第十六話(06)
* * *
老人の家にデューゴとエピが戻ると、家主の姿があった。
「なんだ、もう帰って来たのか!」
老人は二人を見るなり嘲笑うように鼻を鳴らした。
「適当に歩いてるだけで、さぼってるんじゃないだろうな!」
「花屋を見てきました。もしかしたら、残ってるんじゃないかと思って」
エピは特に気に留めない様子で、老人に答える。
「でもありませんでした。明日は果樹園の方を見てくる予定です」
物怖じしないエピの態度が気に入らなかったのだろうか。薄暗い部屋の中、老人は顔を歪めていた。ただ。
「けど……この街、もう『暗闇』が入り込んじゃってるみたいで。花探し、明日は果樹園に、明後日は公園に行こうと思ってますけど、うまくいかないかもしれないです」
「もしかして『暗闇』に怯えて戻って来たのか?」
途端に老人は声をあげて笑った。耳障りにも思える声は、家の外にまで響き渡る。
「偉そうにものを言って! ただの臆病者か!」
老人は笑いながらエピとデューゴの隣を通り過ぎると、玄関へと向かっていってしまった。その背をデューゴは睨むが、何も言えずにいた。ただ老人が外に行くのを、黙って見届ける――心の中で、言いたいことはたくさんあったが。
それほどにぎゃあぎゃあと叫ぶのなら、自分で探しにいけばいいのだ。そもそも『暗闇』について何を知っているのだ。あれは本当に危険なもので、今日だってエピが機転を利かせなかったらどうなっていたかわからないのだ――。
派手な音を立てて閉められたドアを、デューゴは見つめ続けていた。老人はまた外に行ってしまった。そのまま帰ってこなくてもいいのに、と思うが気付く――あの老人、何の灯りも持っていなかった。持っていたのは杖だけだった。
そしてあの老人は、また外に行ってしまったのだ。思えば、彼はここに自分達のための物資を置くためだけに出入りしているように思える。普段はどこにいるのだろうか。ここは、本当は老人の家ではないのだろうか。おまけに星油ランタンを持たないで、闇に包まれている街に出るなんて――『暗闇』を舐めているのか、それとも。
「……エピ、あいつに何か言い返してやればよかったのに!」
思い出したように、デューゴはエピに言う。妙なことを、考えたくなかった。それでも。
「――あのおじいさん、多分もう余裕がないんだよ」
エピがそんなことを言うものだから、デューゴはあの老人について、考えるのをやめることができなかった。一体エピは、何を感じているのだろうか。
老人が去ってしばらくして、エピとデューゴは二階の部屋に上がった。眠るにはまだ少し早いが、時間は夜で、明日も探索を控えているために眠ることにした。
ただ、エピは眠る前に机に向かっていた。目の前に広げているのは自身の手記。
――そういえばエピからもらった手記にまだ何も書いてないな。
ベッドで横になりながら、デューゴは思い出す。エピからペンと一緒にもらったあの手記は、いまだ荷物の奥底で眠っている。何を書いたらいいかわからないし、少し恥ずかしく思えてしまうのだ。
こんな街なのだ、気晴らしも兼ねて何か記録をつけてみるか。そう考えたところで、デューゴの頭に浮かぶのは『暗闇』のことやあの老人のことばかりで、楽しいものではない。あまり書きたくないことで、手記を開くのはまだ先でいいかと決める。
ただ、『暗闇』のこと、あの老人のことを考え始めると、止まらなくなってしまうのだ。
「そういえば、人の姿をした『暗闇』がいる、なんて話あるよな」
つとデューゴが口にしてみると、エピがペンを止めて首を傾げる。
「そういうおとぎ話、時々聞くよ。実際、どうなんだろうね。『暗闇』ってよくわからないし」
「……あのじいさん、どう思う?」
「あのおじいさんが『暗闇』かそうじゃないかってこと?」
エピは身体をデューゴへと向ける。不可解な顔をしていたものの、決して笑うようなことはしなかった。
「だって見たか? あのじいさん、星油ランタンを持たずに外に出たんだぞ。いまだってどこにいるのかわからないし……なんか、おかしいだろ」
デューゴは手をひらりと振る。
「こう言っちゃあれだけど……あれは、自殺行為だ。『暗闇』だって間違いなく街にいるのに。そうじゃなきゃ……あのじいさん自身が『暗闇』だとしか考えられない」
「……あのおじいさん、僕達の星油ランタンを嫌がったりしてないけどね」
自分が少し突飛な話をしていることを、デューゴは自覚していた。ただ気まぐれに、気晴らしに、嫌なことを考える前に、あり得ない話をしたいと思っただけだった。
「自殺行為って言ったけど」
ところがエピは、真剣な顔をして、きっと無意識にだろう、声を小さくして続けた。
「僕が思うに、あの人はその通りに――」
だからデューゴには聞き取れなかった上に、エピはそこまで言って、不意に椅子から立ち上がった。まだカーテンを閉めていなかった窓、その外を見つめる。広がっているはずの街は、まったく見えない。
「どうした?」
「……この家のすぐ横で、何か動いた気がする」
「『暗闇』か?」
『暗闇』は星油ランタンの光を嫌う――相当大きい『暗闇』でなければ。不安にデューゴは起き上がる。エピは窓の外を見つめたまま、しばらくの間黙っていた。
「多分、大きくはないよ。だから大丈夫だと思う」
やがて手記を閉じ、カーテンも閉めた。自身の星油ランタンを一度持ち上げて調子を見て、机の上に置く。
「これはこのまま、弱めないで置いておこう。デューゴくん、明日時間をもらっちゃうけど、果樹園に行く前に僕は自分のランタンの手入れをするよ……明日はよく準備していかないと、危ないかもしれないからね。何が起こるか、わからないもの」
――翌日、二人は想定外のことに絶句した。
果樹園に向かうところまでは、順調に歩んでいたのだ。
けれども、果樹園があるべき場所にたどり着いて、けれどもそこには何もなく。
本当に、何もなく。
あたかも、地図の一部がごっそりとえぐり取られたかのようだった。
かろうじて、ぽつぽつと死んだ樹が残っていた。かつてここに果樹園があった証で、しかしそれ以外の全てがすでに『暗闇』に呑まれた証拠でもあった。




