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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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第17話 死の記録者

 チャイムの鳴らない放課後は、校舎の骨がゆっくり軋む音でできている。新聞部の部室で、朝霧レイジはノートPCの画面を三つ並べた。左に波形、中央に観測者ノート、右にログの時刻表。画面の白が彼の頬を少し青く見せる。

 観測者ノート——それは彼が初日から書き続けてきた、匂いと温度と騒音と足音と影の角度だけを記す、乾いた紙束だ。感想や予感は禁じる。形容詞は許されない。もし“寒い”と書きたくなったら、温度計の数字に置き換える。もし“怖い”と書きたくなったら、心拍数と呼吸の回数に置き換える。それがルール。篝アヤカの幽刻の手に届く場所に、感情を置かないための、冷たい盾だった。

 ページの上端に、今日の日付と時刻。JST。横に丸で囲ったUTC。彼は二つの時刻を二重に走らせる癖がついた。あの夜、会長の“UTC慣れ”を見抜いた瞬間から、二つの時計は彼にとって“同じ長さを持つ異なる言語”になった。

 観測者ノートの冒頭に書くべき言葉は、ひとつだけだった。

 ——公開する。

 指が一瞬だけ止まる。公開は、刃だ。自分の手から離れた刃は、どこへ飛ぶか完全には制御できない。それでも、出す。フェアプレイの総決算は、紙の外ではなく紙の上でやると決めたから。

「レイジ」

 アヤカが部室に入ってきて、ドアを静かに閉めた。白いスニーカーのソールが床と擦れる音が短く、切れがいい。

「準備、できた?」

「できてる。全部、“事実だけ”」

 レイジは画面をアヤカへ向けた。

「匂い、温度、騒音、足音、影の角度。計測可能な事実だけ。幽刻に触れる記述は、観測の外形に限定した」

 アヤカは頷いて、中央のノートをめくる。指の動きが丁寧だ。文字の密度と余白の取り方を一度で掴み、段落の切れ目を目で撫でる。

「“0秒音声”の前後」

 彼女は波形のタブへ視線を滑らせる。

「ここ」

「ここ」

 レイジはトラックを拡大した。

「再生時間は“0秒”として認識されるファイル。なのに、波形はある。俺はその前後三秒を観測していた。空調のノイズは平均で45dB——風量“弱”。ところが、0秒“ファイル”の前後1.2秒だけ、ノイズフロアが一段落ちる。42dB。等化の痕跡がある。帯域は1kHz以下がごっそり削れている」

「つまり、無音の挿入と帯域削り」

 アヤカは言い切らない。言い切らないことで、言葉の刃を鈍らせない。

「その“無音”は、作られた」

「作られた。“幽刻の残滓”の上に、放送ミキサーの無音が重ねられている。幽刻は“連続時間に換算されない”からファイルの長さにならない。でも、重ねた無音は、編集の指紋を残す。空調ノイズの段付きは、その指紋だ」

 画面右のログに、レイジはさらに一本線を引く。

「そして、時刻。0秒ファイルの“ファイル生成時刻”のメタデータはZで終わっている。Z——UTCの末尾。JSTの装置で生成されたログは通常“+0900”のオフセットを持つ。けど、これはZ。校内で“Z”を使い慣れているのは、ひとり。会長」

 アヤカの目尻の影が、ほんのわずかだけ動いた。「見せに行こう」

     ◇

 生徒会室は静かだった。机の角に積まれた文書の影が長く、壁の白は昼より冷たい。会長は窓際で立ち、こちらを見る。早乙女ミコトは椅子に座り、両手を膝に置いている。御子柴カナメと水無瀬ユナは背後に回り、黒板の前に位置を取った。

 レイジはノートPCを会長の机へ滑らせる。

「観測者ノートを公開します。——その前に、あなたに見せる」

 会長は無言で頷き、身を屈めて波形を覗いた。

 レイジは“1.2秒の段差”を示す。

「空調ノイズがここで落ちる。無音挿入の痕跡。編集による“フェイクゼロ”。幽刻は編集できない。編集できるのは、現実側です」

 会長の指が机の縁を一度、軽く叩いた。癖だ。心を落ち着ける合図。

「君のノートは、匂いと温度と音と影——事実だけだな」

「はい。俺の心拍は数字で書いた。怖がった回数は、呼吸数として記した。——感情で歪まないように」

 会長は波形からログへ視線を移し、Zを見た。「UTC」

「ええ。あなたが“Z”を使っているのを、俺は何度も見た。会長書式の時刻は、末尾にZが付く。海外での生活が長く、論文フォーマットもUTCで揃える。——今回、机の裏の再送信器の起動ログはUTC表記でした。校内の他のログはJSTなのに、そこだけZ」

 沈黙。

 ミコトが薄く息を呑む。御子柴が腕を組み直す。ユナは目を伏せ、空調の吹き出し口を見ている。

 会長は、視線をレイジからアヤカに移した。

「観念する。私が“ゼロ”の演出に手を貸した。無音を入れたのはミコトだが、私はその起動に合図を出し、時刻を整えた。……東雲を守るためだと、私は信じていた」

「信じることと、切ることは別です」

 アヤカは机に手を置かない。距離を保つ。

「守るなら、切る場所を間違えないで」

 会長は、うなだれずに頷いた。「東雲は、学外の空きビルにいる。中央通りの再開発地区、三階建ての元塾ビル。支援者が一時的に借りた場所だ。——顧問がもう動いている」

 空気が薄くなった。部屋の中の光が一瞬だけ重く感じる、あの感覚。

 ユナが顔を上げる。「顧問が?」

「彼は産学連携の紙を手に、支援者に接触し直した。研究の正当化を盾にするだろう。私は支援の一時停止を出した。けれど、彼は“私の署名の前の紙”を持っている。古い順序の紙だ。——時刻をやり直すには、時間が足りない」

「足りないなら、走るだけ」

 ミコトが椅子から立ち上がった。握った拳の親指が白い。

「私の無音は、もう閉じた。今は、音を出す番」

 アヤカは会長を真正面から見た。

「会長。あなたは罪を犯した。——でも、守りたいなら、あなた自身が罪を引き受けて、彼に正面から謝って」

 会長は唇を固く結び、視線を落とした。「分かっている。私は、地下で見ない選択をした。その選択が、誰かを傷つけた。

 ——彼女の研究は、人の手に渡してはいけないと思った。だから、私は扉を開けた。扉を開けた私が、扉の向こうで起きた暴力から目をそらした。私は、その責任を取る」

「“彼女”?」

 ユナが小さく問う。

 会長は一瞬だけ考え、わずかに笑った。「言い間違いだ。癖だ。——東雲の研究を、だ」

 レイジは観測者ノートの見出しに、最後の一文を加えた。

 ——公開対象:校内掲示・教育委員会・研究施設・警察。

 送信ボタンはまだ押さない。押す前に、会長の“UTC”の話を終わらせる必要があった。

「会長の“UTC慣れ”が決め手でした」

 レイジは静かに言った。

「机裏の起動ログはZ。あなたの個室の備忘録の時刻もZ。校内掲示の巻き戻しログのコメントにだけ、GMTとUTCを混用する癖がある。——その癖、紙の上で何度も見ました」

 会長の肩が、わずかに落ちた。苦い諦念が表情に走る。

「それを、見ていたのか」

「見えたものは全部、事実にした。それだけです」

 短い沈黙ののち、会長は机の引き出しから鍵束を取り出した。重みのある金属の音が部屋の空気を揺らす。

「空きビルの鍵がこれだ。支援者から渡された複製だ。——行こう。私が案内する。私は、彼に謝る」

「行く前に」

 アヤカが手を上げた。

「観測者ノートを公開する。顧問が“古い順序の紙”を振りかざす前に、今の順序を先に置く」

 レイジは送信ボタンに指を置き、一度だけ深呼吸をした。

 吸う。止める。吐く。

 止める時間は、短い。

 指が動く。送信。

 同時に、新聞部サイトに“死の記録者——観測者ノート完全版”が掲載される。

 タイトルに迷いはない。死と書いたのは、幽刻へ触れた一秒が、何度も“死の手前”として彼の前に現れたからだ。彼がそこでやったのは、生きたまま記録すること。死の記録ではなく、死の“縁”の記録。だが、タイトルには縁は付けない。刃の言葉は、余計な飾りを要らない。

     ◇

 中央通りの再開発地区へ向かう車の中で、ユナが運転し、御子柴が助手席に乗った。後部座席には、アヤカ、レイジ、会長。街の光が少しずつ減り、工事用のフェンスが長い直線の壁になる。フェンスに貼られた告知の紙が風に鳴る。紙はどんな場所でも音になる。

「顧問の車は?」

 御子柴がミラーを覗く。

「別ルートのはずだ」

 会長が答える。

「彼はこの街で“最短だけで動く人間”じゃない。相手の紙を先に読んで、遅いけれど堅い道を選ぶ。——だから、今はまだ着いていない」

 レイジはスマートフォンで観測者ノートの閲覧数の伸びを眺めた。数は関係ない。ただ、それが“届いている”ことの証跡になる。コメント欄は閉じている。議論は紙でやる。SNSではやらない。そう決めている。

「レイジ」

 アヤカが小さく呼んだ。

「あなたのノートの“匂い”の記述、良かった。匂いは忘れやすいのに、時間を正確に縫い付ける。——幽刻で私が拾えないものを、あなたが繋いでくれた」

「俺のは、ただの鼻です」

 レイジは照れ隠しに笑う。

「でも、鼻は嘘をつかない。塩素、口紅、アルコール、古い紙の湿気。——全部、数字にはならないけど、時間の輪郭になる」

「その輪郭で、顧問の“古い紙”は剥がれる」

 会長がぽつりと言う。

「彼の紙は“結果のための倫理”が前提だ。私たちの紙は“過程のための倫理”を並べた。順序が違う。——私は、順序を間違えた側だ。だから、これからは君たちの順序に従う」

 車は角を曲がり、空きビルの並びに入った。再開発で取り残された三階建ての箱。看板の文字は剥がれかけ、窓ガラスには閉店時のテープが斜めに貼られている。夜風が低く吹き抜け、ビルの端にある非常階段が金属音を鳴らした。

 ユナは車を少し離れた路肩に停め、ライトを落とす。

「合図は?」

「四拍目を伸ばさない」

 ミコトが答える。彼女は放送部で覚えた合図の体系を、歩幅と視線で置き換える術を知っている。

 会長が鍵束を握り直し、ビルの裏手へ回る。薄い月の光が鍵の歯にかすかに光る。

 ドアは古く、鍵穴は固い。会長は力を入れ、ゆっくり回した。

 金属の音が短く、止まらない。

 扉が開く。

     ◇

 一階の元受付ロビーには、折りたたみテーブルと水の入ったポット。紙コップ。生活の気配は薄い。誰かがここで“待っていた”形跡だけがある。

「上だ」

 会長が言い、階段を上る。

 足音を数える。十一段、踊り場、さらに十一段。

 二階の廊下には、空調の音がない。窓は閉め切られている。

 三階——

 踊り場で、会長の足が止まった。

 ドアの前に、紙のカードが一枚、床に落ちている。

 角が折れ、端に青い口紅の痕。

 ミコトは一瞬だけ目を見開き、すぐに表情を整えた。「私の色」

 会長はドアに耳を当てる。中は静かだ。

 鍵を差し、回す。

 開く。

 中は、予備の机と寝袋、保冷ボックス。窓際に座布団。

 そして——

 東雲トワはいなかった。

 部屋の中央に、小型の録音機が置いてある。赤い点は消えている。

 覗き込む。波形はある。再生時間は0秒——の表示。

 レイジは苦笑した。「二度目は効かない」

 彼はイヤホンを差し、波形を見ながら再生を押す。

 無音。だが、空調ノイズではない、微かな“外の気配”が端に引っかかる。車の走行音、遠い踏切。——ここじゃない場所が、鳴っている。

 机の上に、紙が一枚。

 筆圧の強い字で短く書かれている。

 “会長へ。ゼロの外で会おう。場所は、君なら分かる。UTCで答えを置く”

 署名はない。けれど、行間の余白の取り方がトワだ。彼の紙は余白が音楽を持つ。

「“君なら分かる”」

 御子柴が眉を寄せる。

「どこだよ、会長」

 会長は、窓ににじんだ街の光を一度見て、息を短く吐いた。

「UTCの“答え”を置ける場所。——市立時計塔。今は改修中で止まっている。だが、親局の試験で一度だけ動いた日がある。私と東雲が“最初にゼロを作らなかった日”。

 “00:00:01”を、同時に見た日だ」

 ユナが時計を見た。「間に合う?」

「間に合わせる」

 アヤカが答えた。

「顧問は、こちらの紙を見てから動く。時計塔は象徴性が高い。彼が狙うなら、同じ場所。——そこで、順序を決め直す」

 会長は頷いた。「私は、謝る。ゼロに寄りかかったことを。——そして、彼の研究を、彼の言葉に返す」

 レイジは観測者ノートを閉じ、胸ポケットに入れた。

 “死の記録者”は、次の場所でも、事実だけを書く。

 匂い、温度、騒音、足音、影の角度。

 そして、UTCとJSTの二重の時刻。

 階段を降りかけたとき、非常階段の方角で金属音が、ひとつ。

 続けて、靴音。硬い革底が鉄を叩く音。

 顧問の歩幅ではない。もう少し軽い。けれど、迷いのない足運び。

 アヤカは指を一本立て、四拍を取る。

 一、二、三、四。

 伸ばさない。

 彼女の視線が会長に触れる。会長は頷き、鍵束を握り直す。

 窓の外に、雲が薄く流れ、月の輪郭が一度だけくっきり出た。

 ゼロではない夜。

 紙の上で、時刻はつながっている。

     ◇

 車へ戻る途中、レイジのスマートフォンが震えた。新聞部のサイトのアクセスが跳ねる。観測者ノートに“警察広報”からのアクセスが現れ、教育委員会の“外部接続”ログが通知される。

 紙は届いた。

 報いは来る。

 それでも、彼は安堵した。紙は届くべきところへ届き、事実だけが先に走る。

「レイジ」

 アヤカが歩きながら言う。

「あなたは、死の記録者じゃない。——死の“手前”の記録者。私の刃が触れる一秒を、あなたの紙が“つなぎ”にしてくれる」

「じゃあ、肩書きは“縁の記録者”に変えます?」

 レイジは冗談めかす。

「長いよ。それ」

「長い方が、呼吸が入る」

 アヤカの笑みは一瞬だけ、柔らかく緩んだ。

「呼吸が入る言葉は、刃になりすぎない」

 駐車場の影から、誰かがこちらを見ている気配がした。

 顧問かもしれない。支援者のひとりかもしれない。

 レイジは立ち止まらない。観測者ノートに今書けるのは、“気配”。数字にできないなら、書かない。

 ただ、足音の数だけを数える。自分たちの。十一歩。踵の返し。二歩。

 車のドアが静かに開く。

 乗り込む。

 エンジンがかかる。

 時計塔へ向けて、また、走る。

     ◇

 生徒会室に残された机の上、会長の端末には観測者ノートの冒頭が固定表示されていた。

 ——公開する。

 この一行は刃であり、盾であり、鍵だ。

 鍵は、誰かに向けては回らない。

 鍵は、自分の手で回す。

 そして、最後の時刻を選ぶのは、鍵を握る者だ。

 会長の手は、今夜、その鍵を握った。

 ゼロではない時刻に。

 時計塔の影が、街に伸び始める。

 その影の角度は、観測者ノートに記される。

 紙は増える。

 行は増える。

 呼吸は続く。

 死の“縁”で、彼らはまだ生きている。

 ゼロの外側で。

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