第15話 生徒会室の亡霊
放課後の生徒会室は、紙の匂いと乾いた鍵の音が、薄い膜になって漂っていた。
天井を走る白いモールは、昼の蛍光灯の熱を少しだけ溜め込んで、指先に触れるとわずかに温かい。朝霧レイジは椅子を机に上げ、モールの継ぎ目に細いヘラを差し込んだ。プラスチックが小さく鳴って外れ、古い埃が糸のように垂れ落ちる。
「ここ、空洞がある」
レイジはライトを入れ、息を止めた。
指の腹が触れたのは、ビニールテープのざらりとした手触り。慎重に引く。モールの奥から、薄い樹脂製のカードが現れた。SDでもmicroでもない。名刺大に薄く削られ、端だけ金色に光る——“薄いメモリカード”。流通していない規格の、DIYの匂い。
篝アヤカは机に敷いた白紙の中央へ、それを静かに置いた。
ユナがノートPCに接続する。専用のアダプタは御子柴カナメが組んだもの。カチ、と小さな音がして、画面の片隅に新しいドライブが現れる。
「パスは?」
レイジが囁く。
「“00:00:01”」
ユナが打ち込む。
解錠。
画面に現れたフォルダ名は、どれもそっけない。「A」「B」「C」。最奥に「Plan」。開く。
テキスト。音声。図。時刻の列。タスクの割当。
件名は一つ、はっきりと——「Exit_アヤカには秘密 会長へは事後連絡」。
息が少しだけ止まる。
レイジは最初の文を声に出さずに追った。トワの筆致だ。数学の証明を書くときのように、仮定と結論、反例と補助線がきれいに並ぶ。ところどころに挟まれる短いメモは、柔らかな丸みを帯びている。これはミコトの字。ふたりの“共同計画書”。
「同期エラーを人工的に作る」
「暗室の窓を一夜限りの境界にする」
「合図は四拍。無音一拍、最後は伸ばす」
「顧問と会長には事後報告。会長の“順序”を乱さないこと」
レイジの背中に、うっすら汗が滲んだ。
これだけで、十分だった。ふたりが“逃がす”側として、紙を作っていた。校舎の外で搾取されないために、先に外へ出る。戻るための道を確保した上で。
アヤカは、ページ送りの矢印に指を置き、最後まで送った。
最終ページの下隅に、別の筆跡。鋭い角度、紙を切る力。
「君たちのやり方は甘い。監視が入る。僕が連れ出す」。
走り書き。会長の字だった。
「……亡霊だ」
レイジが無意識に、そう呟いた。
アヤカが顔だけ彼を見る。
「誰の」
「生徒会室の亡霊。ここで決められ、ここで修正された“意図”が、形を変えて追いかけてくる。紙は消えない。——会長は、良い意図で悪手を打った」
ユナは口元に指を当て、画面の端の小さな波形アイコンをクリックした。録音がある。再生。
最初の数秒、無音——ではない。マイクの膜を撫でる柔らかな息。ミコトの癖。
続いて、低く早口の男の声。トワだ。言葉は短いが、まっすぐだ。「ここまで。戻る道を作ってから、外へ」。
最後に、別の声。会長。「順序は私が整える。君たちは、走れ」。
——そこで、記録は途切れていた。再生時間は“00:00:00”。波形だけが残る、幽霊のような音。
アヤカはノートに短く書いた。
“良い意図の悪手”。
“順序の修正”。
“事後連絡の破綻”。
「地下の血痕は、その直後」
ユナが言う。
「担架が二度進み、一度戻った。戻った場所で塩素の顆粒。衣服の入れ替え。……そこに“第三者”が割り込んだ」
「顧問」
レイジが即答する。
「彼の目的は“商業化”。研究の紙を“製品の紙”に変えること。校内の順序じゃなく、市場の順序に並べること」
「会長は、トワを守るために顧問を排除した。けれど、やり方が悪かった。——“密室挑戦状”を置いて校内の目を撹乱した」
アヤカは画面を閉じ、メモリカードをアダプタから外した。
「良い意図の悪手。悪い意図の合理。理想のための賦活。三つの刃が交差して、どれも自分を正しいと思っていた」
生徒会室の窓の外は、もう青く暗く、体育館の側面に貼られた金属板が冷たく光っていた。
アヤカは椅子に座り、メモリカードを指で軽く弾いた。
「亡霊は、ここにいる。紙に触れて、動く。——なら、ここで祓う」
◇
モールを元に戻し、机を下ろした。生徒会室は、外見上は何も変わらない。けれど、机の位置が一センチずつ、計画書の線に合うように整えられていく。アヤカの眼は、無意識にそれをやる。生徒会の“時間の見取り図”に反射的に合わせる。
「顧問の動線を再現する」
彼女は立ち上がった。
「地下の戻りの点、そこに顧問が入った。彼は“連れ出し”を“奪い取り”に変えるはずだった。抵抗があって、負傷。担架は一度戻り、塩素。衣服の入れ替え。——その間に、誰がどこにいた?」
「会長は外階段の踊り場で鍵を持っていた、と言った。合図を待つ役。ミコトは放送室でフェーダーに手を置いていた。御子柴は端子を打った。ユナは空調と照明のユニットの前」
レイジが列挙する。
「顧問だけが、合奏の譜面を持たずに舞台へ入ってきた」
「だから、音が乱れた」
ユナが頷く。
「その乱れを、“0秒”は抱え込めない。波形はあるのに再生されない。その夜の地下の音、もし拾えていれば——」
「拾えていないから、亡霊が残る」
アヤカは生徒会室の録音機を見た。停止した表示の時計の隣、録音機は今も赤い点で待機を示している。
「拾えない音を、紙で還元する。顧問の“目的”を、音の代わりに置く。商業化。寄付型の枠組み。特許周り。……教育委員会の支援届。市の外郭団体の連携メモ」
「取ってくる」
ユナが鞄を肩に掛けた。
「教育委員会の文書は昨日、アヤカさんが申請済み。今日の午前で準備できているはず」
「お願い」
アヤカは短く言い、レイジに目を向ける。
「あなたは、会長の“壁”をもう一度。口紅の拭き跡。あれは証跡であり、合図でもある。——誰がいつ、ここで紙を濃くしたか」
「了解」
レイジは頷き、LEDライトと拡大鏡をポケットに入れた。
◇
会長の個室。
白い壁は、昼のほこりを均一に抱えている。だが、斜めの光にだけ浮かぶ“薄い楕円”はまだ完全には消えていない。
レイジはライトを低い角度で滑らせ、微粒の反射の密度から円の外縁を割り出した。
直径、十三センチ。
中心から三センチの位置で、反射の粒子が一段明るい。朱肉の上に塗った口紅の油分が壁にわずかに移った帯。
壁に押される印鑑はない。ここは台ではない。ここは“練習”。押す前に余分な油を拭った跡。
机の上の印箱。朱肉は新しい。木箱の角に小さな傷。印面を一度傾けて拭った痕。
ゴミ箱には、薄く赤いティッシュが一枚。紙の繊維が強く、学校のメーカーではない——会計室のボックスティッシュとは違う。
ティッシュに付いた口紅は、青みの赤。ミコトの私物と一致する色。
——“共犯ではないが、重なった瞬間”。
彼女は、口紅を貸した。会長は、印影を濃くした。壁に残ったのは、重なりの亡霊。
レイジが写真を撮っていると、背後で扉が軽く鳴った。
会長が立っていた。
彼はレイジの手元を一瞥し、笑いも怒りもしない表情で言った。
「亡霊の見取り図を、作っているのか」
「そうです」
レイジは正直に頷いた。
「ここで何が“濃く”なったのかを、紙に戻す」
「濃くしたのは、私の弱さだ」
会長は白い壁を見た。
「紙を整える。印を押す。責任を受ける。——そうやって、順序を戻すつもりだった。けれど、私は、地下へ降りる勇気がなかった」
「降りたのは、あなたの合図」
レイジは静かに言い換えた。
「最後の一拍を伸ばす手。——地下で暴力が入ったとき、その一拍は、罠になったかもしれない」
会長は目を閉じ、短く息を吐いた。
「顧問は、商業化のルートを持っている。大学、企業、寄付、自治体。私は、その網の内側を見た。……東雲をその網に入れることが、彼にとっての“救い”だと彼は本気で信じていた。私は、違うと思った。だから、扉を開けた。彼を連れ出した。
——私にできたのは、扉を開けることだけだった」
「扉は、今も開いている」
レイジはカメラを下ろした。
「亡霊が出入りする扉。——閉めるのは、紙じゃなくて、行為だ」
会長は頷かない。頷く代わりに、机の引き出しを開け、紙束を取り出してレイジに手渡した。
それは教育委員会とのやり取りのコピーだった。外部支援の届出と、顧問が関わった“産学連携”の打診書。日付。押印。連絡先。
紙面に並ぶ地名の中に、ひとつだけ、レイジの目を引く地名があった。昨日、救急車が向かった病院とは別方向——市外の研究施設のある人工島。
顧問の朱印。企業の角印。
——亡霊は、校舎の外にも出ていた。
◇
夕刻、三人は再び生徒会室に集まった。ユナが教育委員会から借り出したファイルを広げる。
顧問の名前は、ところどころ黒塗りだが、押印の角が僅かに見える。企業名は隠せない。
人工島の研究施設、データセンター、バイオ関連のR&D拠点。NTPの親局の配置。外部接続の許可申請のルート。
紙は、顧問の“商業化”の輪郭を、十分に語っていた。
「顧問は、トワを“製品”にするつもりだった。時間を測る技術を、認知の矯正に応用する。医療、教育、交通。——正しいかどうかじゃなく、売れるかどうか」
ユナが資料を指でなぞる。
「会長はその網から外へ出した。ミコトは、網の外側で安全な逃げ道を作りたかった。……でも、顧問は地下で割り込んだ。暴力。担架。戻る。塩素。衣服」
「“犯罪の核”が、ようやく結像した」
レイジはノートに見出しを書く。
——会長:救出を装い、密室挑戦状で校内捜査を撹乱(悪手だが保護の意図)
——顧問:研究の商業化へ奪取(目的は一貫、方法は暴力と制度)
——ミコト:理想のためにトリックを賦活(逃がす道具としての同期)
「三つの意図が交差して、どれも自分を正しいと信じていた」
「私は、顧問を責める前に、順番を整えたい」
アヤカが静かに言う。
「会長の悪手は、今ここで修正可能。ミコトの賦活は、刃を向ける先を変えれば“防具”にできる。顧問の奪取は、紙で外へさらす。
——亡霊に名前を」
「やるなら今夜」
ユナが端末を立ち上げる。
「人工島の研究施設は、夜間でも受付は動いている。私の照明課のOBが、守衛にいる。連絡は付く」
「会長は?」
レイジが窓の外を見る。
会長は裏庭の方で教師と話している。影は長い。
アヤカは立ち上がった。
「呼ぶ。亡霊を祓う儀式には、亡霊に膝を折らせる“紙”が要る。——彼の署名」
◇
夜、人工島へ向かう車の中。
橋の上の風は強く、ガードレールの隙間から見える海の黒は、空よりも濃い。
ユナがハザードを一瞬だけ点滅させ、臨港道路の信号を右に切る。会長は後部座席で静かに目を閉じ、アヤカは助手席で教育委員会のファイルを重ね直している。
「顧問は、あなたの“順序”を無視した」
アヤカは会長に言う。
「順序を守らない者は、紙の外で裁く。……ただし、紙に戻すための骨は、あなたの署名で立つ」
「署名は、責任だ」
会長は目を開けた。
「私は、地下の戻りを見ない選択をした。だから、見る場所を変える。——外で見る」
研究施設の正門に着くと、守衛所の明かりが低く揺れた。ユナが窓を下ろし、名を告げる。古いバイト仲間の名前が通行記録に刻まれていて、守衛は一瞬驚いた顔をしたあと、来訪者のリストに三つ名前を書き加えた。
「面会の理由は?」
「寄付の報告の確認」
アヤカが静かに言う。
「教育委員会からの照会に基づく」
守衛は電話を掛け、少ししてからゲートを開けた。
施設のロビーは硝子が多く、光が反射して上下左右の世界が増殖している。受付の女性は端末を見ながら穏やかに微笑み、担当者が来るまでの短い待ち時間に、水のサーバーを示した。
現れたのは、黒縁の眼鏡の男だった。白衣ではない、濃色のジャケットに社章。
肩の力は抜けているが、目の奥が忙しい。
名刺。企業名。研究推進部。
「顧問の先生は?」
レイジが単刀直入に問う。
「失礼ながら、そちらの学校の先生に当たる方は、今夜はお見えでは——」
アヤカは名刺を重ね、教育委員会のファイルを開いた。黒塗りの押印欄の角、顧問の印影の欠け。
男は一瞬だけまばたきの速度を変え、それから口角を上げた。
「なるほど。書類の話ですね。……応接室へどうぞ」
応接室の扉が閉まる。
テーブルの上に、紙が並ぶ。学校の紙、企業の紙、委員会の紙。
男は、紙の一枚に指を置き、言った。
「商業化には、倫理審査が要る。倫理審査には、学術的な“元の研究”の証跡が要る。先生は、その“元”を持ち込むつもりだった。
——ですが、もう遅い。あなた方の“説明”が先に出た。時刻同期の仕組みと、校内の構成。親局の内向き設定。
先生は、今、紙の順序を逆算しているところでしょう」
「暴力は、紙では隠せない」
アヤカは言う。
「地下の戻り。担架。血痕。衣服の入れ替え。
——先生は、研究の商業化に“必要な犠牲”を積むつもりだった。紙に名前のない“実験動物”。」
男は沈黙した。
その沈黙が、肯定に近い形をしているのを、彼自身が気づいている顔だった。
「会長」
アヤカは振り返った。
「署名を」
会長は迷わなかった。
ペンを取り、学校の説明文書の末尾に、日付と名前を書き、押印した。
印影はまっすぐで、朱肉は濃い。
壁に口紅の楕円は、もう要らない。
男は、その印影を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。こちらの“支援”は一時停止します。先生には、こちらから“順序”の話をします」
「順序は、外から与えるものじゃない」
レイジが小さく言った。
「内側から“いつ”を作り直す。——僕らは、それをやっている最中です」
男は短く笑い、名刺を揃えた。
「若い。羨ましい」
◇
戻り道。
橋の上の風は少し弱まって、海の黒に街の灯が細い列を作る。
ユナは運転席の窓を少し開け、潮の匂いを吸い込んだ。
レイジは後部座席でノートを開き、見出しの下に一行ずつ、今日の“祓い”を書き足した。
——薄いメモリカード(Plan):トワ+ミコトの共同計画。会長へは事後連絡。
——最終ページの走り書き:会長「君たちのやり方は甘い。監視が入る。僕が連れ出す」
——地下の血痕:顧問の割り込み、暴力。担架の戻りで塩素、衣服入れ替え。
——顧問の目的:商業化。産学連携の紙、倫理審査の順序。
——会長の悪手:密室挑戦状で撹乱。今日、訂正署名。
——ミコトの賦活:逃がすための同期。
——研究施設:支援一時停止。
——亡霊の名付け:紙で行う。
アヤカは窓の外の光を、一つずつ数えた。吸う、止める、吐く。
止める時間は、昨日より短い。
亡霊は、紙に還ったとき、目に見える。
目に見えるものは、向きを変えられる。
「アヤカ」
レイジが顔を上げた。
「“生徒会室の亡霊”って、結局、何だったんだろう」
「意図の残像」
アヤカは答えた。
「良い意図の悪手。悪い意図の合理。理想のための賦活。……それぞれの意図の残像が、紙の上で重なって、音もなく動く。それが亡霊。
——今夜、その一体に名前がついた。次は、顧問の名前。支援者の名前。歌詞の配り手の名前。亡霊は、名前を与えられるたびに、動きを失う」
「次、どうする」
ユナがルームミラー越しに視線を投げる。
「顧問を、紙で追い詰める?」
「追い詰めるのは、最後」
アヤカは首を横に振った。
「先に、トワの“理由”をもう一度確認する。彼は戻ってきた。——戻ってきた人の言葉を、紙の真ん中に据える」
夜風が、車内の薄い紙を一枚だけめくった。
生徒会室の亡霊は、今夜、ひとつ、膝を折った。
紙の上に、膝をつく音は残らない。
代わりに残るのは、行の増加だけだ。
その行は、誰かの呼吸の拍と等しい。
校舎の灯が近づく。
窓のガラスに、三人の顔と、後部座席で黙って目を閉じる会長の横顔が重なる。
重なりは、もう亡霊ではない。
それは、合奏の型だ。
降車。
正門の内側は、紙の匂いと薄い夜気。
アヤカは歩き出しながら、心の中で次の見出しを一行書いた。
——第十六話:指を結ぶ。
生徒会室は、明日の朝も同じ場所にある。
だが、その中の紙は、今日の夜を知っている。
亡霊のいた位置、押された印、拭われた口紅の薄い楕円。
それらは、もう、こちらの言葉で呼べる。
“生徒会室の亡霊”。
名を得た亡霊は、ただの古い空気になった。
新しい空気を吸うために、誰かが窓の鍵を回す。
金属が、やわらかく鳴った。




