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焔が夜空を照らしていた。
小国リュミエールの王都。かつて聖なる山の麓に築かれ、祝福と繁栄を誇った城郭都市は、今や地獄と化していた。
黒煙を割くように響くのは、帝国軍の戦象の雄叫び。無数の戦槍が地面を穿ち、重装騎兵が地を駆ける。剣戟の音はいつしか、命乞いと断末魔の悲鳴に変わっていた。
「……姫様、お急ぎを」
男の声は、かすれ、血に濡れていた。
レオン・ヴィルヘルム。リュミエール最強の剣士にして、姫セイラの直属護衛官である。
長身の身体を幾筋もの刃傷が走っていた。左肩から腹部にかけて深い斬撃が穿たれ、鎧は崩れかけ、剣の柄すら赤黒く染まっていた。
「でも……! 城下が……人が……!」
セイラ姫は、足元をふらつかせながらも、城の塔から外を見下ろしていた。
泣き腫らした瞳に映るのは、瓦礫と炎、逃げ惑う民、そして帝国の紋章を掲げる黒騎士たち。
十五にして王族としての誇りと責務を抱く少女の肩には、あまりに重すぎる現実だった。
「この国は、もう……負けました」
レオンの声は平坦だった。
事実だけを述べるその口調が、かえって彼の絶望を物語っていた。
幼き日に交わした誓いがある。
「必ず、お守りします」
その言葉は、彼の剣に、魂に、刻まれていた。
――だからこそ、彼は立っている。
「来てください、姫様。もう時間がありません」
レオンは力強くその手を取った。
セイラは戸惑い、涙をこらえながらも、頷いた。
二人は崩れかけた塔の階段を駆け下り、裏門へと向かう。
だがその道は、あまりにも静かだった。
「……おかしい。兵が、いない……?」
レオンの眉が険しくなる。
不穏な沈黙を破ったのは、周囲を囲むように現れた帝国兵たちだった。
完全な包囲網。逃げ道は、なかった。
「レオンっ……!」
姫が叫ぶと同時に、彼は剣を抜いた。
既に限界を超えた身体に鞭を打ち、彼は最後の力で戦う。
一人、また一人と帝国兵を薙ぎ倒すその姿は、まさに修羅。
血飛沫が舞い、肉が裂け、鎧が砕けても――それでも剣は止まらなかった。
だが、
「ッ……!」
最後の一振りを放った瞬間、背後から何かが激しく頭部を打った。
レオンの意識は、暗闇へと堕ちていった――
◇ ◇ ◇
どれほどの時間が過ぎたのか。
目を開けたレオンは、石造りの天井と鉄格子の匂いに囲まれていた。
地下牢。
鉄枷に繋がれた両腕。失った剣。血の乾いた衣服。
彼は、敗北していた。
「……やっと目、覚めたのね」
その声は、牢の外から響いた。
鈴のような声。けれど、その響きには妙な癖があった。
「――誰だ」
レオンが声を絞り出すと、灯された松明の先に現れたのは、一人の少女だった。
黄金の髪を夜空のようなリボンで束ねた、絶世の美貌。
しかし、その顔には不思議な稚気が浮かび、瞳は底知れない好奇心に満ちていた。
「アウレリア帝国、第一皇女。レグリーナよ。よろしくね、レオン?」
レオンの目が細くなる。
「……俺の名を、なぜ」
「全部調べたわよ。あんた、セイラ姫の騎士だったんでしょ? 一騎当千って噂、誇張じゃなかったわ」
レグリーナは檻の前まで歩み寄り、しゃがみ込んだ。
金色の髪がさらりと揺れる。
「――気に入った。あんた、私の護衛になってよ」
あまりにも突然の言葉に、レオンは一瞬、思考を止めた。
「……は?」
「言葉の通り。あんた、強い。私の周りって、虚勢張るのばっかで退屈なのよ。だから――」
レグリーナは微笑みながら、言った。
「飼ってあげる。光栄でしょ?」
ふざけた戯言だ、とレオンは思った。
だが、彼女の目だけは、どこまでも真剣だった。
「断る理由はないよね? ……だって、もし拒否したら――」
その先を言わず、レグリーナは軽く指を鳴らした。
牢の奥、鉄格子の隙間から一枚の紙が滑るように投げ込まれた。
そこに描かれていたのは、幽閉されたセイラ姫の姿だった。
傷はない。だが、目隠しと拘束具。声も出せない。
「今は“生きてる”けどね。あんた次第で、未来は変わる」
にっこりと笑って、レグリーナは言った。
「……ねえ、どうする? 忠義を捨てて、姫を生かす? それとも、死んで忠義を貫いて、姫も一緒に殺す?」
選べ。
そう、あの少女は言った。
美しく、無邪気で、残酷に。
――落日の剣は、囚われたまま、命の選択を迫られていた。