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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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第18話 被験者と観察者

 雨粒がフェンスの穴を打ち、中央通りの再開発区画が低い金属音の譜面になっていた。空きビルの外壁は古い塗装の上からさらに白を重ねられ、その白が雨に濡れて鈍く光る。表からのシャッターは閉じたまま。会長が示したのは裏手、搬入口の鉄扉だった。


「鍵は三つ。シリンダの実鍵、上部の補助ラッチ、横桟の差し込みバー」

 御子柴カナメが機材バックを下ろし、膝をついて覗き込む。

「差し込みバーは内側からだけ外せる。……けど、ここ、バーの下に微小の隙間がある。フェルトの粉が出てる。最近、出し入れされた跡」


「音は」

 水無瀬ユナが耳をつける。

「空調なし。中の音は薄い。電子のノイズも、今は聞こえない」


 早乙女ミコトは震える息を整え、両手を結ぶように握った。「トワが中にいるなら、私……」


「泣くのは後」

 篝アヤカが言い、ミコトの指先に軽く触れた。温度を確かめるように、短く。

「あなたの無音は、今夜は“扉を開ける”方に使う」


 会長は鍵束を握り直した。苦い諦念の影は、もう表情の上で位置を決めている。「顧問は来ている。今日の私たちの紙を、もう読んでいるはずだ。——でも、間に合う」


 レイジは観測者ノートの表紙に小さく書いた。


 ——空きビル裏扉前。匂い:鉄、湿った塗膜、古い埃。温度:外気二一度。騒音:雨三二dB。足音:五人。影の角度:搬入口上照明に対し二五度。


 御子柴がすばやく細いL字バーを組み、横桟の隙間に差し入れて上げる。「一本目——外れた。……会長、実鍵を」


 シリンダが回る。内部のラッチが解放される短い金属音が、雨の譜面を一瞬だけ断った。


「入る。順序」

 アヤカが小さく四拍を切り、素早く視線で配置を示す。

 先頭は会長とユナ、続いてアヤカとレイジ、殿に御子柴。ミコトは中央に。逃げ道と遮蔽物、階段位置の確認。

 扉が開く。乾いた埃の匂いの上に、異質なものが薄く載ってきた——消毒用アルコール、それから、プラスチックを加熱した甘い臭い。


 ロビーは暗い。非常灯だけが緑の小さな四角で出口を示す。足元はコンクリートむき出し。レイジは呼吸を数えながら、一段ずつ、観測者ノートの行を増やしていく。匂いは強く、温度は外より少し低い。右側の壁に白い掲示板、その下に折りたたみテーブル、ボトルの水。——生活の痕跡。


 二階への階段。手すりに新しい布拭きの跡。三階へ続く足音は一種類ではない。踵で打つ硬い音が二、ゴム底が一、軽い革靴が一。 


 三階の踊り場。薄い光が差し込み、廊下の先に“光に切れる影”が一本。廃塾時代の教室だった部屋の前だ。扉にノックの痕。内側から何度も小さく叩いたような、点々の擦れ。


 会長が鍵束から一本を選び、差す。「これだ」


 開いた。


 匂いが変わる。消毒、血清、金属。モニターの低いビープ。

 簡易ベッド。手すりに白いベルト。透明の点滴ライン。心電モニタの緑の線がゆっくり上下し、呼吸センサの青が遅れて追う。

 ベッドの上、東雲トワ。目は閉じている。皮膚は乾き気味だが、顔色に致命の陰はない。手首には柔らかい固定具。麻酔の匂いは薄い。覚醒は近い。


 部屋の奥、白衣に近い色のジャケットを着た男が立っていた。顧問。黒縁の眼鏡。ネームホルダーの紐は外され、ポケットに差し込まれている。手に持つのはタブレット端末。その背には小さく社名のシール。

 彼は会長を見ると、軽く顎を小さく上げる。「おや。想定より少し早い」


「彼を離せ」

 会長の声は硬い。

「支援は停止した。倫理審査をやり直す。あなたは紙の順序をすり替えた」


「順序の話はいい。——価値の話をしよう」

 顧問はタブレットを指で軽く叩いた。「“0秒音声”は再現可能だ。帯域の短い削減と、無音の挿入。教育、医療、交通安全。多くの産業で応用できる。ここで私に彼を渡せば、私は彼の研究を守る。警察に渡せば、研究は死ぬ。君はどちらを選ぶ?」


 アヤカが一歩踏み出す。

「あなたは“幽刻の存在は信じない”と言った。ならば、あなたに必要なのは“0秒音声の再現”だけだ。彼の身体も意思も不要なはず。——なのに、拘束して連れ去った。何のために」


 顧問の眉がわずかに動く。「彼の論文は、再現の条件を含んでいない。被験者の自述は信頼性が低い。——観察可能なデータに価値がある」


「観察可能なデータなら、会長と私たちが公開した。観測者ノートに“0秒音声前後の1.2秒のノイズ段差”が出ている。編集の痕跡は十分だ」

 レイジが口を挟む。

「被験者の拘束は、研究の条件に含まれない。“研究者の人格軽視”の証拠にしかならない」


「人格? ここでそんな文学の話をするのか」

 顧問は笑わないで笑った口を作り、小さく肩をすくめた。

「実装の話だ。製品。予算。承認。——彼は被験者であると同時に被験者の“鍵”だ。被験者がいなければ、価値は紙の上にしかない。紙の価値は、製品の価値とは違う」


 アヤカは顧問の足元を見る。革靴は乾いている。彼はここまで雨の影響を受けていない。——つまり、少し前にここへ入った。後から、出る前提。


「あなたは、研究の“価値”と人の“価値”を別の秤に乗せて、前者を重く見せる。——でも、今あなたが手にしているのは、“改竄されたログ”でしかない。順序を入れ替えて“ゼロがあったように”見せかけただけ」


 顧問はタブレットを前にかざした。「順序の話が好きだな。——なら、こうしよう。彼を一時間だけ預かる。その間に、彼の“再現可能性”を私の紙で立証する。終わったら戻す。警察には“保護”だったと説明できる」


「一時間」

 ミコトの声がかすれる。「そんなの、約束にならない」


「約束を信じないのか。君は若いのに疲れている。——私はね、若い研究者を何人も見てきたよ。理想を抱え、倫理を盾にし、最後には紙を捨てて消える。価値を残さない。私は彼に“残す側”になってほしい」


 アヤカは顧問の言葉の間に短い呼吸の切れを見つけた。語尾が少し走る——これは、焦りの兆候。焦りは、いつも手元を雑にする。

 彼女は目だけでレイジを捉え、頷く。レイジはほんのわずか、体の重心をずらした。合図は二拍。伸ばさない。

 アヤカは一歩、二歩、顧問に近づいた。足元のコードと点滴ラインを避ける。

 顧問の右手——タブレットを持つ手の親指の根元に、薄い金属の反射。ヒンジ式の小型キー。ラゲッジ用のポケットキーの変形。端末の“物理スイッチ”を開けるための特殊な鍵だ。


「鍵」

 アヤカの喉の奥の声は、誰にも届かないほど低い。——自分に向けた命令。

 彼女は吸った。止めた。吐かなかった。


 世界の音が、一枚剥がれる。

 幽刻。

 蛍光灯のうなりが点に変わり、モニタの緑の線が階段の一段のように固定される。レイジが息を吐き出す瞬間は、粒の散乱に変わり、ミコトの頬に載った涙の球は空中でねじれた形で止まる。

 アヤカは倒れる。倒れるのは必要な演出だ。現実側で、それは偶然に見える。幽刻側で、それは最短距離だ。床との角度を計算する。肩で受けない。肘で受ける。掌は鍵。

 顧問の右手に触れる。タブレットの背で、親指の付け根と鍵の間の隙間に指腹を滑らせる。汗はない。皮膚は乾いている。鍵は軽い。指に絡め取る。

 顧問の眼鏡のレンズには、逆さの自分が浮かんでいる。顧問の視線は遠く、止まっている。

 アヤカは肘で床に点を作り、倒れる姿勢の慣性を使って鍵を手から離す。小さな放物線。鍵はベッドの陰を避けて、レイジの位置へ飛ぶ。レイジの手は動かない。けれど、幽刻の外の彼は“拾いに移る途中”の筋肉の緊張を持っている。落下先を僅かに修正する。紙の上で計算した角度通り。


 吸う——止めたまま。

 指先が冷える。胸が針で縫われるように縮む。

 戻れ。

 彼女は内側で命じ、肺の奥で圧縮した空気をほどく。


 現実が戻る。

 音が一斉に産声をあげ、モニタは緑の線を動かし、ビープが一つ遅れて鳴る。

 アヤカは前方に倒れ、両膝と手のひらで床を受けた。肩が痛む。顧問が反射的に一歩下がる。

 鍵がレイジの靴先に当たって、カランと短い音を立てた。


「アヤカ!」

 ミコトの悲鳴が現実に戻る。

 レイジはためらわずに鍵を拾い、振り向きざま会長に投げる。会長は受け取り、ベッドの固定具のバックルへ差し込んだ。

 クリック。

 左手の固定が外れる。右手。足。腰。

 ユナが点滴の流量を止める。針は抜かない。角度だけ変える。

 トワのまぶたが震え、呼気が喉でひっかかってから、長い吐息が出た。


「何をした」

 顧問の声が低くなる。

「今のは——」


「転んだだけ」

 アヤカは立ち上がり、少し首を回した。

「床が濡れてる。拭き残し」


 顧問の目が細くなる。彼はタブレットを操作しようとし、背面のヒンジに指を伸ばした。鍵がない。遅れて気づく。唇の血色がわずかに薄くなる。


「鍵は?」

 彼は会長に向けて一歩踏み出した。

 会長は後ろの机に置かれた小型端末を引き寄せ、ケーブルをタブレットに接続する。デバッグ用の物理ポート。

「あなたのログ、復元する」

 会長の声は乾いている。

「ゼロの並び順を、戻す。——古い順序の紙の裏に隠した、“殴った一拍”を」


 顧問が初めて声を荒げた。「やめろ、それは——」


「お前は黙れ」

 ミコトが顧問の言葉を遮った。震えていた声が、腹から真っ直ぐ出る音に変わる。「あなたの“価値”で、私たちを測らないで」


 トワの視線が開き、焦点がゆっくりと手前へ戻る。「……ミコト」


 ミコトは堪え切れずに駆け寄り、彼を抱きしめた。点滴ラインに触れないように、肩と髪の間に顔をうずめる。涙がシャツの襟を濡らし、彼の呼吸がその湿りを温める。


「遅れて、ごめん」

 ミコトの声が滲む。「でも、ゼロじゃない時刻で来た。私の無音は、今はもう、あなたを隠さない」


 顧問は一瞬だけ彼女の背に視線を置き、それから会長の手元へ身を乗り出した。「会長、そんなことをしたら君も——」


「罪は引き受ける」

 会長は指を止めない。「私は、扉を開けた。扉の向こうを見ない選択をした。だから、今は見る。あなたのログも、私のログも、同じ時刻の上に置く」


 ユナが短く息を呑んだ。「来る」


 廊下の向こうから、複数の足音。警察の靴、早い歩幅。顧問の眉が跳ねる。

 レイジは観測者ノートに行を足す。騒音、増加。足音、三。影の角度、増光。

 御子柴が扉の位置をずらし、侵入者の視線からベッドのラインを遮る。


「顧問」

 アヤカは真正面に立ち、距離を詰めた。

「あなたは“観察者”だと言い張る。けれど今、ここであなたがやったのは“被験者の人格を手段にする”こと。観察者は、観察のために対象の条件を壊してはいけない。——被験者は、あなたの実験のために人であることをやめない」


「——理想論だ」

 顧問は吐き捨てる。「理想は価値にならない」


「価値は、順序で決まる」

 アヤカは揺れない。

「ゼロに寄りかかった順序は、刃になる。人を傷つける。——私たちは今、ゼロの外側で、順序を並べ直した」


 顧問は笑い、すぐに笑いを消した。「並べ直したところで、現実は……」


 扉が開く。警察。制服二、私服一。室内の構図を一瞥し、標準的な制圧動作で顧問の手元の端末から距離を取らせる。

 私服の一人が会長とアヤカへ目配せし、短く事情を問う。会長は端的に答える。「被拘束者の解放を実施。顧問は保護の名目で連れ去りを行い、ログの改竄で隠蔽を企図」


 顧問は抵抗しない。視線はまだ会長の端末に釘付けだ。「証拠になるものなど——」


「ある」

 会長はケーブルを引き抜き、画面を警察へ向けた。

「あなたが“巻き戻し”た基準時刻のログ。その前後の帯域削減のプリセット。暗室の換気レベルを段階的に下げた履歴。そして——地下倉庫での“戻り”の時間に、あなたのカードキーが一度だけドアに触れている。止められない痕跡」


 私服の刑事は頷き、顧問に手錠を見せる。「お話、署で続けましょう」


 金属音が短く、その場の音楽に新しい和音が加わる。顧問は顔を上げ、アヤカを見た。

「君は——幽霊を信じるのか」


「幽霊は信じない」

 アヤカは静かに首を振った。

「私は“幽刻”を見る。死の手前の一秒に触れられるだけ。……でも、そこに価値を置くのは、いつも“生きている側”の私たちだ」


 顧問は目を伏せ、連れられていった。足音が遠ざかるたび、部屋の空気が少しずつ柔らかくなる。

 ユナは窓を少し開け、冷たい風を一筋だけ入れた。モニタの緑は安定し、青い呼吸の波形がゆっくりと増幅する。


 ミコトが少しだけ離れて、トワの頬を両手で挟む。「戻ってきて。ゼロじゃない時刻で」


 トワは小さく笑った。乾いた唇が、湿りを取り戻す。

「戻るよ。僕の研究は、僕の言葉で、僕の紙で」


 会長が息を吸った。

「東雲。——ごめん」


 謝罪は、短いが、必要な位置に置かれた。トワは頷き、目を閉じ、一度だけ長く息を吐いた。


 レイジは観測者ノートに最後の行を足した。

 ——匂い:アルコール、血清、雨の匂い。温度:室温二四度。騒音:安定。足音:退場四、滞在四。影の角度:窓からの街灯二八度。

 そして、余白。

 余白は、言葉にならない拍のためにある。ミコトの嗚咽、会長の短い謝罪、ユナの安堵の吐息、御子柴の鼻を鳴らす音、アヤカの呼吸。


 アヤカは壁に寄りかかり、胸に手を当てた。痛みは針で縫うように走るが、切れ目は短い。

「大丈夫?」

 ミコトが気づく。

「大丈夫」

 アヤカは笑う。「転んだだけ」


 御子柴が機材を片づけながら言った。「俺の端子、また役に立つ?」

「立つ」

 アヤカは頷く。

「次は、守るためにだけ使う。——ゼロを作る歌詞は、もう誰にも配らない」


 会長は端末の画面を消し、タブレットを机に置いた。

「私は、罪を紙に置く。署で、順序を説明する。あなたたちの順序で」


 私服の刑事がうなずく。「説明は紙で受ける。——それと、観測者ノート、拝見しました。事実だけが並んでいる。助かります」


「事実以外は、書けない」

 レイジはすこし照れて笑った。

「感想は、紙の邪魔をする」


 窓の外で雨が弱まり、遠くの踏切が一度だけ鳴った。

 ミコトはトワの手を握り直す。その手はまだ少し冷たいが、返す圧ははっきりしている。

「帰ろう。校舎に。ゼロじゃない時刻で」


 トワは頷いた。「帰ろう。僕の研究を、僕たちの教室へ戻す」


 アヤカは深呼吸を一度だけし、観測者ノートの最後に細い線を引いた。

 ——本章の終わり。

 そして、行を一行だけ残した。

 ——第十九話、時計塔にて。


 被験者と観察者。

 その二つの言葉の間に、今夜、細い橋が架かった。

 橋は紙でできているが、足音はちゃんと響く。

 呼吸も、響く。

 ゼロの外側で。

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