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帝都カルザヴァーンは、灰と紅の街である。
赤褐色の石畳、鉄で縁取られた街灯、そして城門に向かう石階段の途中からは、帝国軍の軍旗が風にはためくのが見えた。
その階段を、一人の男が昇っていく。
レオン――かつて《セイラ姫の剣》と呼ばれた男。今や、その姿は異国の護衛服に包まれ、帝国皇女の従者として随行していた。
「視線が痛いな……」
呟いた声は風に消えた。
それでも、感じる。視線。侮蔑、猜疑、あるいは――恐怖。
帝都に仕える兵士たちは皆、眉間に皺を寄せながら彼を睨んでいた。
「我が帝国に、敵国の剣士が堂々と入城するなど……っ!」
「あの娘が、また厄介な“おもちゃ”を拾ってきたな……」
彼らの口調は押し殺されていたが、感情は抑えきれていなかった。
だが、そんな憎悪すら、レオンは受け入れていた。
――それが、セイラ様を生かすための代償なら。
「レオン! 早く早くっ!」
振り返ると、レグリーナが無邪気な笑顔で手を振っている。
皇女であるはずなのに、髪はいつも通り巻き上げられ、衣は派手な紫と黒の戦装束。何より、兵士たちを従えるその足取りには、帝国随一の権力を持つ娘らしからぬ軽さがあった。
だが、その幼さの奥にある――“帝国の怪物”としての本性を、レオンはもう知っている。
「今日から、あんたは私の“犬”。ね、首輪はまだ外さないでよ?」
笑いながら、彼女は冗談めかして言う。
レオンの右手首には、まだ鉄鎖の名残が残されていた。わざとそうさせたのは、帝都への“見せしめ”のためだ。
「……お戯れが過ぎます、姫殿下」
「え? じゃあ何? “姫”と呼ぶの、やめちゃう?」
レオンは答えなかった。だが、その沈黙は明確だった。
彼にとって「姫」と呼ぶべき存在は、ただひとり。
幽閉された、セイラだけ。
***
宮城の奥、かつて“賓客の間”と呼ばれていた部屋。
そこに、今は“客人”ではなく“捕虜”がいる。
セイラ=アルミリア王女。
かつての小国の王女。今は、亡国の姫。
純白のドレスのまま、床に座り込み、小さな窓から外を見ていた。
空は高く、晴れていた。
「……また、レオンの顔が見えた気がした」
そう呟いた彼女の声は、かすれていた。
敗戦後、手厚い扱いとは名ばかりの“軟禁”が続く中、彼女の心も身体も少しずつ摩耗していく。
けれど――
「信じてる。……きっと、来てくれるって」
その瞳だけは、まだ曇っていなかった。
***
一方、帝国の大広間では、重臣たちが集められていた。
「レグリーナ殿下。なぜ、よりによって“奴”を連れてきたのですか。反逆者を護衛にするとは――」
「反逆者? 違うよ。彼はただの“犬”」
玉座の傍ら、レグリーナは椅子にふんぞり返っていた。
小さな足を組み、手には菓子菓子を弄びながら、まるで退屈そうに重臣たちの言葉を聞き流している。
「……帝国の威信に関わりますぞ」
「うるさいなあ。じゃあ、あんたたちのうちで、彼より強い人、いる?」
沈黙が返ってきた。
「でしょ? だったら、私の護衛は彼が一番適任。文句あるなら、腕ずくでどうぞ?」
子供のような笑顔。だがその裏にあるのは、徹底的な“強者主義”だ。
レグリーナが「好きになる条件」は、顔でも家柄でもない。
ただ――強さ。
「それにね。彼、私が守ってあげるって言ってるのに、なかなか懐かなくてさ」
クスクスと笑うその様子に、重臣たちは言葉を失っていた。
――この女が、帝国の未来だと?
だが、それでも誰も逆らえない。
彼女は“皇帝の寵姫”であり、今や“帝国の剣”をその手に握っている。
***
その夜、レオンは独房に戻されていた。
決して牢ではない。だが、扉には鍵がかけられ、窓には鉄格子。
部屋の中には、冷たい水と粗末な寝具のみ。
それでも、目を閉じれば――
『私、大きくなったら、あなたの“護りたい”になりたいの』
あの日のセイラの声が、まだ聞こえる。
「……必ず、あなたを護り抜く。そのためなら、俺は、どんな汚名も受けよう」
レオンはその胸に、重く、静かに、誓いを刻んだ。
――忠義とは、誇りではない。
――忠義とは、命を捨てる覚悟そのものだ。
そしてその命は、すでに――レグリーナという“檻”に捧げられていた。