で、順序を壊しました。
間違っていた。けれど、守りたい気持ちは嘘じゃない。——その矛盾の責任は、私が取ります。これから署へ行き、紙に載せます。どうか、その紙が、彼の研究と人生の重さを減らす方向ではなく、整える方向に働くよう、見届けてください」
言い終えると、会長は一礼した。深い礼ではない。長くもない。しかし、針が一歩進む音と重なった。
続いて、トワが立つ。ミコトがヘッドセットのボリュームを少しだけ落とす。彼の声は強くないが繊細で、少しの風で吹き寄せられそうな線の細さを持っている。
「僕は東雲トワです。皆を巻き込んだ責任は、僕にあります。
僕の研究——時刻同期のズレが人の認知に与える錯覚の検証——は、結果だけを切り出されれば、道具にも武器にもなります。僕は、その結果を“正しい文脈”で受け渡すための準備を怠りました。だから、今日から、研究を公開リポジトリに解き放ちます。
手法、限界、危険性、倫理的配慮、被験者の扱い、そして“やってはいけない応用”の項目まで、全部、書きます。独占と搾取を避けるために、動く。
ライセンスは、誰でも読める形で。ただし“人を傷つけない”ための条項を強く入れる。——それでも抜け道はあるでしょう。だから、皆に見てもらいます。間違いがあれば、紙の上で、指摘してほしい」
御子柴が小声で「ライセンスの条文なら手伝える」と呟き、ユナが頷いた。「照明課の先輩でオープンソース詳しい人、つなげる」
「それから」
トワは会長の方を見た。
「ありがとう。僕を、守ろうとしてくれて。でも、選び直して。ゼロに頼らない選択を。罪は紙にして、手放して。これ以上、自分の中だけで抱え込まないで」
会長は短く息を吸い、喉が上下した。「分かった。——あなたの言葉で、やっと、向く場所が見えた」
ミコトは泣かないように唇を噛んだ。彼女の視線は、時計塔の針と、トワの横顔を何度も往復する。風が一段強く吹き、ヘッドセットのケーブルが頬に触れる。彼女はそれを直し、すぐに視界を戻した。
アヤカはレイジに目で合図した。次はふたりの番だ。カメラは塔の針を少し外し、彼らの肩から上を中心に据える。背景に、遠い街の灯りが散る。
「私も、話す」
アヤカは、塔の外壁に軽く背中を預けた。
「幽刻——死の手前の一秒に触れる体質を、私は持っています。使うたびに心電図に傷が刻まれ、寿命が削れる。だから、軽々しくは使わない。
でも、幽刻は、私を“人と繋げる”時間でもある。止まった世界で、届かないはずの手に、私の指が触れる。止まった涙の球の表面に、部屋の光が反射するのを見て、私は、その涙が落ちる世界のことを考える。
死に寄った時間は、孤独です。そこに一人で長く居続けるのは、刃を握り続けることに似ている。——だから、私は観測者の手を必要とする。私が見てしまう“一秒”を、誰かが“生きるための時間”に戻してくれる必要がある」
レイジは頷いた。彼は、持っていた観測者ノートを胸に当て、ほんの少し前へ出た。
「君の“死の一秒”を、僕は生きるための記録にする」
レイジの声は、風に乗って軽く揺れたが、言葉は崩れなかった。
「匂い、温度、騒音、足音、影の角度。君の刃が触れた場所に、僕の紙の線を引く。感情で歪ませない。けれど、感情を“無かったことにもしない”。——君が削る命を、削られただけの線で終わらせないために」
アヤカは、少しだけ笑った。針で縫った胸の痛みが、今は“ある”ことの証明に変わる。「ありがとう」
ふたりの距離は、ほんのわずか、縮まった。手の甲と手の甲の間に、風が一本ぶん入り込めるかどうかの距離。その近さを、誰も大仰に見ない。ミコトは見ても泣かず、ユナは見ても茶化さない。御子柴だけが、半歩後ろで照れ隠しに咳払いをした。
時計塔の針が、静かに進む。レイジは画角をわずかに変えて、針と人の顔が同じ平面に乗るようにした。ライブのコメント欄は閉じているが、受信端末の数は数字で現れる。校内の視聴が増え、教育委員会の端末も入ってくる。警察の広報端末からもアクセスがあった。紙は届いている。
「公開リポジトリの案内、今送る」
ユナがタブレットを操作し、QRのオーバーレイを画面の隅に出した。
「『幽刻に関する研究の技術文書・倫理文書』。ライセンス案は“共有・派生可。ただし、個人の自由を侵害する用途・身体拘束・心理的圧迫・政治宣伝・軍事的利用への応用を禁ず”。危険性の章に、具体例を細かく記述」
「“再現可能性”の章は?」
御子柴が口を挟む。
「“条件を揃えれば再現はできるが、観察者の思い込みを排除しない限り、結果は偏る”。——そう書く。装置よりも、人の“順序”が結果を決める、と」
トワは小さく頷き、マイクへ向かって言葉を重ねた。
「公開は、免罪符じゃありません。僕は、今夜のことの責任から逃げない。被験者の扱いを誤った。——だからこそ、紙にします。責めてほしい。正してほしい。
僕は、被験者である前に、人間です。研究者である前に、生活者です。僕は、僕の名前で、僕の研究を世に出す。誰かのプロダクトの“原材料”になるためにではなく、“語り手”として」
ミコトが、堪えきれずに笑った。「語り手としてのトワ、世界でいちばん好き」
会長が一歩前に出た。「最後に、もう一度。——ごめん」
トワは頷き、手を差し出した。握手は短く、しかし確かだった。手の温度が伝わる。ミコトはその横で両手を胸の前に組み、泣かずに笑う。ユナは息を吐いて、配信のVUメータを見て、「いい音」と独り言。
警察の私服の一人が合図を送る。時間だ。会長はもう一度礼をし、警察官とともに階段へ向かう。足音は落ち着いている。逃げない足音だ。アヤカはそれを見送るだけで、引き止めない。止めるのは、いつも“悪手の方”であって、正しい順序の歩みは止めない。
配信は、あと五分続ける。トワの研究リポジトリの“危険性”の章から要点を読み上げ、質疑応答は紙で受け付けることを伝える。匿名質問は受けない。理由はひとつ、「匿名が順序を壊す場面を、私たちはもう見たから」。それをユナが読み上げると、レイジは短く頷き、カメラを引き気味にして塔の針を画面いっぱいに入れた。
「最後の一拍、伸ばさない」
ミコトが静かに言う。
アヤカは空を見上げる。雲が薄く裂け、星が二つだけ見えた。幽刻で見る星は止まったまま笑わないが、今見える星は、風に隠れたり出たりする。動くから、笑っているように見える。
「締めるね」
レイジが息を整え、カメラの傍らで声を立てない合図を送る。
「三、二、一——」
「今日、わたしたちは『ゼロ』に寄りかからない言葉を置きました」
アヤカはゆっくりと言った。
「もしあなたが、誰かの“ゼロの演出”に巻き込まれそうになったら、思い出してください。時間は、つながっている。切るのは容易い。つなぎ直すのは難しい。——難しい方を、選ぶ」
配信は、そこで終わった。ランプが赤から白に戻る。風が塔の四隅を回り、夜の音が少しだけ大きくなる。
機材を片付け、踊り場の照明を落とす。階段を降りる足音が、今夜は整っている。同じ速度、同じ拍。誰も走らない。誰も遅れない。
塔の下、広場のベンチに腰を下ろすと、ミコトがトワの肩に静かにもたれた。御子柴はペットボトルの水を一本ずつ配り、蓋を開ける。ユナはメモを出して、明日の学校の動線と安全管理のメールの草稿を書き始める。「掲示は一時間ごとに更新。質問はフォームで受けて、荒れたら閉じる。——いや、最初から閉じる」と彼女は独り言のように言い、すぐに「閉じる、で決まり」と自分で結論を置いた。
レイジは観測者ノートを開き、最後のページに細い文字で記す。
——時計塔の夜。匂い:鉄・油・夜気。温度:二一度から二〇度へ緩降。騒音:風・遠い車。足音:六人が同じ速度。影の角度:塔の外灯三二度。
——告白:会長の自首の意思表明。トワの公開宣言。アヤカの幽刻告白。ミコトの無音の更新。御子柴の条文支援。ユナの運用草稿。
——「君の“死の一秒”を、僕は生きるための記録にする」。
——距離:わずかに縮む。
ノートを閉じると、アヤカが隣に腰を下ろした。彼女は胸に手を当て、痛みの長さを測るように呼吸を数えた。吸う、止める、吐く。止める時間は、昨夜より短い。
「痛む?」
レイジが訊く。
「痛む。でも、痛みがあるから、今夜のことを忘れないでいられる」
アヤカは笑った。
「痛いのは悪いことばかりじゃない。——忘れないための“標識”にもなる」
「じゃあ、僕は、その標識の位置を紙に書く」
レイジはペン先でベンチの木目を軽くなぞる。「地図、作ろう。君が削った分だけ、僕がつなぐ。君が触れた一秒の数だけ、僕は行を増やす」
「頼りにする」
アヤカは、ほんの少しだけ肩を寄せた。風がその隙間へ入ってきて、すぐに抜けた。温度が僅かに混ざる。夜の匂いの中に、紙とインクの匂いが弱く混ざる。
広場の向こうで、パトカーのテールランプがゆっくり動き、角を曲がって消えた。会長は今頃、署で紙と向き合っているだろう。顧問は事情聴取を受け、ログの意味と向き合う。支援者は、紙の順序について説明をされ、しばらくは動けないはずだ。
「トワ」
ミコトが、肩に頭を預けたまま、囁くように言った。
「帰ろ。明日から、ちゃんと寝て、ちゃんとごはん食べて、ちゃんと笑う。研究は、そのあと」
「そうだね」
トワはほほえみ、空を見上げた。
「明日、まずは『危険性』の章から仕上げる。——人が、人であり続けるための“使い方”を、いちばん最初に置く」
「順序、だいじ」
ユナが草稿を閉じ、背伸びをした。
「順序が整ってると、照明は勝手に“きれい”になる。今日、そう思った」
御子柴がにやりと笑った。「俺の端子、使いどころはここから。ゼロを作る歌詞じゃなく、ゼロに“寄らない”ための保護回路」
「ゼロが悪いわけじゃない」
アヤカが首を振った。
「ゼロに寄りかかった“順序”が悪手になる。——ゼロは数学の友達。私たちの敵じゃない」
「数学の友達、か」
レイジは空気の温度を一度だけ測り、「二〇度」と口に出して笑った。
「友達に、礼を言わないと」
時計塔の針は、いつも通りの速度で進んでいく。今夜、わたしたちが置いた言葉は、針と同じ“等速”で、後から見る人へ届くはずだ。
幽刻の刃は、鞘に納める。必要なときだけ、抜く。抜いたときは、観測者の紙へ渡す。紙は、行を増やす。行は、呼吸と同じ速度であるべきだ。早すぎても遅すぎても、誰かを苦しめる。
「帰ろう」
レイジが立ち上がる。
「校舎は、明日も同じ場所にある。けど、紙は、今夜のことを知ってる」
「そうだね」
アヤカも立ち上がった。
「そして、わたしたちも」
広場を横切るとき、塔の影がいちどだけ彼女の顔にかかった。影は濃く、しかし短い。通り過ぎる。その短さが、今夜の合図のように思えた。
ゼロ秒の告白は、ゼロの外側で為された。
それは、止まった時間の上に置かれた挑戦状ではなく、動く時間の中で選び直された“言葉”だった。
言葉は、誰かの鍵穴に合うように作られていない。鍵は、それぞれが自分で持つ。
自分の手で回すとき、はじめて扉は開く。
風が背中を押す。
わたしたちは歩き出す。
次の頁へ。
次の一秒へ。
ゼロに寄らない、その外側へ。




