第十六話(09)
見ていると思考すらも染まってしまいそうな、その黒色。
幸いにも身体が反射的に動いた。おぼつかなくもデューゴは動く。真横で黒いインクの塊のようなそれが潰れる。ところが『暗闇』はまた身体を起こす。異様な黒色は、どんな形をしているのか、はっきりわからない。ただ黒いだけ。それでもそこに、デューゴは鋭い瞳と牙を見たような気がした。こちらに向けられている。光を一切反射しない闇。光量を上げたにもかかわらず、星油ランタンを恐れない――。
視界の端で、より眩しい光が膨らんだ。
エピ。いまの一瞬で星油ランタンの勢いを上げたらしい。ランタンの上部から煙が漏れている、火が激しい証だ。
それほどに、光を強くしたにもかかわらず『暗闇』は逃げなかった。むしろ、その光へと飛び掛かる。再びエピへと襲い掛かる。
「だめだ、きかない!」
慌てたエピがランタンを振るえば『暗闇』は一瞬怯んだ。その隙にエピは距離を取るが、漆黒は光を消したいと考えているのか、エピを追いかけ続ける。
――どうしたらいいんだよ!
明らかにあの『暗闇』には光がきいていない。きいているのかもしれないが、光を強くしたのなら襲い掛かってくる。それならどうしたら――デューゴは必死に考えるが、考えながらも手を動かしていた、より星油ランタンの光を強くしてみる。より強い光があれば『暗闇』も耐えられず去ってくれるかもしれない。
とにかく、何かしなくてはいけなかった。
エピは星油ランタンを振ることでどうにか『暗闇』を退けているようだが、それもいつまで持つか……。
……そう考えていたから、また、慌てていたことが原因だろう。手も震えていた。『暗闇』のせいで、再び誰かを失うことが怖かったから。
がしゃん、と音を立てて、デューゴの目の前の光が消えた。
――杖の先から、星油ランタンが滑り落ちてしまったのだ。本来なら、星油ランタンは丈夫にできていて、壊れるなんてことは、運が悪くない限りは起こらない。
運が悪かった。
――デューゴの足元に、ガラスのきらめきと、漏れ出てしまった星油の輝きが散らばる。
自分の顔から血の気が引くのをデューゴは感じていた。割れたガラスも、地面に広がった星油も、もう戻すことはできない。
ところが、一瞬だけの絶望だった。
「――エピ! こっちに来い!」
怒声に近い声を上げながら、デューゴは荷物を乱雑に地面に下ろし、中からあるものを素早く取り出す。
「デューゴくん?」
ランタンを振ってまた『暗闇』を怯ませた隙に、エピが走って来る。漆黒はその背を追う。こちらへと走って来るエピは慌てながらもきょとんとした顔をしていたが、デューゴが手にしたものを見て、何をしようとしているのかを察する。
デューゴが荷物から取り出したもの。そのうちの一つはボトルだった。ランタンの燃料として持ってきた、星油のボトル。
エピが隣まで来ると同時に、デューゴはボトルの中身を地面にぶちまける。輝く星油が飛沫となれば、より煌めく。
デューゴは星油をぶちまける勢いのまま、空になったボトルを地面に投げ捨てる。そして次に手にしたのは、荷物から取り出したもう一つのもの――マッチ。
擦る。勢いのまま、投げ捨てる。
――目を焼くかのような激しい光が爆発した。
地面に広がった星油の上に、火が走る。星油ランタンと同じ光が、辺りに広がる。暗い公園を照らし出す。
そして襲い掛かろうとしていた『暗闇』も。
踊る炎の激しい光に照らされて、『暗闇』は大きくたじろいだ。獣が全身の毛を逆立てるように、身体の黒色を震わせる。その黒色のいくらかが、まるで風に飛ばされて消えるかのように、端から宙に散っていく。
漆黒の怪物はすっかり勢いを失っていた。そのままずるずると後退していくものの、溶けていくかのように身体は小さくなっていく。それでも光の届かない場所まで這うように進んで、やがて光が完全に届かない場所に消えていった。
地面に広がった星油の炎は、すぐに消えそうになかった。しばらくは、この公園を照らしているだろうと思われた。
「……ありがとうデューゴくん」
街の中にある光よりも眩しい炎。それに照らされて、エピが口にした。ただ地面を見て、
「割れちゃったんだね、君のランタン」
「おまけに星油も全部捨てた、ボトルもあそこで燃えてるぜ」
星油は少なく、大切に使わなくてはいけなかったが、どうしようもなかった。ただデューゴに後悔はなかった。
死にはしなかったし、消えもしなかった。
前と違って。
星油ランタンも星油も失ってしまったのは確かだったが、それでも不思議と妙に落ち着いていた。
「……ランタンは、次の街で買うか。そこまで高くなければいいけど。それまでお前のランタン一つで頼むぜ」
旅をしているのだ、また買えばいい。
「星油は……まあ俺のランタンの分が減ったわけだしな、考えてみれば必要分の半分だけで済むようになったってことじゃないか?」
それも一人で旅をしているわけではなく、二人で旅をしているのだ。
「……借りが増えるけど」
「デューゴくん、僕、最初からそういうの気にしてないって」
先程まで旅が終わるかもしれなかったにもかかわらず、エピは笑っていた。
気付けばデューゴも笑っていた。
まだ終わっていない。旅の途中だ。
「――あっ」
と、エピが。
「デューゴくん、あれ、見てよ」
この開けた場所の、隅の方を指さす。光がぎりぎり届く場所だった。
そこで、小さな影が揺れていた。本当に小さく、けれども光の中で必死に起き上がろうとしているようにも見える何か。
「……花だ」
思わずデューゴは口を開けてしまった。紛れもなく、それは花だった。非常に小さく、その上いまにも枯れてしまいそうなほど萎れかけている。花弁もちぎれてしまいそうだが、その白色は燃え盛る星油に照らされ、より白く染まっていた。
――激しく燃えた星油の炎がきっかけなのだと、二人は気付いた。
枯れかけていたものの、その光に照らされて、花は弱々しくも生き返ったのだろう。
暗闇の中で、花はまだ生き残っていたのだ。
 




