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異世界のトイレ事情

王城を追い出された俺は、宛てもなく石畳の街道を下っていく。

昼下がりの城下町は活気に満ちているが、どこか埃っぽく、鼻につくような臭いが漂っていた。

――それもそのはず、歩くそばから道端にゴミが散乱し、時折小さな排水溝を覗くと黒ずんだ汚水が澱んでいるのが見える。前世で当たり前だった清潔な道路や配管設備なんて、ここには全く存在していないようだ。


「……まずは寝床を確保しないとな。あんまり贅沢はできそうにないけど」


王から“追い出される”形で渡された銀貨は数枚。

とても城の近くにある高級宿には泊まれそうにない。必然的に“下町”エリアへ向かうしかなかった。


城下町の中心から外れた細い路地へ足を踏み入れると、街の様相はさらに荒れていく。家屋は古く傷んだ木造が多く、石畳が剥がれているところも珍しくない。

行き交う人もどこか疲れた顔をしていて、俺に目を向ける者は少ない。彼らにとって、貴族でも騎士でもない“ただの男”が歩いていても興味はないのだろう。

時々、食べ物の屋台が並んでいるのを見かけるが、湯気に混じって臭いが鼻を突き、あまり食欲は湧かない。


「ここが……安宿、か?」


通りに面した木製の看板には、“宿”を示す簡素な文字が書かれている。建物自体は古めかしく、扉も窓もボロボロだ。正直、前世の感覚からすると“営業している”とは思えないレベル。しかし、背に腹は代えられない。

思い切って扉を開けると、薄暗いフロントらしきスペースがあり、カウンター越しにガサツそうな中年女性がこちらをじろりと見つめた。


「あんた、泊まりかい? 一晩銀貨一枚だよ。あとは朝飯が欲しけりゃ追加料金ね」


「……銀貨一枚、か」


出された金額は、俺の持っている銀貨数枚のうちの貴重な一枚。決して安いとは言えないが、城の近くの宿ならもっと高額だろうし、ここ以外にあてもない。

とりあえず一晩だけでも休む場所が欲しい。俺は渋々ながら銀貨を一枚差し出し、中年女性から“鍵”代わりの木札を受け取った。


「二階の突き当りが空いてる。部屋で汚いことするんじゃないよ。――ま、どうせ汚れてるけどね」


最後の言葉は半分嫌味のようだが、俺も言い返す余裕はない。

階段を上がってみると、通路には埃が舞っており、壁の一部はカビのような黒ずみが広がっている。なんともまあ、不安になる光景だ。

指定された部屋の扉は開けるだけでギシギシと悲鳴を上げる。中に入ると質素な寝台が一つあるだけ。窓があるが小さく、外の光はほとんど入らない。


「はあ……まぁ、屋根があるだけマシか」


軽く寝台に腰を下ろすと、古いマットレスがしなり、不快な埃の匂いが鼻についた。

しかし、これでも外で野宿をするよりは安全だろう。とりあえず今日はここで夜を明かすことにする。


腹も減ったが、まずは気になっていたものを確認せねば。――そう、トイレだ。

部屋の中には当然トイレなどなく、共同使用らしい。前世の知識からすれば、「各部屋に水洗トイレ完備」なんて期待は最初からしていない。

廊下を進むと“トイレ”と書かれた木札が掛かった小さな扉を発見。まるで物置のように薄暗いスペースに、ぽつんと穴の開いた椅子――というか木枠――が置かれているだけだった。


「うわ……こりゃキツいな」


鼻を刺す刺激臭。下水の配管なんてありはしない。ただ、穴の下には桶がセットされているらしく、その中に汚物が溜まっているだけだ。

おまけに換気もほとんどなく、扉を開けている間は廊下にまで臭いが漂ってくる。これでは同じフロアの住民たちも迷惑だろう。

ふと、前世の職業柄か、つい「この構造ならこう直せば……」なんて頭の中で考えてしまう。それが今の俺に何の役に立つのかはわからないが、体が勝手に“改善案”を浮かべてしまうのだ。職業病だろうか。


「……たぶん、S字トラップの原理とか、簡単な通気口を設けるだけでも多少マシになるはず。だけど……道具も資金もないからなあ」


そう呟いて部屋に戻ろうとすると、廊下の奥の方から宿の女将が顔を出してきた。


「んだい、あんた。文句でもあるのかい?」


「い、いや。ちょっと匂いが強いなって思っただけで……」


「トイレが臭いのは当たり前だろ。そんなの誰だって知ってるさ。――ごちゃごちゃ言うなら、もっと高い宿へ行きな」


食ってかかるように言われ、俺は慌てて首を振る。


「そ、そんなこと言ってません! ただ……もうちょっと快適にできるかな、と思っただけで」


「へっ、変わった奴だね。ま、好きにすればいいさ。余計な手間かけられるとこっちも困るが……。部屋を壊さない程度にな」


半ば呆れられた感じで、女将は踵を返して去っていった。

俺としては、彼女に嫌われたいわけではない。ただ、少し工夫すれば“臭い”くらいは抑えられるのにな――と思うのも事実だ。


ひとまず部屋へ戻り、荷物(といっても大したものはないが)を整理した後、少しだけ外に出てみる。

日はすっかり傾き、路地には夕闇が下り始めていた。行商人や露店も店じまいを始め、通りに残るのは酔っぱらいらしき人々や浮かない顔で帰路につく労働者たち。

どの道を通っても感じるのは、排泄物や生ゴミが混じったようなツンとした悪臭と、不衛生極まりない環境だ。


「これは……前世の常識からすると、ありえないレベルだよな。よくこの国の人たち、こんな状態で暮らせるもんだ」


もしここに下水処理施設や水洗トイレの仕組みが普及していたら、街の景観も健康状況も格段に良くなるだろう。前世で当たり前だったインフラを思い出すと、胸がもどかしくなる。

しかし、今の俺には“勇者”と呼ばれた肩書きも金もない。作ろうにも、相当な資材や人手、そして国やギルドのバックアップが必要だろう。

こんな無名の男に、そこまでのサポートをしてくれる物好きがいるとも思えない。

――ふと、胸ポケットで薄く光る感覚がした。あの謎スキル「ウォッシュ・テクノロジー」。どうやって発動させるのか、何ができるのかもわからないが、もしかするとこの“汚れた世界”を変える鍵になるのかもしれない。


(このスキル……“水を洗浄に使う技術”のイメージがあるけど、実際はどうなんだ? 試しに意識してみるか?)


人気のない路地裏で、俺はそっと手のひらをかざしてみる。

集中しようとするものの、光や魔力が溢れ出すような派手な演出はない。何も起こらない。

――やはり簡単にはいかないらしい。

それでも、どこか頭の片隅に“水の流れ”をイメージすると、体の中でかすかに反応するものがあるような気がした。まだ確信は持てないが、今後の手がかりにはなるかもしれない。


「とりあえず今日はもう飯を食って寝よう……。明日から仕事を探さないと、金もすぐ底をついちゃうしな」


この世界で生きるには、まずは収入源を確保しなくては。

――王都には“冒険者ギルド”なる組織があって、仕事の斡旋をしているらしい。戦闘の才能がない俺にできることは限られているかもしれないが、雑用でも何でも金を稼げる可能性はあるだろう。

さらに、ギルドで信用を築ければ、ゆくゆくは何らかの協力を得られるかもしれない。

そう考えながら宿へ戻ろうとした矢先、背後でバタバタと足音がした。見ると、酔っぱらいの男が転倒し、その場で吐瀉物をまき散らしている。


「……うわ……」


飛び散る汁が細い溝に流れ込むものの、そこにたまっていた汚水があふれ出して、周囲の石畳に広がっていく。もう強烈な臭いの二重奏だ。通行人たちも顔をしかめつつ、遠巻きに避けている。

小さなことでさえ、衛生が整っていないだけでこんなにも不快と不安が生まれる。

――“お呼びでない”と追放されたけれど、実はこの国にはトイレが必要なんじゃないか?

あの王様や貴族たちは理解していないが、聖女だって知らないが――俺にはそれをどうにかできる“可能性”があるのかもしれない。そう思うと、不思議な決意が湧き上がってくる。


(俺が“勇者”である意味って、本当はこういうところにあるのかもしれない……?)


もちろん、ただの思い上がりの可能性もある。だが、せっかく生き返ったこの命、腐らせるわけにはいかない。

いつか、この汚い路地裏を――いや、王都全体をきれいにして、人々が笑顔になれるような環境を作れたら……それこそが、今の俺にできる“戦い”なのかもしれない。


翌朝。

薄暗い部屋の寝台で硬いマットレスに翻弄されつつも、なんとか眠りはとれた。

宿の女将に朝食を頼む余裕はないので、昨晩買っておいた固いパンのようなものをかじりながら身支度を整える。

――幸い、荷物も少ないし、“装備”らしい装備もない。強いて言えば、身分証代わりの板切れがあるだけだ。


「今日こそは、ギルドへ行ってみるか」


部屋を出ようと廊下を歩くと、今度はトイレから漂う匂いがさらに増している気がする。溜まった汚物が放置されているのだろう。処理の頻度が少ないのか、女将が面倒がっているのか……。

前世で開発に携わった高性能な洗浄システムや除菌技術を思い出すと、もはやこの現状は地獄にしか見えない。

だが、この世界の人々にとってはこれが日常だ。誰も疑問を持たず、不思議とも思わない。

――けれど、俺は違う。


「……いつか、ここにも清潔なトイレを作ってやる。それが俺の“復讐”ってわけじゃないけどさ」


王に追放されて、今さら復讐だなんだと考えているわけではない。ただ、見下されたまま終わるのは悔しいし、何よりこの世界の人々だって衛生的で安全な暮らしを望んでいるはずだ。

俺には、そのための知識と少しだけの“勇者スキル”がある。なら、やるしかないじゃないか。


階段を下り、一階の受付を横切るとき、女将に声を掛けられた。


「おい。昨晩は部屋で変なことはしなかったろうね」


「何もしてませんよ。大丈夫です」


「そりゃよかった。……ここんとこ治安が悪いし、変な奴らが騒ぐと厄介なんだよ」


そう言いながらも、どこか女将は俺のことを胡散臭そうに見ている。

“勇者”と名乗るのもバカバカしいし、かといって他に肩書きもない。ただの“下町流れ者”というのが、今の俺の立ち位置なのだろう。


(ここを出るとき、ちょっとトイレの改善でも申し出てみようかな……。いや、受け入れてもらえるかは別だけど)


そんな小さな野望を胸に、俺は宿を後にする。

朝の下町は昨日とは違う意味で慌ただしい。水汲みやゴミ捨てに奔走する人々、露店の準備をする子供たち――しかし、漂う悪臭はやはり変わらない。


「さて……冒険者ギルドは確か、中心街を少し行った先にあるらしいが」


王都の案内板を頼りに大通りへ出る。いつか、ここに下水道が整備されたら、この悪臭とはおさらばできるのだろうか。そのときこそ、俺はこの国にとって本当の意味で“役に立つ”存在になれる気がする。

――追放された“勇者”なんて肩書きはもうどうでもいい。俺は俺のやり方で、この世界を少しでも住みやすくしたい。それが前世で培ったトイレ技術の継承者としての“使命”かもしれないのだから。


大通りの先に見える威圧感ある建物――それが冒険者ギルドらしい。


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