第十六話(01)
『暗闇』に呑まれたら何も残らない。本当に全てがなくなってしまうと聞く。
人も、ものも、その全てが消えてしまうのだという。どこかに行ってしまったわけではない。
その『暗闇』というのは、どこから来て、どこへ去っていくのだろうか。
少なくとも、星油のあるところから出てくることはないだろうが、考えてみれば、我々は未だにあれの正体を解明できていない。
あれの正体さえわかれば、我々はもっと安全に街から街への移動ができるだろうし、旅人以外の人でも、隣の街に簡単に行くことができるようになるのかもしれない。
ただ、いまはまだ、街の外には『暗闇』が存在していて、何かしらを呑み込み消してしまおうとさまよっている。
我々にできることは少ない。できることと言えば、消えてしまったもののことを忘れず、記憶の中や手記に残しておくことだろう。
きっとこれは、いまの時点でできる『暗闇』に対する大きな抵抗だ。あれに呑み込まれたら消えてしまうが、存在していたことは残すことができる。つまり完全に消えたわけではないのだ。
【ある旅人の手記より】
* * *
何もない、荒れ地といってもいいその場所を、ひたすらに歩いていく。
もしも星油ランタンの光がなかったのなら、暗闇の中を歩くことになる。絶対に避けなければいけないことだが、そこでデューゴはふと考えた――以前、光が全くない状態で走ったことがあった。かつて住んでいた街の住人や家族が『暗闇』に呑まれた時だ。
思えばあれは「走っている」と言っていい状態だったのか。どちらかと言えば「沈んでいく」といった状態で、だから「もがいている」と言うべき状態だったのかもしれない。
暗闇の中では、何もわからないから。
ふと顔を上げると、左右も暗闇で、振り返っても真っ暗闇だけが延々と続いている。自身が持つ杖の先にかけた星油ランタン、それが照らす空間だけに、世界が存在している――その場所と、先を歩くエピ、彼が持つ星油ランタンが照らす場所だけに。
虚無の中、己を失わないように進んでいる。そんな具合だった。
旅には慣れてきたつもりだった。ところがふと気を抜けば、微睡みに似たものを感じてしまう。そのまま、落ちてしまいそうになる。
「……そろそろ次の街が見えてくるはずだよな?」
微睡みに似たものを覚えるのは、きっとそのせいだった。もうじきで見えてくる光が、未だに見えてこない。「もうじきだ」と思ってから、いったいどれくらい歩いたことか。
「それらしい光は見えてこないけど」
深呼吸をして、デューゴは続ける。先を歩くエピは、頷いて星油ランタンを掲げた。世界を作るような光が揺れる。その光は黄色を帯び始めていた。夜が近い。
「そのはずだよ。だから、もう先に光が見えてくるはずなんだけど……」
光が見えてこないことに、エピも疑問を感じていたらしい。だが彼は振り返らずに、
「でも大丈夫だよ。完全に夜になる前には到着できるよ」
そうしてまた、二人は歩き続ける。ところがいくらか歩いたところで――あるいは大分歩いたところで、デューゴは口にせずにはいられなかった。
「間違えたんじゃないか?」
例えば方向を間違えたり、距離を間違えたり。少しのミスが、暗闇の中の旅では命取りとなる。足を早めて、エピと並ぶ。
エピの顔を見れば、難しい顔はしていなかった。
「僕、最近間違えることはほとんどなかったよ」
確かに、エピと旅を始めてから、彼が旅のやり方で間違えることは全くなかった。むしろ全てが正しかったことをデューゴは思い出す。
あとどのくらいで着く、とエピが言ったのなら、その通り、まるで呼び出されたかのように街の光が目の前に現れていた。
それでも、やはり先の闇に光は見えてこない。いくら目をこらしても、小さな点のような光すら見えてこない。あるのはただの黒色、それだけだった。
ふとデューゴが隣を見れば、珍しくエピが目を細めていた。あまり見ない顔だった。
「……間違えてもどうにかできるよ」
果てにエピはそう言って、リュックを背負い直す。星油ランタンを顔の前に持ってきて調子を窺う。
――特にデューゴは、不安に思わなかった。
確かに街の光は未だに見えてこない。それはおかしなことで、自分達が何か間違えてしまった可能性が高く思えてきた。
「まあ、そうだな」
だがいまは一人ではないし、最悪の事態が起きても、どうにかできる。いつの間にか、そう思えるようになっていた。
そう思わないと旅はできない。そうしようと動けないと、暗闇の中は歩けない。
何より、光はまだここにある。杖の先にぶら下がった星油ランタンは、煌々と輝き続けている。
その光の明るさ、温かさ。
消えてしまっても、まだ諦めてはいけない。
星油ランタンの光を受けて、デューゴの星油のペンダントも輝く。消えてしまったのなら、もう一度火を灯せばいいのだ。
――不意にエピが立ち止まったのは、星油ランタンの光がすっかり黄色になった頃だった。
あたかも硬直したかのように立ち止まった。先に進もうとしていたデューゴは、ぎょっとして振り返る。
「どうした、何だ?」
尋ねても返事はなく、エピの表情は無表情で固まったままだった。帽子の下、緑色の瞳は遠くを見据えている。つられるようにしてデューゴも先の闇を見つめてみるが、何も見えない。壁のような黒色があるだけだった。
ところが、エピには何かが見えたらしく、
「……少し困ったことになったかも」
瞬きをすれば、緑の瞳が星油ランタンの光を反射した。歩き出したのなら、エピはわずかに俯いていた。
「何だよ?」
理解できなくて固まっていたデューゴは、慌ててエピを追う。
「何が見えたんだ? 俺には何も見えないんだけど」
繰り返し尋ねるが、エピは何も答えないままだった。その俯いた背からは、戸惑いを感じられる。
「……あのねデューゴくん」
そうしてエピは、歩きながらようやく口を開く。
「その……君は嫌な思いをするかも――ううん、嫌なことを思い出すかも」
「嫌なことって――」
そこで、次はデューゴが立ち止まる番だった。
ついに見えた。エピが先程から見ていたものが。
人が造った何か。
暗闇の中から、浮上するかのように煉瓦の建造物が現れた。それはデューゴの背を大きく越えて、左右にも長く広がっている。気付かず歩いていたのなら、星油ランタンをぶつけて割っていたかもしれない。
――壁。
正体に気付いて、デューゴは暗闇を見上げた。巨大な壁のてっぺんまでは、暗闇に呑まれて見えない。左右の終わりも、黒色に包まれて確認できない。
――その大きさから、これがただの建造物ではないと気付く。
外壁。
街を囲う壁。
目の前にあるのは街だった。ただし、光がどこにも見あたらない、街。
「……門がどこかにあると思う、探そう」
エピが壁に沿って歩き始める。デューゴも無言でそれに続くしかなかった。
エピは続ける。
「『星油の泉』が枯れた街でも、後から来る旅人のために、泉に星油が残っていたり、物資があるかもしれないからね。それをもらっていこう」
――そこにあったのは『星油の泉』が枯れ、光を失った街だった。
歩く中、思わずデューゴは目を瞑ってしまった。瞼の裏に見えたのは、かつて自分が住んでいた街の姿だった。いま、どんな姿をしているのか――。
きっと、この街と同じだ。
 




