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幽刻探偵・篝アヤカ ―零秒の密室―  作者: 妙原奇天


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12/25

第12話 同期装置の罠

 夕焼けは、校舎の硝子に横一文字の傷を刻む。

 その傷の上で、紙はよく鳴った。会計室の机に積まれた伝票の束、監査用の付票、搬入搬出の証跡、そして早乙女ミコトが差し出した、短い自筆の陳述書。インクの艶がまだ湿っている。


「読んで」


 ミコトは、無駄のない声で言った。視線は下げず、こちらの呼吸の速さを測るように水平に保っている。

 篝アヤカは一歩だけ近づき、紙の縁を指に挟んだ。紙は体温で少しだけ柔らかくなる。読む前から、文字の重さはわかる。軽い自白ほど、鋭く刺さる。


 ——私は、東雲トワの研究が校外の「大人」に奪われるのを恐れた。

 ——だから、彼を実験と証拠ごと校外へ逃がす準備をした。

 ——生徒会室の密室は囮。校内捜索を遅らせるための舞台。

 ——しかし当夜、理科棟の仕掛けは「誰か」に上書きされた。私は合図を送っていないのに、装置は動き、トワは奪われた。

 ——上書きできるのは、物理部部長・御子柴カナメ、もしくは理科主任の顧問。

 ——私は、そこから先を知らない。


 読み終えても、紙は黙っている。紙はいつも、公平だ。公平さは、時に冷酷だ。


「逃がすつもりだったのは、事実」

 ミコトが続けた。

「でも、奪ったのは私じゃない。装置は、当夜、私の合図なしで起動した。……自分の刃の届かないところで、人が動くのって、怖いわね」


「刃を貸した時点で、その刃は“誰か”の手にもなる」

 新聞部の朝霧レイジが、息を整えながら言葉を置く。

「君はフェーダーの前で息を吸う。合図の前の無音を作る。……だが、その無音を、別の誰かが“合図”に変えた」


 アヤカは紙を伏せ、ミコトの目の高さに視線を合わせた。

「上書きした“誰か”の目星は付いている?」


「狭い。御子柴くんか、顧問。あの装置に触れられて、しかも“校内の癖”を知っているのは、その二人だけ」

 ミコトは肩をすくめる。

「御子柴くんは自分の手の潔癖を守る。顧問は“正しい書類”で身を守る。……どちらも、刃を磨ぐのは上手」


「じゃあ、磨がれた刃の“向き”を見に行こう」

 アヤカは陳述書を封筒に戻し、踵を返した。

「刃の向きは、紙で決まる」


     ◇


 物理部室は、夕刻の光でもいつも明るい。アルミフレームの骨組み、配線用の束線バンドの白、工具箱のラベルの黄。視界に直線が多い部屋は、嘘をつきにくい。

 御子柴カナメは、はんだ鏝の電源を落としてからこちらを振り向いた。


「俺を疑う、という筋書きは理解できる」

 彼は椅子にもたれ、あっさりと言う。

「だが、同期エラーの作り方は、もう校内に広まっている。JJY再送信器のキットは複数。PLAの樹脂は共用。ワイヤでサムターンを回す手管は、放送部でも実演できる。……つまり、俺じゃなくてもできる」


「“できる”と“やった”の間には、ひとつ“癖”が要る」

 アヤカはスチール机の角に指先を置いた。

「あなたの癖は、中立を自称しながら、仕上げだけは職人の勘で“余白”を埋めるところ。暗室の窓、コーキングの縁は美しすぎた。学生の仕事にしては」


「採寸したのは俺じゃない」

 御子柴は否定を重ねた。

「材料の相談に乗った。それは認める。だが、取り付けは理科準備室の“だれか”だ」


「“だれか”を出す気は?」

 レイジが問う。

 御子柴は少しだけ目を細め、それから、ゆっくり首を横に振った。

「今は、まだ」


 アヤカはもうそれ以上踏まない。彼女は足を一歩だけ引いて、次の刃へ向きを変える。

「顧問室へ行く。紙の刃の方が、今日は切れる」


     ◇


 理科主任の顧問室は、整頓されていた。伝票の綴り、実験計画書、撮影許可、危険物管理。どれも背表紙が揃い、ホコリの帯に指の跡がない。

 理科主任——白髪交じりの小柄な男——は、こちらが事情を切り出すより先に、A4のクリアホルダを差し出した。


「その夜は、出張から戻ったばかりでね」

 穏やかな声だ。

「空港からのレシート、交通系の履歴、立ち寄ったコンビニの領収書もある。時間は——」


 アヤカは、それを受け取る前に視線だけで読む。

 コンビニのレシートは、商品名の並びが妙に均一だ。おにぎり、ペットボトル、ボールペン、乾電池。

 そして、時刻。

 午後八時四十二分。

 彼の主張する帰着時間とぴたり一致する。


「……サマータイム」

 アヤカは紙を手に取らず、言葉だけを置いた。

「このプリンタ、サマータイムの設定を誤っている。毎年、春と秋の切り替わりのときに一時間ずれる既知のバグ。メーカーのサポートページに修正パッチが出ているのに、適用していない店がいまだに残ってる」


 顧問の目が、わずかに泳いだ。

 レイジは慌ててポケットのメモに何かを書きつける。

「つまり……」


「つまり、あなたのレシートの“八時四十二分”は、実際には“七時四十二分”。空港から学校まで、寄り道なく戻れば——理科棟へ入れる時間帯」


「そんな——」

 顧問の声が細る。

「だが、私は——」


「動機は弱い」

 アヤカは断ち切るように言い、紙をクリアホルダに戻した。

「あなたが東雲トワの研究を“外へ出す”必然が見えない。むしろ、校内で管理したい側だ。……にもかかわらず、あなたの紙は、一時間“良すぎる”。紙があなたを守るはずが、紙が足を引っ張っている」


 顧問は沈黙した。

 彼の沈黙には、悪意よりも「紙を信じてきた時間」の長さが乗っている。

 アヤカはその沈黙を押し流さず、短く頭を下げて部屋を出た。


「動機の薄い“空白の一時間”」

 廊下に出て、レイジが吐息に混ぜて言う。

「彼は動ける。けど、動く理由がない」


「動機は昨日の紙には載らないことがある」

 アヤカは淡々と答えた。

「だから、紙の外側へ行く。現場へ」


     ◇


 理科準備室は、昼と違って夜に本性を見せる。

 照明の色温度が少し低く、ステンレスに残る輪郭が深い。

 アヤカは机の裏に手を入れ、薄いマグネットシートを剥いだ。

 薄型のUSB送信機。

 既に封印したはずのそれが、微かに動いた痕を残している。

 起動ログ。

 時刻の刻印。

 そして——


「タイムゾーンが……」

 レイジが思わず声を上ずらせ、画面を覗き込む。

「ここだけ“UTC”表記。校内システムはJST固定なのに、こいつのログは協定世界時で吐かれている」


「校内で、UTCで考える癖がある人間」

 アヤカは口の中で反芻する。

「海外長期滞在経験者。国際コンテストの常連。輸入仕様の機材の“まま”を直さない人。……“会長”」


 会長——生徒会長は、幼少期の海外在住が長い。校内のスケジューラも、彼の端末だけ“UTCベースで表示してJSTに換算する”設定のまま、誰も直させられなかった。彼はたいてい、時計の話をすると「二十四時間制の方が空気が澄む」と言う。

 UTC慣れ。

 校内唯一と言っていい癖。


「でも、会長に“奪う”動機は?」

 レイジの声には、まだ抵抗がある。

「彼は混乱を整える。舞台を閉じた。内側へ責任を戻した。……“奪う”のは、彼の美学じゃない」


「“奪う”ではなく“保全”」

 アヤカはUSBのログをスクロールしながら言う。

「彼の美学は、校舎の秩序を守ること。東雲トワの研究が“外の大人”に搾取されるのを防ぐために、彼は“内側の大人”の手に戻そうとした。つまり、“奪還”。

 そのために、ミコトの舞台を“上書き”した。……可能性としては整う」


「会長は、外へ逃がすことに反対していた。確かにそうだ。でも、なら最初から止めればよかった。なんで“上書き”なんて手間を」


「紙の上の彼は、いつも正しい。だから、紙の外の“行為”に手を汚すのが遅れる。遅れて、間に合わず、“上書き”になった」

 アヤカは理科準備室の空気を一度吸い、吐いた。消毒と金属の匂いは、もう薄い。

「これで全員に一手が回った。ミコトは逃がそうとした。御子柴は材料を貸した。顧問は空白の一時間を持つ。会長はUTCで上書きした。——残るのは“どの合図でトワが動いたか”」


「合図の列は十六拍。四拍子。最後の一拍だけ長い」

 レイジがノートに走り書きする。

「空調二回停止、清掃の車輪、鏡の一閃。……そして、電子錠の保守端子の打鍵。

 この“最後の打鍵”が、誰の手か」


「UTCは装置の時刻を“丸める”。保守端子の打鍵は“手癖”で出る」

 アヤカは目を細める。

「なら、比べればいい。会長が“音を触るとき”の癖。フェーダーの前の呼吸とは別の、鍵を扱う手の“休符”。」


 彼女の視線が、机上の古い鍵束に落ちる。保守用の鍵、サムターンのキャッチ、ワイヤのリール。

 手の油の跡は、鍵そのものよりも、束ねたリングに残る。

 そこに、微かな甘い匂い——いや、匂いは消えている。匂いは、幽刻の中でしか拾えない。

 けれど、手の癖は紙に写る。打鍵の間隔の揺れ。四拍目の伸び。

 会長が打つと、末尾の一拍は“整う”。

 ミコトが打つと、末尾の手前に“息”が乗る。

 書記が打つと、二拍目の裏に“装飾”が付く。

 御子柴が打つと、三拍目が微かに早回る。

 顧問が打てば——打たない。彼は鍵を嫌う。紙の鍵しか信じない。


「音で選ぶ」

 アヤカは、決めた。

「会長の“鍵の音”を、紙にする」


     ◇


 生徒会室。

 会長は紙の前に立っていた。暗室の改修が無効化された書類、警備会社の再分類書、監査の割印。白い紙の上で黒い印影が整然と並ぶ。

 彼は、こちらを見て、眼鏡を外した。


「報告を」

 彼の声は、いつも通り澄んでいる。


「理科準備室のUSB送信機の起動ログは“UTC”。校内でUTCを常用するのは、あなた」

 アヤカは紙の束の上に、小さなメモを置いた。

「あなたは“上書き”した。ミコトの同期装置を」


 会長は即座に否定しない。

 彼は息を吸い、吐いた。

「私は——校舎を守る」


「守るために“奪還”した?」

 レイジが一歩踏み出す。

「東雲を、外から」


「彼を奪ったわけじゃない。彼は——」

 会長は言葉を飲み込み、代わりに机の引き出しから小さな鍵束を取り出した。銀色のリングに保守用のキャッチが二つ。

「これは、あなたたちが確認したい“音”に使うといい」


「差し出すの?」

 アヤカは意外そうに眉を上げた。

「自分の刃を」


「私の刃は、紙だ。鍵は紙の付属品にすぎない」

 会長は言い切る。

「だが、もし“音”が私のものだというのなら、受け止めよう。……ただし、先に一つだけ答えを置いておく。

 私は、東雲を“奪っていない”。

 東雲は——私の合図では動かない」


 それは彼の信仰にも似た言い方だった。

 アヤカは鍵束を受け取り、机にICレコーダーを置いた。

「打ってください。四拍。最後の一拍を、少し長く」


 会長は鍵を握り直し、保守端子の仮台に軽く当てた。金属と金属が触れる乾いた音が、四つ。

 一、二、三、四。

 四つ目は、他の三つよりほんの僅かに長いが、均質だ。呼吸の揺れが乗らない。フェーダーの前の“息”がない。

 レイジは波形を見、周波数の尾を数えた。

「……末尾の伸びは、ログの“十六拍目”に近い。限りなく」


「でも、“息”がない」

 アヤカは静かに続ける。

「ゼロ秒音声の“打鍵”の手前には、薄い吸気が乗っていた。フェーダーの前の癖。……それは、ミコトの手」


 会長の目が、わずかに開いた。

 ミコト——会計——は、ここにはいない。

 だが、彼女の“前の一拍の無音”は、音の縁に必ず座る。


「結論」

 レイジが短く息を吸い、吐いた。

「“最後の打鍵”は会長の音色に似ている。でも、その手前に“ミコトの息”がある。

 ——合奏だ。

 装置は、二人で動かした」


「違う」

 会長が低く言った。

「私は“起動”の列には触れていない。触れたのは……“巻き戻し”だ」


「掲示板の基準時刻を“七分、二度”」

 アヤカの声が、紙の上の線をなぞる。

「あなたが、整えた?」


「整えさせられた」

 会長はかぶりを振った。

「会計の“予算執行モジュール”が、納品と検収の整合性のために“内部時刻の一括揃え”を要求した。私は“事後承認”を出した。掲示板のタイムスタンプが連動しているとは知らなかった。

 ——紙を整えるために、時計が動いた。

 私は、紙に負けた」


「あなたが負けたのは紙じゃない。“無音”」

 アヤカは鍵束を机に置き、立った。

「あなたは最後の一拍を美しく伸ばす。ミコトは、その前に呼吸を置く。

 ——二つが揃ったとき、装置は動く。

 だから、どちらか片方だけでは“起動”しない」


「合図が共有されていた?」

 レイジが眉をひそめる。

「そんな馬鹿な」


「合図そのものは十六拍。誰でも叩ける。だが、“一拍の無音”は、彼女しか知らない。彼女の手前の呼吸に、東雲は反応する」

 アヤカはそこで言葉を切り、窓の外を見た。

 夜が、校庭の端から動き出す。

「……彼が“誰の声で動くか”を知っているのは、彼自身だけ。

 会長、あなたのUTCは、装置の“起動時刻”を丸めた。けれど“合図の音色”は、あなたのものではない」


「なら、誰だ」

 会長の声には、初めて焦りの色が混じった。

「ミコトか。彼女は“逃がす”側だった」


「“逃がす”つもりで、起動が“奪う”に上書きされた」

 アヤカは首を横に振った。

「上書きしたのは、UTCのあなた。だが、彼女の“無音”がなければ、トワは動かない。

 ——あなたたちは、互いの刃を知らないうちに“合奏”した」


 会長は椅子の背に手を置き、しばらく何も言わなかった。

 そして、静かに告げた。

「東雲を、戻そう」


「戻す“いつ”を作る」

 アヤカは頷いた。

「合図を、紙に書く。最後の一拍の長さ。手前の無音。空調の停止。清掃の車輪。鏡の一閃。保守端子の十六拍。——UTCの丸めを外す。

 “いつ”は、紙に召喚できる」


「だが、場所は」

 レイジが口を挟む。

「彼が“現れる場所”は、理科準備室か、暗室か、非常口か」


「“どこ”ではなく“いつ”」

 アヤカは、最初の夜からずっと繰り返してきた言葉を、もう一度だけ落とした。

「どの場所も“時間の条件”が満たされれば“同じ場所”になる。……だから、同期装置を設置し直す。囮でも、本丸でもない第三の“舞台”。」


「どこに」

「生徒会室」

 アヤカは迷いなく言った。

「最初の“ゼロ”が刻まれた場所。時計は止まり、録音は無音を抱き、紙は揃っている。

 ——最後の“合奏”は、そこでやる」


 会長は目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。

「私のUTCは、外す。学校の“時刻”を、ここに戻す」

 彼は端末を取り出し、設定画面を開いた。

 24-hour、UTC、オフ。

 JST、オン。

 画面の数字が、一時間だけ跳ねる。

「紙の上で、時間がここへ戻る」


「無音は、私が作る」

 扉の隙間から、早乙女ミコトの声がした。いつの間にか、彼女は廊下にいて、会話の切れ端を拾っていたらしい。

 扉を押し開け、彼女は一歩踏み入れる。

「フェーダーの前で、一拍、呼吸する。それが私の刃」


「最後の一拍は、私が伸ばす」

 会長が応じる。

「私の刃は“整える”。整え直す」


「鍵の十六拍は、俺が打つ」

 御子柴が、背後から鍵束を掲げて入ってきた。

「中立は降りた。刃は貸した。でも、打つ順番は俺が決める」


「空調は私」

 水無瀬ユナが、控えめに手を挙げる。

「照明の一閃も」


 アヤカは、彼らを順に見た。

 舞台が、ここに組み上がる。

 囮ではなく、罠でもなく、“返送”のための舞台。

 同期装置の罠を、逆に使う。


「紙に書く」

 レイジが観測者ノートを開いた。

 ——最終合奏計画。

 ——生徒会室。

 ——条件:空調停止×2(ユナ)、清掃車輪(模擬)、鏡一閃ユナ、保守端子十六拍(御子柴)、無音一拍ミコト、最後の伸び(会長)、全ログJST。

 ——“いつ”:明日、日没後、校内の余白が最大になる時間。

 ——“どこ”:生徒会室=“ゼロ”の場所。


「最後に、ひとつだけ忘れてる」

 ミコトが言う。

「“彼が戻る理由”。合図だけじゃ、意志は動かない」


「理由は、紙には書けない。……でも、紙は“余白”を作れる」

 アヤカは生徒会室の机から、電波時計を取り上げた。止まったままの「00:00:00」。

 時計のガラスに、映る顔は四つ。

「この時計を“動かす”。

 止まったゼロを、ゼロの外側へ押し返す。

 それが、彼の理由になる。……彼は、ゼロに触れた。だから、ゼロから戻れる」


「動かせるのか」

 会長が問う。

「電波受信の同期が乱され続けている。校内の“時刻の噛み合わせ”が悪い」


「だから、同期装置の罠を、逆に使う」

 アヤカは時計を机に戻し、窓の鍵を確かめた。

「再送信器は“存在しない瞬間”を作れる。なら、逆の位相で“存在する瞬間”を濃くすれば、ゼロは薄くなる。

 無音の手前の呼吸と、最後の一拍の伸び。

 十六拍の打鍵。

 空調の“止む”と“鳴る”。

 鏡の光。

 ——全部、JSTで」


 レイジはペンを置き、両手を開いた。

「……やろう」


     ◇


 準備は、紙の上から始まった。

 会長は校内の時刻同期を一度停止し、各棟ごとのNTPをリセットする。ユナは照明卓を持ち込み、生徒会室のスポットを最小限に設定。御子柴は保守端子の仮台を机の裏に取り付け、振動を拾わないよう吸音材を足す。ミコトはミキサーを広げ、マイクを一本だけ立てる——呼吸のためのマイク。

 アヤカは時計を磨き、拭き跡を消す。見せ場ではなく、道標として。


 窓の外で、光が薄くなった。

 日没は、校内でいちばん音がよく響く時間帯だ。チャイムの余韻が廊下の角をいくつも曲がり、紙の上の行が一行ずつ増える。


「始める」

 アヤカは誰にも聞こえないくらいの声で言い、席に座った。

 心臓の青い光は、今夜だけは静かだ。幽刻へは入らない。紙で行く。


 ユナが空調を一度、落とす。

 部屋の空気が、薄いベールのように沈む。

 七拍で、戻す。

 もう一度、落とす。

 清掃車輪の模擬音が、廊下の奥から近づき、遠ざかる。

 鏡の面が、一度だけひかる。

 ミコトは、フェーダーの前で一拍、無音を置く。吸気が、静かにマイクの膜を撫でる。

 御子柴が、鍵の十六拍を打つ。

 会長が、最後の一拍を伸ばす。

 すべて、JST。

 すべて、校舎の“ここ”に帰ってきた時間で。


 止まっていた電波時計の秒針が、震えた。

 ゼロの面に、薄いヒビが走る。

 レイジが息を止める。

 アヤカは視線を時計から外さず、窓の外の影を気配で読む。

 ユナが照明を、一段、落とす。

 部屋の輪郭が少しだけ柔らかくなる。

 無音の手前で、また一つ、呼吸。

 最後の一拍が、伸びる。


 秒針が、動いた。

 ゼロは、剥がれるように退いた。

 00:00:00は、00:00:01になる。

 その一秒の上に、音が乗った。

 足音。

 扉の外。

 生徒会室の前廊下。

 半秒の穴はない。カメラは生きている。

 足音は、ゆっくり近づく。

 ノブが、静かに回る。

 鍵は——かかっていない。

 扉が、開く。


 東雲トワが、立っていた。

 髪は少しだけ短くなり、目の下に浅い影。だが、歩いている。自分の足で。

 誰も声を出さない。声は、合図を壊すから。

 トワは一歩、部屋へ入る。

 そして、止まった。

 秒針の動きを見た。

 微笑んだ。

 言った。


「時間、戻ったね」


 無音が、やっと音楽になった。

 誰かの嗚咽にも似た息が、部屋の四隅で弾ける。

 レイジは膝がほどけるのを必死で堪え、ノートの端に書いた。

 ——“いつ”、帰還。

 アヤカは、椅子から立たず、ただ頷いた。

 彼女は、まだ刃を抜かない。合奏は終奏していない。

 東雲トワは、歩いて机まで来て、止まった時計の隣に指を置いた。


「これ、俺が止めた。……でも、止めた時計を動かせるのは、外からじゃない。中からだけ」

 彼はゆっくりと言葉を選び、こちらを見た。

「外は、ゼロが増えるばかりだった。誰かのUTC、誰かの紙、誰かの息。……でも、ここは“校舎の時間”。僕の“いつ”は、ここしかない」


 会長は、深く頭を下げた。

「奪っていない、は間違いだった。……私は、奪還しようとして、結果的に“遠ざけた”。」


 ミコトは目を閉じ、一拍の無音を置くようにしてから言った。

「逃がしたかった。あなたを、外の“誰か”から。……でも、合図は、私のじゃなかった」


「合図は、みんなのだったよ」

 トワが笑った。

「君の無音、会長の最後の伸び、御子柴の十六拍、ユナの空調。……そして、篝先輩の“紙”。

 紙は、呼吸を数える。呼吸は、時間を刻む。……それで、僕は戻って来られた」


 アヤカは、ようやく立ち上がった。

 彼女の脈拍計の青い光は、静かだ。

「質問は、ここから。

 誰が“外”であなたを待っていた?」


 トワは、すぐには答えない。

 彼は止まっていた電波時計のガラスに指先を当て、曇りをひとつ拭った。

 その仕草は、別れの合図ではない。始まりの合図でもない。

 ただ、戻ってきた時間に最初に触れるための、最小の運動。


「“同期装置の罠”は、校舎の中にも外にもあった」

 彼は静かに言った。

「僕は、自分で罠に入った。……でも、罠から出る道は、ここにしかなかった」


 アヤカは頷く。

 まだ、犯人は“指”でしか見えていない。

 UTCの指、無音の指、十六拍の指、紙の指。

 それらが重なった場所に、必ず“誰か”がいる。


「明日、続きを」

 彼女は宣言した。

「今夜は、時間を戻した。明日は、指を結ぶ」


 窓の外で、風が一度止まり、すぐに吹いた。

 秒針は、止まらない。

 ゼロは、もう墓標ではない。

 標識として、ここに残る。

 “いつ”の場所に、戻るための地図として。

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