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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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第13話 零秒現象

 朝のチャイムが二度鳴るより早く、校内の空気がざわついた。昇降口に据え付けられたテレビが、特別編成のニュースを流している。テロップには、派手な色で短い言葉が踊る。


 “全国の学校と公共施設で同時多発 再生時間0秒の音声ファイルを発見”


 アナウンサーの声は冷静だが、背後の映像は実験室や会議室の机に置かれたボイスレコーダー、サーバラックのランプ、ホワイトボードの無意味な数式と、落ち着かなさを拡散する物ばかりを切り取っていた。ワイプの専門家は「可聴波形があるのに再生が0秒という点で、ファイルシステムかタイムスタンプの異常が疑われます」と言い、もうひとりは「いや、時間スケールの欠損自体が情報です」と言葉を重ねる。何も分からないくせに、分かったふうな言葉で穴を埋めるやり方。だが、その穴の形は、こちらの穴にも似ていた。


 新聞部の部室では、朝霧レイジが既に録画を巻き戻して、画面の端に映った校章や扉の形式から“どの学校か”を同定し始めていた。篝アヤカはテレビから距離を取り、窓際で深呼吸を二度する。吸う、止める、吐く。その動きだけが、彼女の体温を一定に保っていた。


「模倣犯?」

 レイジが問う声は速い。

「それとも、同じ手口の連鎖?」


「挑戦状の拡張」

 アヤカはテレビに背を向けたまま言う。

「私たちに、時間を“全国規模”で語らせたい。止まった一秒を、現実の正規の単位として増殖させたい“誰か”。……挑戦状は、私たちが受け取ってしまった時点で成立する。だから、受け取り方を選ぶ」


 扉が開き、水無瀬ユナが顔を出す。彼女の手には薄い封筒が二通。校務から戻ると、そのまま忍び足で入ってきた。


「生徒会長の私物持ち込みの記録」

 彼女は封を切り、書類を取り出して机に広げる。

「理科棟の研究室に、彼が“NTP親局”を個人持ち込みした記録。海外規格のまま。申請理由は“実験の正確なタイムスタンプ取得”」


 アヤカとレイジが同時に身を乗り出す。たしかに、型番が載っていた。国内流通では滅多に見ない癖のあるメーカー。電波時計の受信ではなく、ネットワーク時刻の“親”。子ではない。時刻をもらう側ではなく、配る側。


「彼は時刻を“配って”いた」

 レイジが言う。

「校内だけでなく、同類の機器に“親として”影響を及ぼせる」


「だから全国でも“0秒”が増えた?」

 ユナは眉根を寄せる。

「校外の施設へ時刻が届くなら、回線の先に同じ手口の“余白”を作れる」


 アヤカは首を横に振り、静かな声で切った。

「一見、因果が繋がる。けれど、校外のネットワーク環境は多様。彼ひとりの親局で全国が揺れるなら、それはもう“事件”を越えたインフラ事故。今回の同時多発は、意図的に“似た穴”を見せている。——挑戦状。彼の親局は、その挑戦状を“国語として読めるフォント”に整えるための道具に過ぎない」


 言いながら、アヤカは封筒の二通目に視線を落とす。ユナが渡してくる。

 共同発表予定者の名簿。校内研究発表会の目玉企画——“時刻同期のズレが認知へ与える影響”のセッション。共同発表者欄に、生徒会長の名前。東雲トワの名前。その二つが並ぶ。


「共同発表者」

 レイジは紙から顔を上げ、アヤカを見る。

「主導権。理想のための手段。動機になる」


「動機は刃先を決める。でも、向きはまだ決まっていない」

 アヤカは紙を重ね、封筒に戻した。

「自分の理想のために時刻を“整える”のか、研究の主導権のために時刻を“奪う”のか。……整えることと奪うことは、紙の上ではよく似る。だから、紙の外側へ行こう」


     ◇


 生徒会室ではなく、その隣にある会長の個室。会長机は簡素で、無駄な装飾はない。壁は学校指定の白。だが、その白が白であることを疑う目は、部屋に入るなり、最初に壁を選ぶ。


 レイジが歩きながら、ふっと立ち止まった。

「待って」

 彼は懐から小さなLEDライトを取り出し、壁際に沿わせる。白い漆喰に、薄い楕円のムラが浮かび上がった。布で拭った跡のような不規則な輪郭。中心に残る、ごく薄い赤味。肉眼で見れば白にしか見えないが、光を斜めに当てると、そこにだけ微粒の反射が異なる。


「……口紅の拭き跡」

 レイジが低く言う。

「塗って拭ったのか、紙に付いたのを壁で擦ったのか。会長は化粧なんてしない。誰の?」


「貸した、と彼女は言った」

 扉の向こうから、落ち着いた声。早乙女ミコトが姿を見せる。

「口紅。色は青みの赤。放送部の小道具の在庫と同じだけど、私は私物を一本、会長に貸したことがある。理由は、紙を綺麗に押すため。印影の朱肉が薄いときに口紅で下地を作ると、朱がよく乗るのよ。昔、経理の先輩に習った裏技」


 会長は部屋の奥で窓を背に立ち、こちらを見ている。光の位置が悪く、顔の半分が影になる。彼は言い訳を後回しにする癖がある。最初に事実を並べ、次に手順を示し、最後に意図を語る。彼の構成はいつも論理的で、感情は補遺だ。


「口紅の痕跡がある。共同発表者の名にあなたの名前。海外規格の親局を持ち込んだ記録。……そして、全国の“0秒”報道」

 アヤカは一つずつ置いて、会長を見た。

「あなたの時間が、外へ漏れた」


「違う」

 会長は短く言う。

「私の時間は、ここに戻った。私は、外へ漏れる時間をここへ戻すための“型”を作った。親局は、校内の時刻の齟齬を矯正するため。全国の報道は、私の回線の“先”の話ではない」


「どちらにしても、あなたは“時間に触れた”。だから、“0秒現象”があなたの挑戦状ではないと証明する責務がある」

 アヤカの声は硬いが、攻めに熱はない。事実の輪郭だけを磨く。


 会長は静かに溜息を吐いた。

「君たちは“止まった一秒”に囚われている」

 彼は笑わない。

「一秒が止まったことが事件なのではない。止まった一秒を、誰かが“言葉にして配ったこと”が事件だ。私は、言葉を配っていない」


「配っていないのに、口紅で“紙の言葉”を濃くした」

 レイジが壁を振り返る。

「印影のために口紅を使うのは、事務の裏技としては理解できる。けど、こんな壁にまで薄く残るほど擦る? 誰が、何の印をここで押した」


 会長は机の引き出しから、小さな木箱を取り出した。中には、古びた印鑑が二つ。生徒会長の職印と、生徒会室用の丸印。

「紙を整えるのに、方法を選ばないときがある。口紅は、そのときの道具だ。壁の痕は、拭き残し。ミコトに借りたことも事実だ」


 ミコトは会長の背で眉を動かし、こちらへ目線を送る。彼女の瞳に責めはない。ただ、重なりの自覚だけがある。


「会長とミコトは、共犯ではない。——重なった瞬間がある」

 アヤカは独白に近い声で言った。

「時間を整える目的が、一瞬交差した。あなたは紙を濃くしたい。彼女は出口を作りたい。出口を作るには、紙の濃さが要る。……そこで、口紅が壁に残る」


 会長は半歩だけこちらに近づいた。

「重なりは罪か」

 彼は問う。


「重なりは刃。切る方向は、その場で決まる」

 アヤカは即答した。

「いま必要なのは、重なりを“開示すること”。全国の“0秒”は、私たちが内側で手を握っていたことが外へ“誤読”される危険の兆候。挑戦状は、それを狙っている。……だから、開く」


 ユナがノートPCを広げ、会長の個室の壁のLANポートに接続する。ネットワークの内部構成図が立ち上がる。親局は理科棟の研究室に常設、子に当たるNTPクライアントは各棟のシステム機器。会長の個人端末は“親を参照しない”設定。つまり、彼は“自分の時間”は配らない。校内の機器の時間だけを矯正するよう、細かくトポロジを区切っている。


「校外へのポートは閉じられてる」

 ユナが画面を示す。

「親局は完全に内向き。でも、ニュースの“0秒”は、別の入口から入ってきている可能性。——手口を真似るための“説明書”を手に入れた誰か」


「説明書?」

 レイジが首を傾げる。


「挑戦状の拡張。つまり、誰かが“0秒の作り方”を配っている」

 アヤカは思考の速度を上げず、目盛りを刻むように言葉を置いた。

「配られているものは、手順の断片。校舎の構造に合わせて“補助線”を引いた者が、各地で合奏している。——歌詞だけ共有され、メロディは各自で」


「なら、ここで一度、歌詞集を燃やす」

 会長が机に手を置く。

「校内から出る“似た穴”を閉じる。“0秒”がここから外へ広がる可能性をゼロに近づける。それが、私にできる唯一のことだ」


「閉じるだけでは、挑戦状は喜ぶ」

 アヤカは会長の言葉に刃を重ねる。

「挑戦状が欲しいのは、私たちの“恐れ”だ。閉じた校舎、閉じた時間。——そこに“止まった一秒”を並べて、笑う。それを防ぐには、閉じた上で、外へ説明を配る必要がある。“ここは違う”と。あなたの時間はここに戻っていると」


 会長は目を閉じ、一度頷いた。

「紙を書く」

 彼は、いつもの結論に戻る。

「説明文書。構成図。親局の閉鎖設定。端末のログ。私は、紙で外へ説明する」


「紙の前に、もうひとつ」

 レイジが手を挙げた。

「共同発表者の件。あなたはトワと壇上に上がる予定だった。……主導権のために彼を“押さえに”動いた可能性も、紙の上では否定できない」


 会長はレイジの方をまっすぐ見て、わずかに笑った。

「壇上とは、立つための場所だ。私たちは壇上で“並ぶ”。並ぶことは、押さえることではない。……だが、紙に名前が並ぶとき、その順序を誰が決めるのか、という問題は残る。私は、順序を決めたかった」


「順序」

 アヤカが繰り返す。

「それがあなたの時刻。あなたのNTPが配るのは、順序。……そしていま、全国の“0秒”は、順序の消失を配っている」


 会長は黙り、窓の外に一瞬だけ視線を投げる。雲は薄く、風は弱い。時間が動いているときの空だ。


「トワに会わせてほしい」

 彼が言った。

「“順序”について、話すべきことがある」


「条件がある」

 アヤカは即答した。

「あなたと彼の会話は、公開の紙にする。抜き取りなし、0.2秒の無音も装飾も混ぜない。——その代わり、あなたの“UTC”の論理が必要なところは、そのまま残す」


「受ける」

 会長は頷いた。

「ゼロの外側で私がやったことを、紙に戻す」


     ◇


 理科棟の屋上で、昼を一度だけ挟んだ風が冷える。柵の向こうはまだきれいな青。東雲トワは両肘を柵に預け、下の校庭で緩くドリブルする音に耳を貸している。戻ってきた彼の横顔は、昨日よりも輪郭がはっきりしていた。眠りが浅くても、戻る場所がある顔は、目の周りが違う。


「ニュース、見た?」

 レイジが並ぶ。

「全国で“0秒”。君の研究は、もう校舎の壁を越えて言葉になっている」


「言葉になったものは、どこへでも行く」

 トワは微笑む。

「戻ってきた時間の話を、誰かが欲しがる。……でも、僕がここに戻ってきたのは、時間が“ここにあるから”だ。外のゼロは、僕にとっては地図の外。地図の中は、こっち」


 後ろで足音。会長が来る。彼はいつもどおりの歩幅で、いつもどおりに立つ。だが、いつもと違うのは、手ぶらで来たことだ。紙を持たず、印鑑も持たず、ただの身体だけ。


「壇上の順序を決めたのは私だ」

 会長は前置きもなく言った。

「私が一番目、君が二番目。——紙の上では、そうなっていた」


「知ってる」

 トワは頷く。

「でも、時間の話に“順番”は必要ない。僕の研究は、ゼロが起きることを扱っていない。ゼロが“起きたことにされる”ことを扱っている。順番ではなく、理由」


「順番が理由を作ることもある」

 会長は言い、言いながら小さく笑った。自分の論理に反証を当てる前に、言葉は自分に向けられるべきだという自覚の笑み。

「だが、今回の“0秒現象”は、順序の消失が理由だ。……私は順序を守るために親局を入れた。校内の順序は戻った。外の順序を私は支配しない」


「支配しないと言える人は、少ない」

 トワは空を見上げ、目を細めた。

「僕は、一回、支配される方を選んだ。実験ごと外へ逃がすのが正しいと思った。——けど、戻ってきた。ここで“いつ”を作り直す方を選んだ。支配の外側で」


 アヤカは二人から半歩だけ距離を取り、風の音と靴底の摩擦の音を分解する。録音はしない。ただ、紙に後で書けるように、見出しだけを胸の内で並べる。会長の順序、トワの理由、全国のゼロ、挑戦状の拡張。


「会長」

 アヤカは静かに呼んだ。

「あなたの部屋の壁の口紅。——ミコトは“重なりの瞬間”を認めている」


「彼女の刃は無音だ」

 会長は目を閉じて言う。

「私は、彼女の無音を知らないまま、紙を濃くした。重なりは、意図ではない。偶然だ」


「偶然も刃になる」

 アヤカは首を横に振る。

「全国の“0秒”は、偶然の連鎖を装っている。実際は、歌詞が配られた。“無音を置き、最後の一拍を伸ばし、保守端子を叩け”。——歌詞を配った者がいる」


「配った者」

 レイジが小さく繰り返す。

「外の“誰か”? 会長でもミコトでもない?」


「歌詞は校舎の中で作られ、外では写し間違いが含まれる」

 トワが言い、柵から身を離した。

「写し間違いの癖が、外部の“先生”のものに似ている。……僕が最初に相談した、大人の研究者。大学の、時間知覚研究のグループ。彼らは親切だったよ。親切は、時に歌詞になる」


 アヤカは肩の内側で寒気を押しとどめる。

 外部の研究者。歌詞の本家。校舎の内側の合奏が、外へ流出するには十分な導線。


「名前は、紙に書く」

 トワが先回りして言う。

「いまここで口に出すと、挑戦状が“炎上”に変わる。僕らは、紙でやる」


「紙でやる」

 会長とアヤカが、ほぼ同時に頷いた。


     ◇


 午後。生徒会室は臨時の対策本部になった。白板に“外へ出す紙”の目次が並び、各自の役割が短く書かれる。

 会長は構成図とNTP設定の説明文書。

 ユナは照明と空調の“合奏”が生徒の安全に配慮した手順であることの追記。

 御子柴は保守端子の“十六拍”が危険行為であり、管理者以外が真似るべきでない検証の記述。

 ミコトは“無音の一拍”について、放送の基礎としての“フェーダーの扱い”から書き、今回の“挑戦状の歌詞”とは無関係であることを明確にする。

 アヤカとレイジは、これら全てを束ねる“編集”を担当する。紙は、編集で刃を持つ。


 書き進めながらも、レイジの頭の隅では、会長の言葉が反芻されていた。“君たちは止まった一秒に囚われている”。嘲笑に似た響きに、反感は不思議と湧かない。むしろ、正確にそうなのだと思う。ゼロに囚われたからこそ、ここまで走ってこられた。囚われていることを自覚した囚人は、鍵の形を覚える。


 夕刻、紙は一度整い、会長の署名と捺印の準備が整った。机の上の口紅は使わない。朱肉は新しいものに取り替えられ、印面はまっすぐ落ちる。壁に新しい赤は増えない。


 署名が終わると、アヤカは会長の個室へ、もう一度だけ足を運んだ。ドアノブの温度、窓の鍵の角度、LANのケーブルの癖。何もかもが、彼の秩序の範囲にある。だが、ひとつだけ、範囲の外側のものが残っている。


 壁の薄い楕円の拭き跡。

 アヤカはLEDライトを当て、消えかけた赤の粒子を確かめた。

 この痕跡は、証明でも否定でもない。ただ、“重なり”の形をしている。

 刃が空を切ったときの風の痕のように。


 戻ろうとして、ふと窓の外に小さな反射を見た。手鏡の面が一度だけ光る——あの、挑戦状の合図。しかし今回は、鏡の角度が違う。光は廊下の掲示板に跳ね、紙の告知の端を白く照らしただけで、誰の目線も誘導しない。合図は、不発。

 アヤカは鏡の主の方へ視線を滑らせる。廊下の角。三年の女の子が、携帯用の鏡で前髪を揃えているだけ。偶然。偶然は、刃ではない。——決めつけない。彼女は踵を返した。


     ◇


 夜。学校の公式サイトに、会長の名で「時刻同期に関するお知らせ」が掲載された。技術的な配慮と、校外へ向けた配慮。あからさまな自己弁護は一行もない。

 同時に、新聞部の臨時号外が校内に配られた。見出しは大きくない。文字も踊らない。ただ、事実と、刃の向きだけが、淡々と書かれている。


 “止まった一秒は、ここでは増やさない。増えるのは、紙の行だけだ”


 配り終えたレイジの背中に、誰かが軽く声を掛けた。御子柴カナメだ。工具箱ではなく、今日はスコアが手にある。保守端子の打鍵パターンを五線譜に起こした遊び。彼はそれを胸の内で揉みながら、言った。


「合奏、次で終わると思う?」

「終わらない」

 レイジは即答した。

「挑戦状は“次”を用意してる。全国の“0秒”は、ただの前奏。……でも、一回は返した。返し方は覚えた」


「覚えたなら、次は楽だ」

 御子柴は笑い、譜面を折ってポケットにしまった。

「俺は、次はもう“中立”をやらない。打つなら打つし、離れるなら離れる」


「離れない方がいい」

 レイジは自分でも驚くほどすぐに言って、それから少し恥ずかしくなった。

「いや、その……君の三拍目が要る」


「分かった」

 御子柴は短く言い、踵を返す。背中は、前より軽い。


 アヤカは職員室の前で会長とミコトを見送っていた。二人は並んで歩くが、肩は触れない。共犯ではない。重なった瞬間があっただけ。

 彼女が二人の背を見失ってから、ゆっくりと息を吸い、止め、吐いた。今日一日の息の数を、紙に換算する。


 帰り道、校門で東雲トワが待っていた。

 彼はポケットから小さなメモ帳を取り出し、一枚ちぎってアヤカに渡す。


「歌詞の持ち主の名前」

 彼は言う。

「大学のラボの、誰」


 紙には、イニシャルだけ。

 フルネームはない。

 だが、これだけで足りる。紙の上には、補助線がいくらでも引ける。


「ありがとう」

 アヤカはメモを胸ポケットにしまった。

「明日、紙にする」


 トワは頷き、夜の方へ身を向けた。

 彼の歩幅は一定。足音は薄く、でも消えない。

 レイジはその背に重ねるように、号外の残りを鞄に押し込み、肩紐を引き直した。


「なあ」

 彼は口の中で呟く。

「“止まった一秒に囚われている”って、悪くないかもしれない」


 囚われているから、鍵を探す。

 囚われているから、呼吸を数える。

 囚われているから、紙を増やす。


 夜風が一度だけ止み、すぐに戻る。

 校舎のガラスが、弱く光る。

 遠いどこかで、誰かがまた“0秒”を仕込むかもしれない。挑戦状は、増えるかもしれない。

 けれど、その挑戦状を“国語として読むフォント”は、もうこっちが握っている。

 紙の上に、ゆっくりと新しい行が増える気配がする。


 ——零秒現象。

 止まるのは一秒。

 進むのは、私たちだ。

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