第十八話(05)
* * *
気に入っていた絵の具だったのだ。ほとんど黒に近い、紺色の絵の具。
他の絵の具を使えば、似たような色を作ることができる。だがあくまで似た色であり、全く同じ色は作れない。
それ故に、唯一無二の色だった。
――暗闇の絵を描く時に使うと、その闇がうっすらと色付く。だから気に入っていた。
それが賭けたものの中に混ざっていたと、どうして気付けなかったのか。
「どうやって取り返したものかねぇ」
翌日、ジェラームが酒場に行くと、ディマの姿はなかった。周りの客に話を聞いたところ、待っていればそのうち彼女は来るはずだと言われたため、ひとまずは待つことにした。適当に飲み物を頼んで、テーブル席につく。小さなスケッチブックに筆を滑らせ時間を潰す。
「勝つしかないぜ」
いつの間にか隣の席にいた男に言われる。ジェラームにとって見慣れた顔だった、同じくゲームに参加している男だ。
「まあ、勝てるなら、な」
「どうやったら勝てるもんかねぇ、勝てるまでやるしかないのか?」
尋ねてみると、男は頭を横に振るだけだった。
「諦めるのが一番いいよ。ディマには誰も勝てない……ああ、もちろん、ずるはなしだ」
「イカサマするほどのものではないし、俺にそんな度量ないよ」
「そうやって諦められるのなら、そうした方がいいさ。とても貴重な絵の具、ってわけでもないんだろう?」
あの絵の具は、遠くの街で手に入れたものだった。そのため貴重なものと言えばそうであるし、二度と手に入らないと言ってもよかった。
だがどんなに貴重なものであっても、結局は絵の具だ。いつかはなくなってしまう消耗品。だから尽きてしまった時は、その時はその時だと、割り切れるものだった。
とはいえ、実際になくなったわけではない。
「……ま、ここにいる間は、どうにか取り返せないか、ゲームに参加し続けようかね」
少し考えて、ジェラームは絵を描いていた筆を止めた。書いていたのは、いま目の前にある光景ではない。記憶を頼りに描いた、賭け事をするテーブルの様子だった。
「一回くらい、運が俺に味方してくれるかもしれないし……」
「どうだかな、俺達も、いつもそう思って勝負してきたさ。でも一度も勝てたことがない」
「でも、勝てるかもって思って続けるのは、大事じゃないか?」
そんな風に話していると、
「――私はいつも、負けたいなって思いながら勝負に挑んでるけどね?」
テーブルにディマがやって来た。周囲の客は、皆そろって眉を寄せていた。
「負けたいだって? いつも勝つくせに?」
「勝っちゃうから、負けたいなって思うの!」
思わずジェラームは笑ってしまった。
「贅沢というか何というか……」
ただ考えてみると、ディマの気持ちには納得ができる。
恐らくディマは、勝とうと思って勝っているわけではないのだろう。
運が味方についている、というよりも。
……どことなく、運に振り回されているようにも見える。
「なになに、絵を描いてるの?」
ジェラームがスケッチをしていることに気付いた彼女は、その絵を覗き込んでくる。目を大きく開けると、絵の中の人影を指さした。
「あっ、これ、私? ……これゲームしてるときの絵?」
その通り、絵の中央にいるのはディマだった。更に書き込みながら、ジェラームは答える。
「あんたが勝ちまくってるときの絵さ」
「ふーん……」
――ディマはただ声を漏らすだけだった。興味がないらしい。だが、
「ねえ、今日も勝負しに来たんでしょ? 他の街の絵、持ってきた?」
「いくつかあるよ……そういえばあんた、昨日も他の街の絵に興味持ってたな」
思い出してジェラームは顔を上げる。ディマは、
「だって私、この街から出たことないもの。そりゃあ気になるよ」
「へえ。じゃあ、一回街から出て見たらどうだ? あんた、運がいいんだ。旅人にとって運がいいっていうのは、強みだぞ」
何かあった時に最後に頼ることになるのは、自分の感覚と運になる。ジェラームは筆を振る。
「いや……それはいいかな。旅って大変そうだし。ほかの街が気になるのは本当だけど……その程度だし」
ディマは少し間を置いて視線をそらした。
その後に、ジェラームは「それに」と彼女の口が声なく動くのを見た。だが彼女は何も言わず、肩を竦めて、無邪気な笑みを浮かべると、ポケットに手を突っ込んだ。
「さて絵描きさん。いい絵を描くのに、この絵の具が必要なんでしょ?」
取り出されたのはあの絵の具。
「ほら、私を負かしてみなよ!」
* * *
――三と、二と、八。合計十三。
ジェラームは自身の手札を睨む。
少ない数字、といっていいのではないか? もう一枚カードを引いてもいいのではないか? 八までなら問題ない。
いやしかし、八よりも大きかったら……。
「……もう一枚、引いておくぜ」
悩んだ末に、カードを一枚引く。
十。
「……負けました」
手札を広げて、ジェラームは苦笑いを浮かべる――今日はほとんど勝てていない。失ったものは取り返すことができず、更になくしていくばかりだ。
もちろん、ディマにも勝てていない。
「旅人さん、ついてないねぇ」
メンバーに笑われてしまうが、ジェラームにとっては笑い事ではない。
もう一度ゲームに参加する。今度の手札は……九、七。合計十六。
欲張るべきではない。さっき失敗したではないか。
――そう考えたところで、結局は負けてしまう。
「はい、私、二十!」
ディマの声が高らかに響く。
あの時勝負に出るべきだったか? 二十一を狙ってカードを引いておくべきだったか? ぐるぐると、ジェラームの頭の中でいくつもの数字が渦巻く。
テーブルに広げたカードを見たところで、それが変わることはない。
「夢に出てきそうだ……」
その日、ほとんど勝てなかった。
あの絵の具も取り返せないまま。
 




