第十五話(02)
* * *
子供達に手を引っ張られ、宿屋を出ていく様は、大人達には奇異に見えたのだろう。ばたばたと、どこか情けなく子供に振り回されながら、ジェラームは苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「こら、旅人さんを困らせてはいけないよ!」
宿屋のドアが開かれた時、ついに宿屋の主が声を上げた。しかし子供達は、
「アーディのところに連れて行くんだよ!」
「この人、アーディのこと知らないんだって! アーディは偉大な旅人なのに!」
――いやその人、実在してないだろ……。
子供の夢は壊すものではないと、ジェラームはただ黙って口元を歪めていた。それでも、宿屋の主に
「まあうまくやるから」と、目配せしたが――ジェラームを見ることがなかった宿屋の主は、ぱっと顔を明るくさせた。
半分驚きの表情、半分は喜んだような顔だった。
「そうなのかい? それじゃあ、頼んだよ」
「えっ?」
ついにジェラームは声を漏らした。宿屋の主は、何も偽っていない様子で笑顔をジェラームに向ける。
「旅人さん、アーディを知らないなら、会った方がいいよ! アーディは子供達の言う通り、素晴らしい旅人なんだ。いまは旅をやめて、この街に住んでいるけど……この街の、誇れる人さ!」
そして子供達が言ったものとは、また別の話をするのだ。
「なにせ、『暗闇』と戦い、とある小さな街の『星油の泉』を守った旅人なんだから!」
――いやいや『暗闇』と戦って勝つって何よ?
子供達に引っ張られ外に出たジェラームは、物語の中に間違って入り込んでしまったのかと考えてしまった。あるいは自分が気ままに描いた絵の中に入り込んでしまったかのような。そんな話、あり得るのだろうか。
ところが、子供はさておき、大人までああ言ったのだ。嘘を吐いている様子は全く見られなかった。
ということは――。
――あるいは。
戸惑いの表情は、自然と好奇心に染まったそれに変わり始める。引っ張られるままに歩いていた足は、しっかりと歩みを刻み始める。
やがてたどり着いたのは、一軒の何の変哲もない家だった。それこそ「ここには偉大な人物が住んでいる」と言われなければ、他の家と全く同じに見えるような。
どこからどう見ても、変わったところのない家だった。強いて言えば、窓が一つも開いておらず、カーテンもされている、といったところだけが妙に思えるが、家庭や生活の事情はそれぞれにあるだろうから、そう珍しくはない。
そこは静かな住宅街で、星油の街灯こそ輝き、火の街灯と共にあたりを明るく照らしているものの、人の気配らしいものは薄かった。
「アーディ! アーディいる?」
子供達の一人が声を響かせると、やがて、目の前の家からがたがたと音が聞こえてきた。果てに扉が古めかしい音を立てながら開く。
「やあ子供達! 今日はどうしたんだい、また私の懐かしくも素晴らしい旅の話を聞きに来てくれたのかい?」
扉が開いて現れたのは、人のよさそうな笑みを浮かべた、初老の男だった。確かに歳をとっているように見える。顔には皺を刻み、頭髪にも白髪が目立ち、加えて薄くなり始めている。それでもどうしてだろうか、不思議と若々しく見える男だった。
ただ、変わったところはそれだけで、あとは何もおかしなところは見当たらない男だった。逞しい体つきであったのなら、偉大な旅人だった、という話にも納得がいくが、そうは見えない。
「そうだよ! アーディ、話を聞かせてよ!」
「おお、こらこら……それじゃあ今日は、何の話をしようか……」
アーディが現れると同時に、子供達はまさに英雄を目の前にしたかのように、彼に群がっていた。ジェラームの手や服を引っ張っていた子供達も、その手を放してアーディの元に集まる。
そんな子供達を前にしていたからだろう、アーディはジェラームに、最初気付かなかったのだ。
「そうだ、ちょうど歌う花が咲き誇る街で手に入れた花弁を、整理していたところなんだ。今日はその話にしよう……」
「歌う花? なにそれ! まだ聞いたことのない話だね!」
アーディの明るい声に、歓声が重なる。アーディは頷けば、ひと呼吸おいて。
「……普通、植物は喋らないし、音も出さないだろう? でも、私が昔訪れた街では、ラッパのような花が、常に歌い続けていたのさ。いやあ、最初はびっくりしたよ、街に近づくにつれ、様々な歌声が聞こえてくるんだから」
騒がしかった子供達は、アーディの言葉が始まったのなら黙り込んでしまう。そうして語られるアーディの過去の旅は幻想的で、ジェラームには――語り部のように見えた。
まさしく、自分で作った物語、あるいは語り継がれる物語を語る、その人のような。
ジェラームの手には、スケッチの道具があった。子供に引っ張られるままここに来てしまったため、手にしていた仕事道具も、そのまま持ってきていたのだ。
自然と、まずは簡単に、アーディと子供達の姿を描く。それから、アーディの語る旅物語を、頭の中で想像して描いてみる……。
――いくつもある大きな花から、様々な音楽が鳴り響く街。長いこと旅をして様々なものを見てきた身として、やはり思う。
あり得ないだろう。
それにあのアーディの様子。大袈裟にしているかのような話し方。
「――それで、時に花達はケンカするんだよ。それが不協和音で、もう耳を塞がないとやっていられなくてね……って、おや?」
アーディがジェラームに気付いたのは、意気揚々と彼が語り始めて、しばらくしての頃だった。
「……君、は……街の人では……ない、ね」
すう、とアーディの顔からわずかに血の気が引くのを、ジェラームは見逃さなかった。
ほんの少しの変化だった。それを、帽子の影の下にあるジェラームの瞳は、確かに捉えた。
「いやあ挨拶が遅れた。俺はジェラーム。昨日、この街に着いた旅人でねぇ……」
帽子を一度外して、ジェラームは首を傾げるようにして挨拶する。
対してアーディは、驚いたように――あるいは焦ったかのように苦笑いを浮かべたのだった。
「おお、おお……全然気が付かなかったよ。そうか、珍しいな。君も、旅人か……」
「このおじさん、アーディのこと知らないんだって! アーディってすごい旅人だったのに! だから、アーディのところに連れて来たんだ!」
子供の一人が無邪気に声を上げる。
「それは嬉しいことだなぁ。私はいろんな旅をしてきたから、この旅人さんの参考になる話もできるかもしれないが……」
ところが、アーディの目は泳ぎ続ける。果てに、わざとらしくはっと家の中へ振り返ったかと思えば。
「おっと! そろそろ紅茶を飲む時間だ……前に話しただろう? 決まった時間に紅茶を飲むしきたりがある街の話を。あれはいいしきたりだからね」
「あれ? それっともっと遅い時間じゃ?」
と、子供の一人が首を傾げる。すると、別の子供が顔を歪めて、
「えっ? 違うよ! もっと早い時間だったよ!」
そうして子供達はわあわあと声を上げ始めるが、アーディは「時間がずれることもあるさ」と微笑み、そのまま家の中に帰ってしまった。開いた時こそ大きな音を立てていた扉だが、閉まる際はひどく臆病にも思える様子で閉じていった。
「話の途中だったのに!」
ジェラームの手を引っ張りここまで連れてきてくれていた子供が、残念そうに頬を膨らませた。
「そうだなぁ、面白そうな話だったのになぁ」
ジェラームも描きかけの絵を片手に、アーディの家を見上げる。
窓は閉じたまま、カーテンにも開く様子は一切なかった。




