第1話 止まった時計
始業式の朝、空は妙に白かった。
冬でもないのに、校舎の窓という窓が曇って見える。新学期のざわめきが昇降口を満たす中で、新聞部の朝霧レイジは一人、足を止めていた。
校舎の奥——生徒会室の前に、黄色い立入禁止テープ。
その向こうに、警察と教師と、生徒会の数人。まるで犯罪現場だった。
「おい、レイジ。撮影、控えろよ」
同級の写真人・タカオが苦笑いする。
「校内事件、載せる気か? まだ始業式だぞ」
レイジは応じず、ガラス越しに部屋を見つめた。
机の上に置かれた電波時計。その液晶は、まるで息絶えたように「00:00:00」で止まっている。
その隣に、冷めきった紅茶。
椅子は倒れ、床には微細な黒い粉。
何より奇妙なのは——窓。
内側の補助ロックが、確かに下りている。
「密室、だな……」
呟いた瞬間、背後で誰かが笑った。
声の主は、生徒会書記の少女・水無瀬ユナ。
白い指で髪をまとめ、冷たい目をしている。
「“密室”なんて言葉、軽々しく使わないで。まだ失踪届の段階よ」
「東雲トワがいなくなった。それでこの状況。軽くは言えないさ」
「あなた、新聞部でしょ? ならもう少し冷静に。こういうとき一番怖いのは噂よ」
ユナは踵を返し、教師の方へ向かった。
レイジはノートを取り出し、現場のメモを取る。
——机の下、ホコリの帯が不自然に途切れている。
——床の粉末、黒く、指先でこすると微かに樹脂臭。
——時計、電波式、校舎内では受信しにくいはず。
——鍵、関係者三名のみ。
——録音機、再生時間0秒の空白。
そこまで書きつけたところで、廊下の向こうから何かが倒れる音がした。
振り向いた瞬間、少女が崩れ落ちていた。
髪は灰色がかった黒、制服の袖口がほつれ、冷たい指先。
倒れた衝撃で髪飾りが転がり、光を反射して床を転々とする。
その少女——篝アヤカを、レイジは知らなかった。
保健室で目を覚ましたのは、十分後のことだった。
窓越しに朝の光。消毒液の匂い。
ベッドの脇でノートを閉じるレイジに、アヤカがかすれ声で言った。
「……あなた、さっきの部屋にいた人?」
「ああ。新聞部の朝霧レイジ。君こそ、あそこに倒れてたけど」
「見たのね。時計を」
「止まってたな。00時00分00秒。……知ってるのか、あれを?」
アヤカは起き上がり、髪をかき上げた。
肌の色が透けるほど白く、瞳の奥に薄い金色が混じっている。
「この学校、時々“止まる”の。誰も気づかない一秒間。
私だけが——そこに落ちる」
「落ちる?」
「そう。死の一秒。……“幽刻”と呼んでる。医学的には心停止、でも私は生きて戻る。たぶん、誰かが意図的に起こしてる」
レイジは笑えなかった。
冗談にしては、彼女の声があまりに真っ直ぐだった。
沈黙のあと、アヤカは続けた。
「東雲トワは、その“幽刻”に巻き込まれたのよ。
あの時計も、録音機も、全部“止まった一秒”の痕跡。
犯人は“存在しない時間”を使って、彼を消した」
レイジはノートを閉じ、椅子を引いた。
「つまり、時間を殺人に使ったってことか」
「ええ。でも証拠は残る。だって、“幽刻”に触れた物は、どこかしら歪む。
たとえば、音声が0秒で切れたり——ホコリが拭われていたり」
「床の粉も関係ある?」
「それ、多分“静電粉”。電波時計を止めるには、周囲の電場を一瞬だけ崩す装置がいるの。
普通の生徒にそんなもの扱える人、いない。……でも一人だけ、いる」
アヤカは窓の外を見た。
校庭の向こう、放送棟の屋上に、誰かが立っていた。
風にコートをなびかせている。
「電気研究会の会長、鳴瀬キョウ。彼、東雲と対立してたわ」
レイジは立ち上がる。
「行こう。……幽刻とやらの真相、確かめる」
——廊下の時計が、ぴたりと止まった。
秒針が動かない。
生徒の声も消える。
静寂の中で、アヤカだけが動いていた。
「始まった。“幽刻”よ」
世界が灰色に沈む。
黒板も、蛍光灯も、風の粒子さえも凍るように止まり、時間だけが消えた。
アヤカは校舎を走る。床の下から微かな振動。
階段を降り、東棟へ。生徒会室の前に立つと、ドアがゆっくりと開いた。
中は無人。
だが、机の上の電波時計が再び「00:00:00」を指したまま、赤い光を瞬かせた。
「止まっている……でも動いている?」
アヤカはそっと指先を近づけた。
指先を掠めた瞬間、視界が反転する。
——誰かの声が聞こえた。
『零秒、開始』
ノイズ。心臓が握り潰されるような痛み。
次の瞬間、彼女は現実に引き戻された。
「アヤカ!」
レイジの声。世界が再び動き始める。
教室のチャイム、足音、窓の光。
だが、アヤカの手のひらには、赤い線が一本走っていた。
「触れた。時間の断層に」
レイジは息を呑む。
「それ、証拠になるか?」
「わからない。でも、“幽刻”は実在する」
アヤカは笑った。微かに血を滲ませながら。
その日の放課後、二人は放送棟の屋上へ向かった。
鳴瀬キョウはフェンス越しに、工具箱を弄っていた。
電波受信機、周波数干渉装置、そして電波時計。
「鳴瀬。今日の“幽刻”、お前が起こしたのか?」
レイジが問い詰めると、鳴瀬は肩を竦めた。
「何を言ってる。俺は物理現象を観測してるだけだ。
だが面白い話だな。“幽刻”か。名前がつくと途端にオカルトっぽい」
「東雲トワは消えた。部屋は密室で、時計は止まってた」
「だから俺を犯人に? 馬鹿らしい」
鳴瀬は笑い、装置のスイッチを入れた。
風が鳴り、アンテナが青白く光る。
「時間は電磁波だ。揺らせば止まる。——お前らも体験してみるか?」
瞬間、世界が揺れた。
視界が歪み、屋上の空気がねじれる。
レイジの耳が痛み、アヤカが崩れ落ちる。
鳴瀬は狂気じみた笑みを浮かべていた。
「な、これが“零秒”だ。人間の脳は時間の欠損を処理できない。
一秒失えば、脳は“そこにいた”記憶を再構築する。だから密室なんて簡単に作れるんだよ」
「じゃあ、東雲は……!」
「——自分で落ちた。俺の装置のテストを覗こうとして、
幽刻の中で、階段から転げ落ちた。
誰も見てない。時間が止まってたからな」
鳴瀬は笑うが、その目に怯えの影があった。
「止まってたのは一秒。……だけのはずだった」
「どういうことだ?」
「それ以来、時計が戻らない。俺も、ずっと夢を見てる気がする。
あの日から、誰も、俺に触れないんだ」
アヤカは立ち上がり、鳴瀬の肩に触れた。
その瞬間——彼の身体が、風に崩れた。
粉末のように空へ散り、消えた。
残されたのは、止まった電波時計だけ。
「……これが、“幽刻”に囚われた人間の末路」
夕焼けの屋上に、二人だけが残った。
レイジは呆然と立ち尽くす。
「じゃあ、東雲は?」
「まだ“そこ”にいる。幽刻の一秒の中に。……助けられるかはわからない」
アヤカは止まった時計を拾い、胸のポケットに入れた。
「この時計が動き出すとき、東雲は戻るか、完全に死ぬか——どちらか」
「そんな選択……」
「でも、それが私の仕事。“幽刻探偵”のね」
夕日が沈む。
校舎の時計が、再び動き出す。
秒針が一つ、音を立てて進んだ。
——チッ。
レイジは思う。
彼女が言う“幽刻”が本当に存在するなら、この世界のどこかで誰かが毎秒、死の境を覗いているのかもしれない。
その夜。新聞部室で、レイジは録音機を再生した。
例の“0秒音声”。
再生ボタンを押すと、わずかにノイズ。
そして、確かに声があった。
『零秒、再開』
録音時間は——0秒。
だが、確かに聞こえた。
レイジは息を止め、窓の外を見た。
校舎の時計が、再び止まっていた。
針は——「00:00:00」。
その隣に、いつの間にか立っていた。
篝アヤカ。
彼女は微笑み、口を開いた。
「止まった時間の中で、真実だけが動くの。
——ようこそ、“幽刻”へ」




