第十二話(04)
* * *
「この街、なんか危ないの?」
交換屋を訪れた際、そっと店主に聞いてみた。年老いた老婆の店主は、微笑みを崩さなかった。
「星油がねぇ、持たないのよ」
「何度か汲みに行ったけど、そんな様子はなかったねぇ」
「いまはまだねぇ……でも予測だと、もう数年しか、持たないのよぉ」
だってこの街、と老婆は窓の外に視線を向ける。
「星油、たくさん使うからねぇ。生き物がたくさんいるんですもの」
そうそう、と老婆は立ち上がったかと思えば、店の奥から小瓶いくつかと、小さな包みを持ってきた。小瓶の正体は絵の具であり、小さな包みを開けば、新品の絵筆が現れた。
「よかったら、これも持って行ってちょうだい。まだ先だけど、街がなくなる前に、こういうものはあなたに持って行ってもらった方がいいわぁ」
その後、ジェラームは一度宿屋に戻って荷物を置き、絵描き道具を手に持てば再び街に出た。今日も何かしらの動物を描く予定だった。この街を出る日程を決めたのだ、それまでに後悔しないように見て回り、描かなくてはならなかった。
けれども、どうにも、気分が乗らなかった。
周囲は賑やかだ。様々な動物の息づかい、生活の気配がある。
こんなにも命に溢れているのに、ゆっくりと終わっていくなんて。
寂しさや哀愁を感じているわけではなかった。ただ強い違和感に悩んでいた――動物達には、何もわからないからだろうか。
そうぼんやり歩いているうちに、ふと、目に留まる。空のケージが。かつてそこに、何の生き物がいたのかもわからない。ただ土の地面には何もなく、長らく放置されているのだと察せられる。
さらに進めば、そんなケージがほかにも、ぽつぽつと。街の外側に近づくに連れ、増えていく。
「……眩しい光ばかり見てたもんで、気付いてなかっただけかぁ」
ついに街の出入り口までたどり着き、ジェラームは一人言葉を漏らす。
――そこには、人間数人と、引き綱をつけられた鹿の親子がいた。
「それじゃあ、元気でな……向こうの街でも、うまくやっていけよ」
一人が、引き綱を握る一人に声をかけ、また鹿の親子の頭を撫でる。いままさに旅立とうとしている一人は、少し不安そうな顔をしていたものの、鹿の親子を見れば凛とした表情を作り、口を固く結んだ。そして見送りの人々へ、街へ、頭を下げれば、門をくぐって外の暗闇へと歩き出す――戸惑うばかりの鹿の親子を連れて。
遠のいていくその姿。暗闇に消えていく命。果たしてトンネルの向こうに無事にたどり着けるのだろうか。ジェラームはその場に座り込めば、すぐさまスケッチの道具を取り出した。
この姿を、この時を描いておきたかった。
出入り口に集まっていた人々はやがて去り、それでも次の計画を口にしている――次はあの動物を、あの街に。受け入れてくれるかどうかは、わからないけれども。
「そういえば、別の街にいった小鳥達は無事に到着したって、旅人から聞いたよ」
「あっちの街にいったはずのトカゲ達は……その街からきたはずの人から、話を聞けなかったよ……そもそもトカゲの話自体、聞いてないって……」
星油の光の街灯の下、人々の影が長く伸びている。
街の外へ進んでいったあの小さな光も、いつの間にか見えなくなってしまっていた。
闇の先も、未来も、同じだ。何一つ、予想ができない。
「そういやさぁ」
闇の中に消えていったモデルを、それでも眺めつつジェラームは口を開く。
まだそこに、見えていた。見える気がしていた。そういうものを見ることが、得意だから。
それはさておき。
「お前はどうするの?」
顔を上げれば、そこにユイグがいた。狼の瞳は、ジェラームの描いたスケッチに向けられている。
今日は口を開くことはなかった。と。
「――ユイグは、どこにも行かないよ」
「……嬢ちゃん、なんかいっつも慌ててたり、走ってたりしない?」
走り疲れたのだろうドリスが、ふらふらとやってきた。ポニーテールはすっかり乱れている。額には汗を浮かべていた。
こうもユイグに振り回されていると、ジェラームは気の毒に思えてきた。それでもドリスは、ユイグに文句一つも言わずに、街の外の闇に目を向けた。
「……今日は南の鹿の親子を外に出すって聞きました。見送ったんですね?」
ドリスの言葉に「この通り」とジェラームはスケッチを見せる。するとドリスは一瞬寂しげに眉を寄せて、だがきりりとした表情に戻る。
彼女も街の状況をわかっている。ましてや、動物の世話をする仕事を持った人間だ。
その表情に、振り回されてひいひい言っているだけの娘ではないのだと、ジェラームは改めて思う。
「どうしてこの街があと数年しか持たないのか聞いたよ。星油、このままだと枯れるかもしれないんだってなぁ」
「……星油が完全に枯れる前に、この街にいるたくさんの動物を、ほかの街に向かわせなくちゃいけないんです。そうしないと、みんな死んじゃうから」
ドリスの瞳は、闇に向けられたまま。そこに何が映っているのか、ジェラームは覗き込む。
「……着いた先で受け入れられるかわからないし、そもそも無事にたどり着けるかわからないんですけどね」
彼女の瞳は、すぐにユイグへと向けられた。優しく、細くなる。
「でもまあユイグには……そんな心配はないです。ユイグはどこにもいかないので」
「街、数年以内に終わるなら、いない方がいいんじゃないのぉ?」
ドリスの瞳に、不思議な色が浮かんでいた。
寂しさと、諦めと、それから、それらとは全く違う強い色。
彼女の手がユイグの毛皮を撫でれば、その色がより濃くなり、ほかの色を呑み込んだ。
「……フェプニルの寿命は短いんです。ユイグは……この街と一緒です」
澄んだ意思だけが、そこに残っていた。
「だから危険な旅をさせるより……生まれ育ったここで、最期まで過ごせた方がいいと思うので、そうするんです」
しゅふぃん、とユイグが鳴いた。湿ったマズルをドリスの頬に押しつける。ドリスはそのくすぐったさに笑いながらも、芯のある声で続けたのだった。
「たとえ、ほかのみんなが出て行ったとしても。私も残りますから」
非常に危険な判断だと、思う。
そしてそれが本当にユイグのためになるのか、わからないというのに。
……どことなく、利己的だ。
利己的で、献身的。
それでも、嫌いではないな、とジェラームはスケッチブックを一枚めくる。
「わがままだねぇ」
「わがままですよ。ユイグだって……興味本位で生み出してしまったわけですし。だから、最期まで面倒を見るんです」
笑う彼女の、その顔に。
責任感というよりも、もっと温かなものが見えた。
――スケッチブックに、線を走らせる。
「あっ、ジェラームさん! ユイグのこと、描いちゃだめですよ! また期待させちゃったら……」
「はいはい……期待させちゃったら、ユイグのこと大好きな嬢ちゃんが失恋しちゃうってことね」
「そういう意味じゃないです!」
笑いながら、ジェラームはコンテを動かし続けた。やがてドリスがユイグを連れて去っても、ジェラームはそこに残った幻を描き続けていた。
* * *
ジェラームが旅立ちの日を迎えたのは、それから数日後のことだった。
「……少し描きすぎたかな」
できあがった絵をまとめれば、この街に来たときよりも、明らかに荷物は増えていた。しかしここで描いた動物の絵というのは、ほかの街で間違いなく高い価値がつく上に、動物について世界に広めてやれるのだからいいだろうと、その重量を覚悟する。
動物について世界に広めること……特にいい人間になりたいわけではなかったが、その方がきっと、世界はおもしろくなる。そんなことを、ジェラームはぼんやり考えていた。
宿屋を出て、大通りを進む。荷物のあまりの重さに、なんだか「牛」になったようだと考える。こうも歩みが遅ければ、次の街への日数もかかりそうだが、仕方がない。
そんな重い荷物を背負った中でも、ジェラームは最後に、寄り道をする。
「やぁ、別れの挨拶の一つでもと思ってな……いや、今日は普通にここにいてよかったよ」
向かったのはユイグのケージ。幸い、ユイグはそこにいた――相変わらず、ケージの外に出ていたが。
そして隣にはドリスの姿もあって、ジェラームを認めれば顔を輝かせた。
「こんにちは、ジェラームさん! 聞いてくださいよ、今日……ユイグがどっかに行っちゃう前に捕まえたんです! いつもはいなくなった後に探し回るんですけど……でも今日は、ユイグが飛び出した後に、すぐに気付いて捕まえたんです! すごくないですか!」
興奮した様子の彼女は、まるで子供のように両手をぎゅっと握っていた。そこでようやく気付く。
「それでジェラームさん、えっと、今日は何でしょうか? ていうかその荷物……あっ」
「うんうん、この街をもう出るからねぇ、別れの挨拶をしにきたのよ」
不意にドリスの表情が曇る。隣にいるユイグは、何の会話をしているのか分からない様子で、ドリスとジェラームの顔を見て、トカゲの尻尾を振る。そしてまるで催促するように八本の馬の足をぱからかと鳴らした。
そんなユイグの頭を、ジェラームは撫でて。
「あと一つ謝らなくちゃいけないことがあってねぇ……また描いちゃったぁ、ユイグ。我慢できなくて」
「――描かないでくださいって、言ったじゃないです」
とたんに、ドリスの目つきが険しくなる。
「それ、今すぐ破いて捨ててもらえませんか? 正直……街の外の人に『フェプニル』という生き物について知られるのが怖いんです。まじめな人もたくさんいますが……命はおもちゃじゃないから」
以前完成させたユイグの絵は、すでにドリスに引き取られてしまった。その後、その絵をどうしたのか、ジェラームは知らない――今し方、彼女は「破いて捨てて」と願ったのだから、もしかすると、あの絵はすでに破棄されたのかもしれない。
それは少し悲しく思えるが、絵のモデル、その主のやることなら仕方がないと受け入れる。
――それに、次の絵は、きっと、そうはならないから。
「じゃあご自分でどうぞぉ?」
うっかり描いて完成させた絵を、ドリスに渡す。小さな絵だった。まるで手紙のような大きさで、しかし様々な色に満ちた絵。
その絵を見た瞬間、ドリスの目が丸くなる。それを見て、ジェラームはにやりとしてしまった。
ジェラームが渡したのは、確かにユイグの絵だった。
――ユイグと、ドリス。一体と一人が仲良く寄り添っている絵。
「あんたさぁ」
絵を手にし、黙ったままのドリスを前に、ジェラームは帽子を被り直す。
「ユイグの面倒見終わったら、どこに行くか決めておけよぉ? うっかりそのままなんてことになったら……そいつ、泣くぞ」
それでもドリスは黙ったままで。
――小さな「ありがとう」が聞こえたのは、それからしばらく経ってのことだった。
街灯の星油の光が、静かに揺れている。一瞬消えかけたその光は、けれども燃えさかり、輝きを保つ。
「その絵は煮るなり焼くなりどーぞ」
ジェラームは最後に、ユイグの頭をぽんぽんと撫でた。
「……お前さん、あんまり嬢ちゃんを困らせるんなよぉ、嫌われるぞ」
そうして、画家の旅人は歩き出す。通りを進み、出入り口を目指し、門を潜れば――暗闇へ消えていく。
星油ランタンの光で周囲の闇を照らしつつ。
その瞳で、光の届かない暗闇を見据えつつ。
――ドリスはその絵を、ユイグに見せるわけにはいかなかった。
ただそれが悔しくて、目に涙を滲ませた。
この思い出を共有することはできないから。
ユイグはきっと、描かれた自分を自分と認識できないから。
「……ねえユイグ」
だから尋ねる。
「あなたに仲間はいなくて、ひとりぼっちで、おまけに寿命も長くなくて……それでも、いままで、楽しかった?」
ユイグに、そこまでの知能はないだろうとわかっている――生まれたことを後悔するなんて。
――狼の頭と胴、八本の馬の足に、トカゲの尾を持つ奇妙な生き物は、しゅふぃーんと鳴いて返事をした。
「……これからも、楽しくするからね」
その毛皮に抱きつく。少しだけ、涙を吸わせた。
【第十二話 黄昏神話 終】
 




