第11話 矛盾する目撃者
昼下がりの生徒会室は、紙の匂いが濃かった。
机の上に並べたのは、証言記録、監視カメラのサマリ、音声の逐語起こし、そしてレイジが徹夜で吐き出した時系列表。列は三つの色で塗り分けられ、ところどころに赤鉛筆でバツ印がついている。
「ここ」
篝アヤカが人差し指で、時系列表の午後四時台を軽く叩いた。
「“会長とトワが口論していた”という目撃が重なる。けれど、同じ時間帯に会長の面談録音が存在する。録音には編集痕があるけど、まるごと偽造するには素材が足りない。どちらかが“時間”を誤っているか、誰かが“時間”をずらした」
新聞部の朝霧レイジは頷き、手元のタブレットを横向きにした。校内掲示板のアーカイブを開き、事件当日の投稿一覧をスクロールする。
放課後の情報交換所——生徒会公式の連絡も混ざる掲示板には、何気ないメッセージが並んでいる。「落とし物」「清掃場所の変更」「部室予約の交換」。
そのタイムスタンプが、二箇所で不自然に揺れていた。
「掲示板のサーバ時刻、二度“巻き戻し”されてる」
レイジは該当箇所を拡大した。
「午後三時五十一分から、三時四十四分へ。もう一度は、四時十九分から四時十二分へ。どっちも七分。巻き戻し直後、数件の書き込みが“過去に投稿された”ことになってる」
「基準時刻の改竄」
アヤカの眼差しが冷えていく。
「誰かが、証言の“見取り図”そのものを描き直した。それに合わせて目撃の“時間”が変形していく。——合図の列を占有するための、紙の上の操作」
「サーバの時刻を書き換えられる権限は限られてる。書記、生徒会長、システム顧問の先生。書記は遠征。会長はその時間、職員と面談中。顧問は体育館で全体練習の監督」
レイジは肩を落とすふりをしながら、唇だけで笑った。
「ただ、例外がある。会計」
「“会計”」
アヤカは復唱する。
「物品管理の画面から入る“予算執行モジュール”は、納品と検収のタイムスタンプを一括で揃える機能がある。そこへ触れるとき、バックエンドの内部時刻へのアクセスが発生する」
「会計の早乙女ミコトなら、申請と検収の整合性を取る名目で“中の時計”に触れられる。掲示板と会計は同じアプリケーション基盤上にあって、時刻を共用してる。——紙を整えるために、時計をひととき借りた」
「借りた結果、目撃が歪んだ」
アヤカは短く言った。
「“会長とトワの口論”という目撃は、たぶん本当。でも、それを“事件時刻”にしてしまったのは、時計の方。——目撃者の時間が、基準の方へ引っ張られた」
窓の外で、風がガラスを撫でた。
アヤカは資料の束から数枚を抜き出した。生徒たちが“証拠に撮った”という時計の写真。事件直後、廊下の掲示板に並べられた“事件のまとめ”のために新聞部が集めたものだ。
「EXIF」
彼女は低く言い、レイジの前に写真を並べ替えた。
壁掛け時計のクローズアップ。黒い針。秒針は十の少し手前。
写真の情報欄——撮影時刻は「16:08」。
だが、時計の針は「16:15」に近い。
さらに、窓の影が写り込んでいる写真では、影の角度が「16:08」の太陽ではない。
日の高さと影の長さ——天文表と照らすと、撮影時刻は「16:15〜16:17」に一致。
「EXIFの時刻を基準にしたまとめは、七分早い“基準時刻”に吸い寄せられている」
レイジが言う。
「つまり、“目撃者は嘘をついている”んじゃなくて、“時計の方が嘘をついた”。正確な嘘だ」
「正確な嘘ほど、よく切れる」
アヤカは表情を崩さない。
「誰かが、七分を二度“贈与”した。目撃とログと録音は、贈与された七分で重なり、矛盾が“整う”。
——あなたがやったのね、早乙女ミコト」
◇
会計室は、昼でも薄暗い。背の高い棚に紙の背表紙が並び、蛍光灯の光を鈍い白にする。
早乙女ミコトは、来客椅子の背にもたれてこちらを見上げていた。唇は色が濃く、指先は落ち着いている。ペン先が絶えず何かを叩く癖は、今日も消えない。
「時計をいじれるのは書記だけ、って言ってなかった?」
彼女は軽く首をかしげた。
「掲示板の時計は“システム”の責任。私は“紙”の責任よ」
「紙は時計に勝つ」
アヤカは静かに言った。
「あなたは紙のために時計を“借りた”。検収の時刻と掲示板の時刻を整合させるため。……結果として、複数の“事件目撃”がその時計へ吸着した。それは“あなたの刃”に含まれる」
「仮説ね」
ミコトは短く笑う。
「証拠は?」
「ある」
レイジがファイルを机に広げる。
「バックエンドのアクセスログ。予算執行モジュールの“時刻一括揃え”が走った記録は二回。どちらも、七分の巻き戻し。発行トークンは“会計”。ユーザーエージェントは会計室の端末。さらに——その直後に掲示板のタイムスタンプが一直線で七分早まる」
「貸与権限を使ったのは事実。でも、それが事件と“どう関係する”の」
ミコトは眉をひそめた。
「検収の時刻を揃えただけ。掲示板が連動しているなんて、知らなかった」
「もし“知らなかった”のなら、それはそれで罪だ。けれど——」
アヤカは一歩、前に出た。
彼女の眼差しは、相手の呼吸の深さを測る精度を持っている。
「あなたは、研究を盗みたかったのじゃない。あなたは“トワを実験ごと外へ逃がす”側だった。だから、時刻を揃えた。目撃の“基準”を曖昧にして、彼が抜ける隙を作った」
ミコトの唇が、わずかに開き、すぐ閉じた。
表情は崩れない。だが、指先のペンが一瞬だけ止まる。
「根拠」
彼女の声は、少し低い。
「それも仮説でしょ」
「仮説は刃よ」
アヤカは言う。
「そして刃は“柄”で決まる。あなたの柄は、放送部でミキサーのフェーダーを握る手。いつも“無音を一拍”入れてから上げる癖がある。会長の面談音声にも、その“一拍の息”があった。編集痕の手前に」
レイジが音声ファイルを再生する。
会長の抑えた声、書類の擦れる音。
そして、ほんのわずか。
呼吸。
無音の縁に置かれた短い吸気。
フェーダーの前の“癖”。
「それだけで、私だと言えるの?」
「言わない。……でも、合わせ技は言う」
アヤカは机の上へ、金属ケースの蓋の写真、排水枡の座標、暗室のコーキング片、コバルト粉末、フロロの毛羽を並べた。
「暗室の窓の採寸は、あなたの申請ルートから発注されていた。御子柴は“相談を受けた”と言った。鏡は放送部の倉庫から、フェルトの吸音材も、あなたのリストに載る。……あなたは“舞台を作った側”。盗むためでなく、逃がすために」
「逃がす?」
ミコトは一度笑い、すぐに笑いを引っ込めた。
「どうして、そんなことを私が」
「研究が、校内で“管理”されるから」
アヤカは平坦に続けた。
「会長は混乱を整えたい。書記は0.2秒を美しくしたい。放送部長は絵を作りたい。物理部は中立の刃を磨きたい。——誰もが“校舎の中の理屈”で動く。あなたは“外”へ出す理屈を選んだ。あなたの刃はいつも、外へ向いている」
ミコトは目を伏せ、ペン先で机を二度叩いた。
乾いた音が、短く揺れる。
その揺れは、迷いの長さと等しかった。
「……仮に、私が時計を“借りた”として」
ミコトはゆっくり言う。
「それで“口論の目撃”が事件時刻に重なったのなら、私は私自身を不利にしただけ。会長を庇う理由なんて、どこにもない」
「庇っていない」
アヤカは首を振る。
「あなたは“会長の紙”を使った。校舎が責任を外へ逃がすための幕に、あなたは“出口”の影を描いた。……その“出口”を、東雲トワは使った。あなたは、彼の研究まるごと外へ逃がしたかった」
「私が研究を盗んだんじゃないの?」
「盗んだのは“管理権”。研究そのものは、彼と“外”の誰かのものになった」
アヤカは呼吸を一つ整え、続けた。
「早乙女ミコト。あなたは、東雲トワの共同研究者に“校舎の誰でもない誰か”を選んだ。だから、麻酔の刃が必要だった。彼を生かしたまま運ぶために。時間の断片と目印の列を持って」
ミコトの体温が、わずかに下がったように見えた。
それは罪悪感の冷えか、決意の硬さか。
彼女は、視線をレイジに移す。
「EXIFの話、さっきしていたわね」
声は水平だ。
「写真の時刻と影の角度が矛盾していた、って。
でも、あれね。影の角度は建物の反射で簡単にズレるのよ。EXIFの時計は、撮影者のスマホ次第。どっちが正しいか、最後は“紙”が決める」
「その“紙”を作ったのは、あなたであり、会長」
レイジは返す。
「ぼくは、紙を信用したい。でも、紙は誰かの手で折れる。——だから、裏側も読む」
「裏側」
ミコトが呟く。
彼女はゆっくりとペンを置き、引き出しから封筒を取り出した。無地。中身の厚さが均一ではない。布の触感が混じる。
「これ、受け取って。……と言うべきか少し迷ったけど」
封筒が机に置かれ、滑る。
アヤカが受け取り、静かに開封した。
出てきたのは、USBメモリ。細長い金属製。
もう一つ、小さな布包み。解くと、中から銀色の髪の毛が一本、慎重に挟まれて現れた。
「東雲トワの?」
レイジが息を呑む。
「本人の。理科準備室で抜け落ちた。——拾ったのは、私」
ミコトは短く言う。
「DNAの証明なんてしなくていい。これは“彼がこの校舎の空気を呼吸していた”という、紙より古い証拠」
「あなたは、味方なのか、敵なのか」
レイジの声は正直だった。
「そのどちらでもないなら、何」
「私は、送り出す人」
ミコトは、ようやく笑った。
しかし、その笑みには、疲れが乗っていた。
「私は、フェーダーを上げる前に、一拍無音を置く。呼吸を整えさせるため。東雲くんにも、それをした。……彼は、自分の意志で“外”を選んだ。私は、時計を少しだけ借りた」
「外、というのは」
アヤカが問う。
「“誰”」
ミコトは答えない。
沈黙が、会計室の紙の山に吸い込まれていく。
彼女は代わりに、短く別の言葉を置いた。
「会長の録音は、あなたたちが考えているより“浅い”。編集の跡はつけた。でも、“削った”のは、私じゃない。——そこだけは、伝えておく」
「削ったのは、誰」
レイジが追う。
「書記? それとも、外の“鍵屋”?」
「あなたたち、すぐに辿り着くわ」
ミコトは椅子から立ち、窓のブラインドを半分だけ開けた。
細い光が、机に落ちる。
「時間は、私の味方じゃない。——今日のところは、ここまで」
追撃の言葉をアヤカが選ぶ前に、扉が軽く叩かれた。
水無瀬ユナが顔を出す。
ベルガモットの香りが薄く漂う。
「会長が、呼んでる」
彼女は低く言った。
「“紙”が動いた。暗室の改修許可が“無効化”。警備会社が非常口のログの“微弱降下”を“不正操作”に変更。——戻ってきたわよ、“外”が」
会計室の空気が、わずかに変わった。
アヤカはUSBと髪の毛を封筒に戻し、ミコトに目を向ける。
「あなたの無音が、一拍、必要になる」
「分かってる」
ミコトは薄く頷いた。
「送り出すだけが私の役じゃない。——戻す時だって、フェーダーは動く」
◇
生徒会室へ戻ると、会長が書類の束を脇へ寄せ、立ち上がった。顔色は青白いが、眼だけがはっきりしている。
「内側へ戻した」
彼は短く告げた。
「暗室の“窓”は違法改造。工事台帳の改竄は、監査に回した。非常口の“微弱降下”は、不具合扱いから不正操作扱いへ。——これで、校舎の外へ流れていた“責任”が、内側に引き戻された」
「舞台は、閉じた」
アヤカは頷く。
「なら、観客は下がる。演者だけが、残る」
会長は机の引き出しから封筒を取り出し、アヤカへ差し出した。
中には監視カメラの原始ログが入っている。先ほどまで閲覧できなかった“鍵付き”の領域だ。
「書記のアクセス記録が、出た。遠征先のホテルからのVPN接続。だが、実際の操作は校内端末。——代理ログイン。貸与トークン。……犯人は“役割の交差点”を渡り歩いた。その結び目の一つは、たしかに会計だ」
レイジは頷き、視線をアヤカへ投げた。
彼女は受け止め、短く言った。
「最後の一拍、切る」
そうして、USBメモリを机に置いた。
早乙女ミコトから渡されたもの。
銀色の髪の毛の封も、そっと並べる。
「彼は生きている。これは、紙の前の証拠」
アヤカの声は低く、しかしはっきりしている。
「“矛盾する目撃者”は、もう矛盾ではない。時計が二度、贈与した七分を、私たちは奪い返した。——次は、“いつ”を指定する。彼が戻る“拍”を」
窓の外で、チャイムが鳴った。
音階が、ほんのわずかに揺れる。
だが、揺れはすぐに収束した。
校舎の時刻が、内側へ戻った印だ。
水無瀬ユナが、窓辺に立って言う。
「観客席は、閉じる。照明、落とす。……最後のピンスポットだけ、残す」
「残す“先”は、どこ」
レイジが尋ねると、ユナは目を細め、ほんの少し口角を上げた。
「あなたたちが、決める」
アヤカは深く息を吸い、吐いた。
幽刻へ入るのは、今じゃない。
今は“紙”。
最後の一拍の長さを、紙で測り、その拍に合わせて、舞台をもう一度だけ開く。
東雲トワが“いつ”にいるのか。
指定するために。
会計の早乙女ミコトは、扉のそばで静かに立っていた。
彼女の表情は、揺れたままだ。
だが、揺れは崩れではない。揺れは、どちらへも倒れうる支点の兆しだ。
「あなたは、盗まなかった」
アヤカが最後に言った。
「盗んだのは“時間”。贈与された七分を、二度。——返して」
ミコトは、わずかに笑い、それから、真顔に戻った。
「返す。私のフェーダーで。……最後の一拍を、あなたたちに渡す」
紙の上に、新しい行が一本、増えた。
“基準時刻、復権”。
“目撃の“いつ”、再割当”。
“最後の拍、指定”。
矛盾は、刃物だった。
だが、刃は、向きで結果が変わる。
向きを決めたのは、紙と、呼吸と、ほんの短い無音。
最後のピンスポットが落ちる場所へ、彼らは同時に視線を上げた。
そこに、ゼロの外側から戻る“影”が差すことを、まだ誰も知らないまま。




