表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/25

第16話 論理の臨界点

 雨はやんだ。校舎の廊下は窓ガラスに薄く残った水の輪郭を映し、照明はその輪郭の上に粒のような光を落としている。夕刻と夜の境目の空は浅い藍で、生徒会室のドアの小窓は、その藍を薄く切り取って机の上に置いた。


 新聞部の臨時編集会の体裁を取りつつ、ここには当事者がそろっていた。篝アヤカ、朝霧レイジ、水無瀬ユナ、物理部の御子柴カナメ、会長、そして早乙女ミコト。顧問だけはいない。彼については今夜、別の線から“紙の場”に引き出す。


 黒板の前に立ったレイジは、チョークの先で円を描いた。強く擦らない。ただ、紙に書くときの筆圧で、薄い白を重ねる。


「フェアプレイの総決算にする」


 彼は一度だけ息を吸い、八つの番号を円周上に置いた。①から⑧。数字の隣に短く見出し。


「①“0秒音声”——幽刻の残滓と、放送ミキサーによる無音挿入の重ね。波形はあるのに再生しない。幽刻が“連続時間に換算されない”のに、無音の一拍が意図的に入れられた」


 ミコトの肩がわずかに強張る。彼女は否定しない。フェーダーの上げ下ろしの癖は、すでに紙に記録されている。


「②“停止時計”——机裏の再送信器が親局のタイミングに局所的な歯抜けを作り、表示は00:00:00で固定。さらに時計は後から“見せたい角度”に置き直された。分針の影の落ち方とガラスの反射が、犯人の手直しを示す」


 会長は黙っている。机上の秩序が、彼の秩序でもある。


「③“内側施錠”——鍵穴からの極薄ワイヤ操作と、理科準備室のステンレストップに残った“指で描いた円”が示す滑車の即席。ドアの座金裏にはワイヤの残渣。密室は“外からできる仕組み”で作られた」


 御子柴が頷く。再現実験の跡の傷は、彼の指の側面にまだ残っていた。


「④“非常口”——搬出されたのは遺体ではなく、研究データの入った金属ケース。蓋だけが排水枡で見つかった。ケースが“人だったように”見えてほしい夜、地下倉庫で衣服の入れ替えが行われた。担架は二度進み、一度戻る。戻りの位置に塩素の顆粒。血痕反応は広い。けれど、“トワ”ではない」


 ユナが次の紙束を用意する。空調のログ、非常口の警報降下の微弱波形。わずかな“外開”が残す、理性の痕跡。


「⑤“鏡の矢印”——暗室の窓と手鏡による誘導。鏡面に口紅で描かれた赤い矢印は、幽刻でしか残像が拾えなかった。矢印は“隣室へ向かえ”の合図。鏡を通すことで“同じ部屋に二人のトワ”がいる錯覚を作った」


 ミコトは筆箱を見た。そこに入っていた青みの赤は、もう彼女の唇を染めるための道具ではない。紙の色だ。


「⑥“台車痕”——理科棟廊下のタイヤ痕は、荷重の割に薄い。台車に載っていたのは遺体ではなく“空の躯体”、つまり機材やケース。担架の片輪だけ新しく、片輪は古い。片側に強いベクトル。複数人が押している」


 御子柴が指を鳴らした。「片輪交換、俺の部室の台車と一致した幅だった」


「⑦“樹脂粉”——生徒会室の床にだけ残ったPLAの微細粉。鍵の形状の一時複製に用いた3Dプリンタ樹脂、そして糸仕掛けのガイド。これは物理部にも放送部にも“ありふれたゴミ”。持っていることは罪ではない。使い方が刃になる」


 ミコトが小さく笑う。「拾い癖は罪じゃない……けど、場所によっては痕跡になる」


「⑧“EXIFと掲示板の時刻ズレ”——校内掲示板のサーバ時刻は二度巻き戻され、証言の基準時刻が改竄された。写真のEXIFと目撃の“いつ”が噛み合わないようにされた。基準時刻に触れる権限は限られる。書記は不在。残るは、会計のバックエンド、会長のUTC慣れ」


 レイジはチョークを置き、円の中心に一本の縦線を引いた。八つの点から中心へ糸を引くように。線は強くない。だが、一本である。


「これらを一本に通す」


 黒板に書き添える。


「犯行主体——会長。動機——トワを守るため。実行の多くの手——ミコト。顧問——横取りの介入者」


 静寂。蛍光灯のわずかな唸りだけが、線の上を這う。


 会長が初めて口を開いた。「私は、東雲を連れ出した。事実だ。顧問の“網”に入れたくなかった。——だが、その夜、地下で起きた暴力を、私は見ない選択をした。私の悪手だ」


 アヤカはうなずき、黒板に“未成立”の文字を添えた。


「殺人は成立していない。負傷者は生存し、回復の見込みがある。けれど罪はある。逮捕監禁、傷害、証拠隠滅、虚偽の工作。——紙に戻すと、ここまでが“事件”だ」


 ミコトが前を向いた。彼女の声は小さいが、粒が立っている。「私の手は“賦活”だった。逃がすためのフェーダー、誘導の矢印。けど、私の無音は、顧問の暴力をも隠しうる無音だった。……それも、事実」


 御子柴は手のひらを広げ、黒板の線から目を離さない。「俺は端子を打った。合奏の一部で、四拍目を伸ばす合図を試した。ゼロの作り方は“説明”でしかなかった。……でも、やっぱり、それは歌詞だったな」


 ユナは紙を束ねる。「照明と空調の同時制御は、生徒の安全のための手順。だけど、その手順が“挑戦状の拡張”に読み替えられた。説明が要る。外へ向けて」


 レイジは黒板の縦線の下端を、ゆっくりと丸で囲んだ。臨界点、という丸だ。


「ここが、論理の臨界点。——すべての手掛かりが矛盾なく収まり、なおかつ、これが“最小の暴力”で説明できる境目」


 アヤカが言葉を継ぐ。「臨界点を越えると、海はあふれる。警察の介入は現実味を帯びる。顧問に対しても、会長に対しても、ミコトに対しても、事実の列が線でつながる。……でも、今ならまだ、東雲トワを取り戻せる」


 会長が顔を上げた。「取り戻す?」


「“支援者”の合奏を止める。外部の親切が“歌詞の配布”へ変質する前に、あなたが選ぶ最後の時刻で止める。校内の紙、教育委員会の紙、研究施設の紙。あなたの署名と説明が、鍵になる」


 会長は息を整えた。目は逃げない。窓の外では、野球部の掛け声が遠く薄く割れている。


「最後の時刻……何時にする」


「“ゼロ”ではない時刻に」

 アヤカは即答した。

「00:00:00は挑戦状の領域だ。そこに立てば、あなたはもう一度、悪手を打つ。——あなたが選ぶのは、00:00:01。あるいは、23:59:59。いずれにしても、“つながっている時間”。切れていない時刻」


 会長がわずかに笑う。「UTCで言えば?」


「UTCのままでもいい。けれど、今夜はJSTで」

 アヤカは机上の電波時計を見た。停止した姿の隣に置いた、正常な時計。

「二十三時五十九分五十九秒。あなたの“順序”が、校舎の“いつ”に重なる一拍」


 ミコトが小さく息を飲み、「それ、演出としても美しい」と言った。彼女の声に皮肉はない。救いの見える場所に、音が向かうときの素直さがある。


「その時刻に、何をする」

 会長が問う。


「三つ」

 アヤカは指を立てた。

「ひとつ、教育委員会宛ての“外部支援一時停止と再構成”の本紙を即時送付。ふたつ、研究施設宛てに“共同研究の停止および倫理審査の再申請”を通知。みっつ、“東雲トワ本人の意思確認”を公開の紙に置く。彼の言葉が真ん中に来る文書を、事前に用意した」


 ユナが封筒を差し出す。そこにはすでに文案が印刷され、会長の署名枠が空白として残っている。朱肉は新しい。口紅はいらない。


「警察が動いたら?」

 御子柴が現実を置く。


「動く」

 アヤカは嘘をつかない。

「けれど、“ゼロ”の遊戯から離れて“つながった時刻での説明”が先に出れば、介入の性質は変わる。顧問に対しては、暴力と奪取の線が太い。会長とミコトは、説明の意思と修正の行為が盾になる」


 会長は頷いた。チョークの白のように短い音で。「受ける」


 彼は時計を見た。針はまだ、臨界点のだいぶ手前。


「その時刻まで、時間がある」

 ミコトが椅子から立ち上がる。

「最後に、ひとつ、私にやらせて。——放送室。校内の“無音”の一拍を、明確に“無音だった”と記録する。私の手で、ゼロを閉じる」


 アヤカは、「行って」とだけ言った。


     ◇


 放送室の窓は夜の芝生を見下ろしている。ブースの中で、ミコトは両手を洗い、フェーダーのつまみをひとつずつ撫でた。アルコールの匂いが薄く広がる。


「無音を無音のまま記録する」

 彼女は独り言のように言い、マイクの前に座る。

「これは、私が作った無音だと、未来の紙に残す。——私の無音は、誰も殴らない」


 レイジはブースの外から見ていた。ガラスに映るミコトの横顔は、練習を重ねた演者のそれだ。合図の四拍目を伸ばさない。ふたつめの拍で止める。つなげるために止める。


 録音の赤い点が灯り、一定の波形が水平に続く。無音とは、線である。点ではない。


     ◇


 生徒会室では、会長が最後の文言を整え、ペンを持ち直していた。ユナは教育委員会のファイルを開き、住所と連絡先を確認する。御子柴は“保守端子の十六拍”を五線譜に起こした自作の紙を折りたたみ、ポケットに戻す。使わない楽譜。けれど、あることに意味がある。


 レイジが戻り、アヤカに目で合図を送った。「無音、録れた」。

 アヤカは頷き、会長の前の時計を一度だけ見た。


 二十三時五十九分五十五秒。


 窓の外は静かだ。校庭のポールの先で旗が眠り、遠い道路の車の音が、かすかに湧いては消える。


 五十六。五十七。五十八。


「会長」

 アヤカが短く呼ぶ。

「鍵を」


 会長はペンを握り直し、文書の署名欄に自分の名を置いた。迷いは、ない。朱肉へ印面を落とす手も、まっすぐ。

 ユナが送信ボタンに指を置く。差出人:学校。宛先:教育委員会、研究施設、校内掲示。


 五十九。


 空気が、音を失わない。

 誰も呼吸を止めない。

 “ゼロ”に寄りかからない。


 ——二十三時五十九分五十九秒。


 指が、同時に動いた。

 送信。

 押印。

 保存。

 放送室からの“無音の証明”が、添付として滑り込む。


 針が、一秒、先へ。

 日付は変わらない。

 でも、向きが変わる。


     ◇


 数分後。応接電話が鳴る。研究施設の担当者からの“受領”と“支援の一時停止”の確認。教育委員会の自動返信が次々に返り、続いて担当部署からの直電。「説明文書を受け取りました。担当者が朝一で伺います」。

 校内掲示には会長名義の文書が公開され、新聞部の臨時号外は“ゼロの外での説明”という見出しで更新された。


 レイジは椅子に腰を下ろし、緩く笑った。「本当に、ゼロに寄りかからない夜が来た」


「ゼロを使わないのは、怖い」

 ミコトが戻ってきて、髪を耳にかけ直した。

「でも、私の無音が“止めるためにある”って、初めて思えた」


「顧問は動く」

 御子柴が窓の外を見た。

「朝には“別の歌詞”を持って来るかもしれない」


「歌詞は紙に戻す」

 アヤカは短く言う。

「暴力は警察に渡す。——私たちは、東雲トワを呼ぶ」


 会長は頷き、スマートフォンを取り出した。連絡先の“東雲トワ”を開く。送るメッセージは短い。「今夜、この校舎に戻ってきてほしい。話を紙にする」。

 送信。

 薄い既読の印が付き、間を置かずに返事。「行く。ゼロの外側で」


     ◇


 校門。夜の風がいったん止み、遠くの街灯りが湿った葉に反射する。

 歩いてくる影は二つ。東雲トワと、付き添う大人の影。支援者ではない。支援者から彼を預かってこちらに連れてくる役割をした、施設の担当者だ。顔は固いが、目は柔らかい。


 アヤカは立ち上がり、会長の一歩先に出て、二人を迎えた。

 トワの目は冴えている。体はまだ重そうだが、足取りは一定。

 彼は会長を見る。会長も彼を見る。

 沈黙の一拍。

 ゼロではない一拍。


「戻った」

 トワが言う。

「自分の研究を、自分の言葉で、紙にするために」


「戻ってくれて、ありがとう」

 会長は、謝罪も言い訳も先にしない。

「順序を、間違えた。——今、戻した」


 トワは短く頷き、新聞部の机に座った。レイジが録音を回す。ミコトが“無音の証明”を確認する。ユナは窓を少しだけ開け、秋の気配を一筋だけ入れる。


 アヤカはペンを持ち、見出しを書いた。


 ——東雲トワ、声明。

 ゼロではない時刻に。


 トワは話す。

 研究の出発点、ゼロの“作られ方”と“作られたことにされる”の差異。

 会長の“順序”、ミコトの“無音”、御子柴の“拍”。

 顧問から受けた提案と、その網の外へ出る選択。

 地下で見た“戻り”。

 そして、戻ってくるために必要だった、ひとつの“一秒”。


 言葉は静かに、しかし淀みなく、紙の上を滑った。

 誰も、ゼロに寄らない。

 呼吸は続く。

 窓の外で、藍が、さらに薄くなる。


     ◇


 臨界点は越えた。

 論理は切れずに、向きを変えた。

 この夜を境に、警察の手は、顧問の線へより太く伸びるだろう。

 会長とミコトの線は“説明と修正”の上に載る。

 御子柴の線は“中立”から“協力”へ移る。

 ユナの線は“安全の手順”を説明の言葉に戻す。

 レイジの線は“フェアプレイ”を見出しに変え続け、

 アヤカの線は“幽刻”を、必要な時だけの短い刃に保つ。


 夜風が、再び窓を揺らした。

 時計は進む。

 ゼロの外側で。


 論理の臨界点は、壊すための壁ではなかった。

 越えるための橋だった。

 橋のたもとで、一度だけ深呼吸をし、こちら側の地面に足を置く。

 その足音は、紙に記録されない。

 けれど、確かに、ここに響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ