第十八話(06)
* * *
執着しすぎているのでは。
宿屋に戻り、ジェラームははっと我に返る。ランタンの色はすでに黄色。窓の外に広がる大きな街には、まだ賑わいが響いていたものの、昼間よりもいくらか静かだ。
自然と窓の外を眺めて、果ての暗闇に目が吸い寄せられる。
黒色で塗りつぶされたかのような世界。あるいは複数の色が重なって何も見えなくなってしまった景色。
何もないのかもしれない。その反対かもしれない。
「……最近、街の絵ばかり描いてたからな」
暗闇は遠すぎる。旅立ちはあと数日先に決めてある。
――星油ランタンのホヤを上げる。怯えたように揺らめく灯りに息を吹きかける。
火は呆気なく消えた。闇が部屋に満ちる。
完全な暗闇ではない。窓の外から、街の明かりが入り込んでいる。街の外に広がっている闇とは、ほど遠い。
十分とは言えない。何かが潜んでいるような気配はどこにもない。それでも深呼吸をしてジェラームは笑う。
手を伸ばすのは、絵の具の入った瓶。いくつか並んでいるが、暗闇の中ではそれがいったい何色なのかはわからない。
そう考えると、あの絵の具に、強くこだわる必要はないのだ。
そして絵の具の一つを掴んで気付く。
「――目に頼りすぎていたかもしれないな」
旅人が見るのは闇だ。
前にあるのは闇だ。
先はいつだって闇なのだ。
絵の具を筆先にとり、白紙の上に滑らせる。
光を消すように、更に別の絵の具を重ねていく。
それが何色になっているのかわからない。
けれど、無数の色を重ねたのは確か。
気付けば止めてしまっていた呼吸を、思い出す。吸って吐く。
また止めて、筆を動かして。
――ジェラームが星油ランタンに光を入れたのは、しばらく後のことだった。窓際でマッチを擦る。ランタンの芯に火を移す。
テーブルの上には、黒く塗りつぶされた絵ができあがっていた。
ひどく、久しぶりの感覚だった。
まるでいままで、自分が旅人だったことを忘れていたかのようだった。
* * *
「そろそろ、この街を出ようと思ってな」
翌日、慣れたように酒場に向かい、席に着いたところでジェラームは告げた。
「ゲームは今日で最後にする」
「えっ? もう行っちゃうの? この絵の具、どうするの?」
すでにトランプを切っていたディマが目を丸くする。他のメンバーは仕方がない、という顔をする者もいれば、笑う者もいた。
ジェラームはテーブルに肘をついて手を組んだ。
「いやあ、取り返さなきゃなと思ってたけどさ……」
少し遊びすぎたなと、思ったのだ。そして大事なことを忘れていた。
「絵の具は……今日の勝負で取り返せなかったら、それで終わりさ」
「ふーん……ま、どうなるかわからないけどね」
いつも通り、数人で回してトランプを切って、それぞれにカードが配られる。札を手にしたものは数字を確認する。
けれども、ジェラームは裏向きに配られたカードを、テーブルにそのままにしておいた。裏面を眺めて、目を瞑り、瞼の裏の闇を見る。カードには一切触れない。
「……旅人さんよ、カード、もう配られてるぜ」
隣の男が不思議そうに声をかけてくる。ジェラームは。
「俺はこのままでいく」
――その場にいた全員が、目と耳を疑う。
だがジェラームだけは、裏向きのままのカードを見つめたまま、信じる。
「……完全に運に任せるってことか?」
やがてメンバーの一人が言葉を漏らし、それで皆が戸惑いながらも納得したようだった。
そして皆のカードが公開される。
「私は十九」
ディマが声を上げて、そろそろとジェラームのカードを見る。
ジェラームは初めて、自分の手札を見ていた。
十と十三。合計二十三。
「あちゃあ、普通に超えてたな」
「……面白い試みだけどよ、やっぱり難しいんじゃないの?」
一人がそう言ったが、ジェラームは新たに配られたカードも捲らなかった。ただ目を瞑り、山札から一枚を追加する。
「これでいい」
再びジェラームは勝負に出る。メンバーは不思議そうな顔をしたままで、それでも勝負は進んでいく。
「勝負っていうのは運が大切だけどよ、考えるのも大切なんだぞ。適当にやってると、また負け続きになるぜ?」
一人にそう言われたが、ジェラームは頭を横に振った。
二回目の勝負の結果、ジェラームの点数は十八点だった。
――ディマと同じ点数。
二十一点の者はいなかったが、より点数が近い者がいたために、その者が一番になったが、ジェラームとディマは同率二位だった。
「……」
ディマは目を丸くし、しかし次の勝負へ挑む。またカードが配られる。ジェラームはそれに触らない。数字を確認しない。また目を瞑り、宣言する。
「これで問題ない、決めた」
三回目の宣言には、誰も何も言わなかった。皆、戸惑っているというよりも、気圧されているような表情を浮かべていた。
何か、異様なことが起きている。
――それをうっすらと感じていた。
ふざけているとは思えない。
だからといって、真剣にやっているとも、思えない、思いたくない。
「ねえ、ジェラーム。そんなんじゃ、勝てないって。手札を見て、これからどうするか考えるのも、勝負の一つなんだから……」
誰もが黙ってしまった中、そろそろとディマが口を開いた。
「さっきも言われてたけど、賭け事っていうのは、運だけじゃないよ。確かに、運が大半を占めるかもしれないけど」
「――俺ねぇ、そういえば旅人だったなって、思い出したんだよね」
不意にジェラームは椅子の背もたれによりかかった。
「旅人っていうのはさ……信じた暗闇の中を、歩くものでね……」
カードはいまだに伏せられたままだった。
「そりゃあ、暗闇と言っても地図はある。どの方向に何日進めば街があるのかっていう地図が。でも、その方向に確かに進めているのかはわからない。そればっかりは、自分自身を信じるしかないんだよね」
「……それを、いまこの勝負に持ち込んだってわけ?」
「まあ、なんとなく、それっぽく」
ジェラームは軽く笑う。
「俺はこれでいい。これを信じる。見えなくても、それを信じる」
ディマはかすかに口を尖らせた。けれどもジェラームに笑みを返したのだった。
「なるほどね……それじゃあこれは、賭博師の私と、旅人のあんたとの勝負なんだ!
それじゃあ、負けたくないなぁ、つまりこれまでの歩みの勝負ってことだもの」
全員の手札が決まった。全員の数字が決まった。
「……私は二十」
それがディマの手札だった。
そしてジェラームの伏せられたカードが表向きになる。
十三と八。
「二十一」
一人勝ちの数字。
テーブルは騒然とする。メンバーはジェラームのカードを見て、そしてこれまでに「敗者」になることはなかったディマを見比べる。テーブルの上に広げられた二枚のカードの数字は、揺らぐことがない。
テーブルの上にあるものの持ち主が決まった。そこにはあの絵の具もあった。
 




