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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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第14話 校舎の中の遺体

 雨の予報は外れ、薄い雲だけが理科棟の屋根に貼りついていた。放課後、立入禁止のテープは形だけ、地下へ降りる鉄扉の南京錠は管理番号の消えかけた黄色い札をぶら下げている。新聞部の腕章を巻いた朝霧レイジは、その札の角に引っかかった黒い繊維をピンセットで摘み上げた。極短のポリエステル。モップの毛足。清掃後に付いたものを、誰かが気づかずに閉じたのだ。


「あとで繊維の太さを測る。三階の掃除用具と同じか見ておきたい」


「先に“匂い”」

 篝アヤカが言う。小さな銀色の缶を開け、コットンのパッチを取り出す。

「空気の底が違う。ここだけ、消毒が厚い」


 錠を外すと、階段の冷気が頬に触れた。地下倉庫は生物室の真下に位置し、上から落ちるモーター音が低く、一定のリズムで鳴っている。コンクリートの壁は半分だけ白く塗られ、残りは薄い灰色。蛍光灯の光は、粉のように浮遊する埃を白くする。


 階段を降りきったところで、ユナが手にした検査薬を壁際へ押し当てた。無色の液がじわりと青に変わり、すぐに紫の縁へ移る。ヘモグロビン反応。血の痕跡は思いのほか広かった。少なくとも一度は滴った量。床には四輪の橡ゴムが描いた半円の擦過が二列。壁に沿って伸び、角で曲がり、扉の前で止まる。担架の幅と一致する。


「担架の跡」

 レイジがしゃがみ込み、角度と幅をメモに起こす。

「……二度、進んで、一度、戻ってる」


「戻っている?」

 ユナが照明を少し上げる。影が薄くなり、床の黒が浮いた。

 レイジは指先で軌跡の重なりをなぞった。新しい輪郭は光をよく反射し、古い輪郭は鈍い。入口から最奥へ向かって一度進み、そこでわずかに方向を切り替え、数十センチ戻る。その戻りの上から、また同じ角度で進む跡が乗っている。担架のタイヤは、同じ人間が押したのではない。握り替えた手の高さが違う。押す力のベクトルも、片側に強い。


「一度戻ったのは、“入れ替え”。担架に載っている“何か”を入れ替えた」


 アヤカは目を伏せ、呼吸を二つ重ねた。吸う、止める、吐く。肺のコントロールを細くする。短く潜るだけにする。長い幽刻は、もうやめると決めている。それでも、ここは短い刃が要る。


「一分だけ。幽刻へ入る」

「待って。戻れなくなるな」

「戻る。——数えるから」


 レイジが腕時計に指を置く。ユナは照明を固定し、階段側の扉を半開きで止めた。空気の流速をたしかめるように、彼女は耳を伏せる。


 吸う。止める。吐く。

 吸う——止める。


 世界が薄く一層剥がれた。蛍光灯のうなりが紙へ吸い込まれ、埃の粒子がそれぞれ別々の名前を持つように静まる。アヤカは担架の跡の始点に膝をつき、床の微細な凹凸を指の腹で撫でた。左のタイヤは古い。細かい欠けが縁にあり、紙や布を噛む癖がついている。右のタイヤは新しい。均一で、反射が滑らか。——別の担架。あるいは、片輪だけ交換した担架。


 跡は、進み、戻り、進む。戻ったところで、床に白い塊が散っている。塩素剤の顆粒が、水で半ば溶け、粉のまま残って。そこだけ匂いが濃い。顆粒を直接振ったのは、血痕を消すため。戻った瞬間に、入れ替えがあり、塩素が振られた。


 アヤカは目線を上げた。倉庫の棚の下、段ボールが二つ。片方には衣類のプリント。寄贈衣料。校章入りのジャージ。もう片方には「実験用予備」と乱暴な字。タオル、ガウン、ゴム手袋。箱の口はどちらも半分だけ開いている。内側に付いた黒い指の跡は、二種類。太い指と、細い指。太い方は、塩素剤の顆粒を握ったあとの粉が付いている。細い方は、繊維の粉だけ。入れ替えの手は二人。


 担架の先端には、布が擦れた跡。濃紺。校章の刺繍の一部が、コンクリートの角に引っかかり、糸が二本だけほつれている。ほつれは古い。誰かが着た時間が、ここに沈殿している。


 さらに、アヤカは壁際の目立たない位置に俯き、薄い銀色の細片を見つけた。ホチキス針。開かれた状態の一本。衣服に何かを“留めた”。ネームタグか、番号札か。


 時間は戻る。

 音が戻り、空気が動き、彼女の心臓の青い点が、一度だけ強く脈打った。戻った。息が喉の奥で引っかかる。けれど、痛みは今は薄い。


「担架は二度進み、一度戻った。戻りで、塩素を振っている。衣服の入れ替えは、ここであった」

 アヤカは立ち上がり、指で段ボールの縁を示した。

「寄贈衣料のジャージ。サイズM。校章。——“トワの衣服”に見せるため」


 ユナが段ボールの中を確かめ、頷く。「下の段、サイズMだけが一着足りない。タグの糸くずが残ってる」


「布で拭いた痕は、担架の左右に広く。乗っていた人は“出血していた”。でも、ここに遺体はない。——ここで“トワ”に見せたのは、別人」


 レイジはメモの端に、“身元不明者”と書き、線で囲む。

「特徴を引っ張る。髪の長さ、体格、傷跡、刺青……」


「……刺入痕」

 アヤカが壁の低い位置に指を伸ばした。床に近い白い汚れの一角に、小さな点がいくつも並んでいる。パターンは一定。点の間隔は七ミリ前後。

「担架から落ちた腕が壁に触れた。その部分に、古い注射痕がある。左右どちらの手首にも。——繰り返し刺された痕」


 レイジは保健室の台帳、医務記録、退学者の健康診断の履歴へと頭の中の索引を飛び移らせる。繰り返す注射痕。入院や治療の痕でもありうるが、手首の外側に集中的。薬物依存の痕とは位置が違う。実験対象。動物の代わりに、人間の皮膚に刺すような不正。——いや、短絡するな。紙で確かめる。


 彼は階段に戻り、機材バッグから学校の保健記録の写しを取り出した。顧問に開示を求め、閲覧許可を得た範囲でコピーした四半期の分だ。名前に目星がつけば、過去の事故や退学処分の通知も辿れる。


 ページをめくる速度が上がる。注射、手首、古い痕、繰り返し。該当する記述は少ない。保健室はそういう痕を“見ない”。だが、一枚だけ、該当しうる記述があった。二年前の秋、三年A組の男子。通院歴に「実験参加」。医師の署名はあるが、病院名が記されていない。備考欄に、僅かな走り書き。「実験動物扱いを糾弾して揉める→退学手続きへ」


「……いた」

 レイジは紙を示す。

「二年前に退学になった元生徒。実験動物扱いを糾弾して、学校側と揉めた。保健記録の備考はめちゃくちゃ汚い字。——でも、これしかない」


 名前。イニシャルだけが読める。K。姓は二文字、名は三文字。レイジは名簿を引き、該当する生徒を二人にまで絞る。どちらも理科棟での活動歴がある。どちらも、在学中に問題を起こしたという噂が残る。


「どっちだ」

 ユナが小さく問う。


「どっちも、当たる」

 レイジは決めたように顔を上げた。

「今夜、校外の空き家で“うめき声”がしたという通報があった。消防団の掲示板に記録。……場所は、学校から徒歩二十五分。理科棟から担架で運ぶなら、途中で車に乗せ替える距離」


「行く?」

 ユナが目で合図する。

「行く」

 アヤカは躊躇わない。


     ◇


 空き家は、住宅街の端の、フェンスの錆が赤く浮いた角地にあった。表札は外され、郵便受けに古いチラシが詰まっている。通報を受けて駆けつけた消防団は既に引き上げ、救急隊が残した黄色いテープだけが庭に斜めの区切りを作っていた。近所の老婆が玄関先のほうきを杖のようにして立っている。


「さっき、救急車が行ったよ」

 老婆は小さな声で言う。

「痩せた若い子。血で……いや、血はもう乾いていたかな。喋るには喋っていたけど、何を言っていたかはねえ……」


 レイジは礼を言い、救急の搬送先を確認するための連絡を回す。幸い、校医の協力で病院名が共有された。彼らはタクシーに乗り、救急外来へ向かう。夜の待合室は眠らず、淡い音楽と、椅子の軋む音だけが繰り返される。


 診察室の手前で、彼は見た。担架の上の青年。目の周りに青い影、頬はこけ、髪は刈り上げが伸びかけている。腕には包帯。手首の下から、古い点々の列が見えた。七ミリ間隔。左右どちらにも。——注射痕。


「面会は短く」

 担当医が言う。

「命に別状はない。出血は傷ついた皮膚の裂け目から。感染は今のところなし。……でも、まだ、長くは喋れない」


 アヤカたちは頷き、青年の枕元へ立った。目は開いていた。焦点は揺れるが、耳は生きている。レイジが名を呼びかける。二年前の名簿から導いた名前のひとつ。青年のまぶたが僅かに動く。もう一つの名前を呼ぶと、今度は首が薄く横に振れた。——当たった。


「学校から、来たのか」

 青年は掠れた声で言う。

「まだ、あそこは、時間が……」


「私たちは、時間を紙に戻しに来た」

 アヤカは簡潔に答えた。

「あなたは、地下で担架に載せられた。ここで、衣服を“トワのもの”に入れ替えられた。——あなたを、“トワに見せる”ために」


 青年の喉が動く。笑おうとしたのかもしれないが、笑いは咳に変わった。

「……そうだ。俺は、トワじゃない。トワは、生きている。会長が、連れ出した」


 レイジはわずかに肩を強張らせる。病室の空気が、言葉の形で密度を変える。

「会長が?」


「研究を、守るためだ。俺たちの、じゃない。——トワの。……守るために、あの人は、学外の“支援者”へ、託した」

 青年は目を閉じ、ゆっくり開く。口の端が乾いて白い。

「支援者。……俺は、顔を見てない。だが、合図を聞いた。四拍の、最後の、伸ばし。会長の、癖だ。……外の人間も、それに合わせて……」


 言葉が途切れ、医師が手で合図をする。もう限界だ。

 アヤカは小さく頭を下げた。

「ありがとう。——あなたの名前、紙に載せていい?」


 青年は、ほんのわずか考え、首を横に振った。

「まだ、やめてくれ。俺は、まだ、“実験動物扱い”のままだ。紙で名前にされるには、まだ準備ができてない」


「分かった」

 アヤカは答え、後退した。

 レイジは胸の奥で怒りに似たものが立ち上がるのを、ゆっくりと抑えた。怒りは刃の向きを誤らせる。紙にする。紙に変換する。


     ◇


 病院を出ると、夜の湿気が頬を撫でた。遠くの交差点で赤信号が目を細くし、誰もいない横断歩道に反射を落とす。三人は病院の駐車場の隅に立ち、短く話をまとめた。


「会長は、トワを“連れ出した”。学外の支援者へ託した」

 レイジが言葉を整える。

「動機は、“研究を守るため”。外部の研究者から? それとも、別の大人から?」


「“支援者”の正体は、まだ仮説が多い」

 アヤカは首を振った。

「大学のラボ——トワが初期に相談した相手。あるいは寄付者。設備を持ち、親局の話が通じる。……でも、会長の“順序”とは別の順序を持つ人。彼のUTCと噛み合わない誰か」


「全国の“0秒”報道も重なってくる」

 ユナが言う。

「歌詞を配ったのが“支援者”なら、学校内の“ゼロ”は、外に接続される。——でも、さっき、会長のネットワークは内向きだった」


「支援者が“別の回線”を持ち込んだ」

 レイジは歩き出し、すぐに立ち止まる。

「理科棟に親局。生徒会室に再送信器。暗室には窓。——それらとは別に、仮設の回線。搬出の夜、非常口で微弱降下があった。警備会社のログは“不正操作”。外の車。モバイルルータ。外から入れて、外へ戻す回線」


「“支援者”は、ITに強く、機材の調達も早い。学校に入りやすい身分」

 ユナは指折り数える。

「卒業生の保護者? 地域のNPO? あるいは、この街に研究拠点を持つ企業の技術者。——紙で洗える」


「紙で洗う」

 アヤカが同意し、唇に指を当てた。

「でも、その前に、会長」


     ◇


 生徒会室は、夜でも冷めない紙の匂いがした。会長は机の前に立ち、窓に映る自分の姿を真正面から見ていた。背後の扉が開くと、彼は振り返り、来訪者が誰かを確認するより早く、机の上の鍵束を滑らせた。


「地下の倉庫に血痕反応。担架の跡は二度進み、一度戻った。……衣服の入れ替えがあった」

 アヤカはまっすぐ告げた。

「あなたは、東雲トワを連れ出した。学外の“支援者”へ託した。——そうですね」


 会長は、否定も肯定もしない。短い沈黙の後、言葉を選ぶように口を開いた。

「東雲は、自分の研究を“外の文法”へ翻訳しようとしていた。私は、校舎の文法の中で守ろうとした。……二つの文法は、一夜では交わらない。だから、一度、外へ出した。支援者へ」


「誰」

 レイジが切り込む。

「“支援者”は誰だ」


「名前は、今は言えない」

 会長は目を細めた。

「彼らは、善意で動いた。善意は、時に最悪の刃になる。——紙に書くには、準備がいる」


「その善意は、“歌詞”を配ったかもしれない」

 アヤカは一歩踏み出した。

「全国で“0秒”。——合図の歌詞が、どこかから漏れた。あなたではない。ミコトでもない。御子柴でも顧問でもない。なら、外。支援者」


「彼らは、歌詞が人を傷つけるとは思っていない」

 会長の声には苦味が混じる。

「歌詞は美しい。理論は美しい。——美しいものは、よく切れる」


「切れるなら、刃の向きを決める」

 アヤカは言う。

「支援者の名前を、紙にする準備をあなたがするなら、手伝う。……でも、いまは、あなた自身の“合図”の説明が先」


 会長は頷いた。

「私は、最後の一拍を伸ばす。それが、私の合図。——その合図に、東雲は反応する。だが、彼を動かした最初の無音は、ミコトのものだ。私は、彼女の無音を知らなかった」


「知っていようが、いまいが、合奏は成立した」

 レイジが肩を落としながら言う。

「結果として、君は“連れ出した”。地下の倉庫で“入れ替え”があった時、君はどこにいた?」


「理科棟の外階段の踊り場。……警備の死角の手前。私は、鍵を手に持ち、合図を待っていた。私の役割は、扉を開けること」

 会長は鍵束を指で弾き、かすかな音を立てた。

「扉を開けた先に、担架があった。上には“トワの服”。——だが、顔は違った。……私は見ない選択をした」


「見ない選択」

 アヤカはその言葉を反芻し、ポケットから細いホチキス針を取り出した。地下で拾ったものだ。

「あなたは、見ないために“紙”に頼った。針で留められたネームタグ、寄贈衣料の校章、ジャージのサイズ。……紙は、あなたを守ったふりをして、あなたの足を引っ張る」


 会長は目を閉じ、短く息を吐いた。

「私は、紙に負けた。——あの夜の私の紙は、嘘をついた」


「紙は嘘をつかない」

 アヤカは静かに首を振った。

「嘘をつくのは、紙に触れる手。……だから、手を離す。あなたが“支援者”の準備をする間、私たちは“校舎の中の遺体”の疑似を、紙で剥がす」


     ◇


 新聞部は夜の臨時号を準備した。見出しに“遺体は校舎にない——入れ替えの跡を確認”と小さく置き、本文で担架の跡、塩素の顆粒、衣服の不足、ホチキス針の位置、注射痕のパターンを淡々と並べた。青年の名は出さない。病院での会話は要旨だけ、主語を曖昧にして、出典を「関係者」とする。紙は、誰かを守るために濁ることがある。濁りは、罪ではない。まだ、名前の順序が決まっていないからだ。


 配布を終えると、レイジは一人、理科棟へ戻った。地下の扉の前で立ち止まり、耳をすませる。何も聞こえない。空気の層は重く、匂いは薄く、時間は、ここで一度だけ沈む。ポケットの中のピンセットが金属音を立て、彼はふと、階段の踊り場の角に視線をやった。


 そこに、細い線がある。黒いマジックの痕だ。壁から二十センチ離れた位置に、壁と平行に引かれた、何の意味もない直線。——いや、意味はある。担架の“目印”。押す側が、一度引き返すためのガイド。線の上で、担架は“戻る”。


 レイジは写真を撮り、アヤカへ送った。返信は短い。“合図の補助線”。

 合図は音だけではない。線、匂い、影。——歌詞は増える。


     ◇


 夜更け、アヤカはマンションの自室の机で、幽刻へ入る練習だけをした。入らない練習。吸う。止める。吐く。吸う——止める。止める時間を短くする練習。彼女の寿命は、刺繍のように数えられている。余白は、細い。使うと決めた時にだけ、使う。そのために、使わない練習がいる。


 ノートの表紙に、今日の見出しを書いた。


 ——校舎の中の遺体(に見せたもの)

 ——担架の二度の進行と一度の戻り

——塩素の顆粒

——寄贈衣料の不足(サイズM)

——ホチキス針とタグ

——手首の古い注射痕(七ミリ)

——退学者K(匿名)

——空き家→救急→「トワは生きている。会長が連れ出した」

——支援者=外

——合図の補助線(踊り場の黒線)


 ペン先が止まる。新しい行を作れずに、少しだけ空白が伸びる。支援者——外の誰。大学のラボ。寄付者。企業。——名前は、紙にすぐには載らない。情報の“順序”がまだ濁っている。


 スマートフォンが一度だけ震えた。差出人:東雲トワ。短いメッセージ。


「支援者の場所、たぶん、あなたたちの推理と同じ。——けど、“誰か一人”じゃない。合奏。僕を連れ出したのは、ひとりじゃなかった」


 アヤカは画面を暗くし、ゆっくりと目を閉じた。

 合奏。ここでも、外でも。歌詞の配り手が複数なら、歌い方も複数。刃の向きも、複数。


 雨が、やっと来た。ベランダの手すりに、粒が一つずつ音を残す。リズムは無意味だが、耳は意味を探す。数え始めると、止まらない。

 吸う。止める。吐く。

 止めずに、眠る。


     ◇


 翌朝、校門に近い掲示板に、新しい紙が貼られた。会長名義の「外部支援への一時停止と再構成のお知らせ」。そして、その下に、新聞部の続報予告。見出しは控えめだが、視線を掴む強さは十分。


 “入れ替えの夜、なぜ担架は戻ったか”


 アヤカは遠くからその紙を見て、踵を返した。向かう先は理科棟でも、生徒会室でもない。市役所の隣、教育委員会の建物。寄付と外部支援の届出を保管する場所。支援者の“順序”は、まず紙から始まる。


 受付で用件を伝え、閲覧許可の手続きを進めていると、背後で足音が止まった。御子柴カナメだ。彼は手に何も持たず、挨拶代わりに顎を少しだけ上げる。


「俺、来ちゃいけない場所に来たかな」


「刃の向きが決まれば、来ていい場所」

 アヤカは言い、窓口の用紙に必要事項を埋めた。

「協力者として、あなたの名が要る」


「俺の三拍目、また使うの?」

「使う。——支援者の紙で、拍を数える」


 窓の外、雨は弱まり、光が薄く差し込む。

 “校舎の中の遺体”は、影の濃い比喩として残った。遺体はない。あるのは、入れ替えの跡と、重ねられた歌詞と、紙。

 アヤカはペンを置き、受付の奥から出てくるファイルを真正面から受け取る準備をした。


 最後の見出しを書く場所は、まだ余っている。

 ——支援者の名前(複数)

 ——合奏の指揮者

 ——ゼロの外側の順序


 紙は、また一枚、増える。

 刃の向きは、そのたびに、少しずつ正しくなる。

 校舎の時間は、今日も、内側へ戻る。

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