第十八話(07)
* * *
絵の具を取り返した後も、ジェラームは勝負を続けた。
結果、一時はテーブルの上にあったもの全てがジェラームのものだったが、一時間も経たないうちに、あの絵の具以外は全て消えていった。
――二十一点を出し勝利した後、一回も勝てなかったのだ。
それでよかった。取り返したいのは、この絵の具だけだったのだから。
「まぐれ……だったのかねぇ」
テーブルのメンバーがそうぼやく。
「まるで嘘みたいな瞬間だった」
あの勝利の瞬間こそ、酒場は騒然とした。次も勝つのではないかと視線がテーブルに釘付けになった。だがその後ジェラームに勝てる様子が見当たらず、そしてディマもいつも通り勝利していく様子から、皆、夢を見ていたのではないかと去っていった。
夕方になり、ジェラームも酒場を出た。
「楽しかったよ、どうも」
早ければ、明日にでもこの街を出るつもりだった。荷物をまとめなくてはいけない。
懐かしい暗闇に帰るのだ。
とはいえ、この街での絵をまだ完成させていない。今晩はそれらの絵を完成させる予定だった。
だからその夜、宿屋で絵を描いていたのだが。
――何の前触れもなく、部屋のドアがノックされた。
「……鍵なら開いてるよ」
ジェラームは壁際、床に座って絵を描いていた。周りに散らばるのは何本かの筆、いくつもの絵の具。星油ランタンもそこにあって、火は入れていた。
いったい誰が来たのかと顔を上げると、部屋に入ってきていたのは。
「あれ、ディマじゃないか」
間違いなく、ディマだった。ディマは物珍しそうに部屋の中を見回し、ジェラームの周りに散らばった仕事道具を見つめる。何も言わないものの、好奇心と不思議に満ちた目を輝かせていた。
「もしかして、また勝負しようって?」
筆を置いて、ジェラームは手のひらを見せる。そういえば、同じよう男が部屋に来たから、賭け事をすることになったのだった。あの時は確か、ノックなしで現れたが。
「あー、違う違う。いや、急に来てごめんね。もしかすると、明日にでも街を出ちゃうのかなと思って」
ディマは我に返ったかのように笑顔を浮かべる。
「聞きたいことが、あってさ」
ところが、不意にその笑顔は消える。
残ったのは、どこか寂しさを感じさせる表情だった。
「旅って……やっぱり、魅力的なものが多かったり……その反面、危険も多かったりする、よね?」
「……旅に出てみたいのかい?」
「だから、そういうわけじゃないんだけど……」
ディマは勝手に椅子を手に取ると、座り込んでしまった。
「――ただ、旅に出た友達が、まだ帰ってきてない。それだけ」
わずかに伏せられた瞳に滲んでいたのは、間違いなく、後悔だった。
ジェラームは少しの時間、言葉を探し、それから再び筆を動かし始めた。
「心配なのか? そいつのこと」
「そりゃあ、もちろん!」
「帰って来るはずなのかい?」
その質問に、ディマは答えてはくれなかった。代わりに唇を噛み、伏せていた瞳を今度は窓の外に向けた。
窓の外。明るい街。その向こうに広がる闇。
「――賭けたんだ、『あんたはきっと帰ってこない、だって街の外には素敵なものがたくさんあるだろうから』って。癖、みたいなものだったの。だってあいつ……『絶対に戻って来る』っていうから……」
声は徐々に小さくなる。
「ルールみたいなものだよ。私と、あいつの。どちらかが『こうだ』と言えば、もう一人は反対の方に賭ける……だから私は、そっちに賭けるしかなかった。帰ってこないって。その時あいつは……にこにこしてた。『この勝負はあたしの勝ちで間違いないな』って……」
深く息を吸い、彼女は表情を歪める。暗闇から視線を戻すと、苦笑いをジェラームに向けた。
「もう昔の話……まだ、帰ってこない」
以前、ディマは言っていた。
いつも「負けたい」と思いながら勝負をしていると。
「でもさ、まだ勝負は続いてるの。だって、確証がないじゃない。あいつがどうなったか……わからないわけだし。もしかすると明日にでも、帰って来るかもしれないし」
そして、首を傾げる。少しためらいがちに。
「……つまり、どう思うか聞きたいの。私の友達、どうなってると思う?」
どうしているのか、ではなく、どうなっているのか。
尋ねられているのは生死。帰ってこない理由。
街の外で素晴らしいものに出会ったから帰ってこないのか。
はたまた、光のない世界に捕らわれてしまったか。
――問いにジェラームは答えなかった。
迷いもしなかった。立ち上がると、机の上に向かった。そこには、出来上がった絵がいくつか置いてある。そのうちの一つ、小さなものをディマに差し出した。
「それ、持っていきなよ」
「……なにこれ」
黒色に塗りつぶされた絵。
それがジェラームの答えだった。
ディマは顔をしかめる。
「黒色で塗りつぶしただけの絵? そもそも絵って言えるの?」
「何が見える?」
今度はジェラームが質問する。
「あんたには、何が見える?」
淡々と。
「――何も見えない。何も」
やがてディマは答えた。
「……でも、何かありそうな気がする」
「見たいものを見ればいいさ」
ディマは絵を見つめたままだった。長いことそうしていた。何も言わずに、街の外の闇に似た黒色を見つめる。
ディマが何を見ているのか、ジェラームは知らない。彼女が何を見たいのかも、知らない。
それは自分に関係のないことだと、絵の続きにかかる。
「――ありがとう、大事にするよ」
果てにディマは微笑んだ。
「変なこと聞いて悪かったね……でも、聞けて良かった」
本当に嬉しそうに絵を抱いて。
* * *
その後、ディマの友人が街に戻ってきたのかは、知らない。
翌日にジェラームは街を出てしまったから。
その後も勝負に勝ち続けたのかも知らない。負けるようになったのかも知らない。
【第十八話 コインの表裏 終】




