第十二話(03)
* * *
ジェラームがこの街に来て、七日を迎えた。
観察用スケッチブックは三冊目に入った。描き上げた絵も二十を越えた。十分すぎる成果だった。
「……そろそろ暗闇が恋しくなってきちゃったなぁ」
どこからともなく、時計の鐘の音が聞こえる。おそらく、この宿屋の玄関にあった柱時計だろう。朝を告げている。
宿屋の一室。ベッドの上、寝癖をかきむしるように治し、ジェラームはあくびをする。
「ここ最近、ずっと頑張ってお絵描きしちゃったし……次の街のこと考えないとかねぇ」
朝の涼しい風が、カーテンを揺らしていた。昨晩部屋に漂っていた絵の具のにおいはもうなく、完成させられたユイグの絵が、机の上に立てかけられていた。
その絵の、前に。
「……で、お前、結構身体でかいのに、どうやって窓から入ってきたんだ? 窓からだよなぁ、さすがに扉開けて来ました、なんていったら、宿屋の主人も気付くだろうし……気付かないかなぁ?」
どうしてか、あの狼と馬とトカゲを混ぜたような生き物が、座り込んでいた。「しゅふぃっ」と、鼻を鳴らすように返事をする。
幸い、ユイグは部屋の中を荒らしてはいなかった。部屋はきれいに整ったままで、ジェラームの荷物や仕事道具も、昨晩のままだった。そもそも荒らしていたらさすがに起きるか、と考える。けれども、侵入されたことには起きるまで気付けなかったし、一体どこから入ってきたのか。やはり窓か。
「自分の絵を見に来たってわけか? お前、無邪気だねぇ。いや普通に朝起きてそこにいるのは怖かったけど」
寝ぼけているのかと、二度寝したほどである。再び目を覚ましても、ユイグは確かにそこにいた。ジェラームがベッドから抜け出し、ユイグの頭を撫でてやれば、確かに温かかった。
朝食をもらいにいく前に、こいつを外に出すか、と考えている最中だった。
「――ジェラームさんっ! 起きてますかっ!」
どたどたと、廊下を駆けてくる足音がしたかと思えば、激しく扉が叩かれる。
「あのっ! ユイグ……もしかして、そこにいますかっ!」
「――この野郎、夜這いしやがったぞ……嘘嘘、変なことは起きてない。いや俺が起きたらいつの間にか部屋にいた」
扉を開ければ、顔を赤くするほどにひどく慌てたドリスがいたため、ジェラームは慌てて冗談を正す。息せき切った彼女は、ユイグの姿があることに気付けば、ジェラームの許可なく部屋に入った。
「ユイグ! お前ったら、本当に……」
ドリスを認めれば、ユイグは立ち上がった。と、ドリスは気付く。ユイグの前にあったものに。
「……ユイグの、絵?」
間をおいて、少し息を落ち着かせた彼女は、その絵を手に取る。どうしてかユイグが「しゅふぃーん」と嬉しそうな声を上げた。
「どう? そいつ、これを見に来たみたいだ……」
ジェラームは靴下を履きながら答える。旅立つ前にまた衣類を洗濯するか、とぼんやり考えていた。
ドリスはユイグの絵を手に取ったまま、動かなかった。ユイグもドリスのそばから動かず、絵を見ていた。
階下から宿屋の主の声がする――ドリスさん、ユイグはいたかい、と。
ドリスは返事をしなかった。まるで時を忘れたかのように、動かなかった。
「嬢ちゃん、そろそろ、そいつ連れて部屋から出てほしいなぁ」
くしゃくしゃに丸めた服を広げながら、ついにジェラームは言った。
「じゃないと俺、着替えらんないよ……振り向かないって約束してくれたら、着替えちゃうけど」
それでもドリスは動かない。ユイグの絵を、見つめたまま。
「もしかして、それ、ほしい?」
にや、と、ジェラームは笑う。
「なかなか、うまく描けたと思うんだよね、俺でも。よかったらあげるぜ。代金はいらない、ただその代わり、新しくユイグの絵を描くけど」
そこまで言ったところで。
「――ジェラームさん」
「うーん?」
「……ユイグの……いいえ、フェプニルの絵を描くの、やめてもらえませんか?」
ぴたり、と、ジェラームが動きを止める番だった。そしてドリスが時を取り戻したように振り返る。
その表情は、悲しさというよりも、やるせなさに染まっていた。彼女の手が、まるでユイグを慰めるかのように、その頭に置かれる。そして絵を裏返して、壁に立てかけた。もう描かれたフェプニルの姿は、見えない。
「この子は……どうやら、あなたの描くフェプニルに惹かれているようだから」
それはつまり、それほどに絵の出来がいい、ということだろう。
けれどもどうして「描くな」と言われる。
怒りはなかった。ただ不思議で――その向こう側にある何かを見ようと、ジェラームは首を傾げた。
「――この子は、同じフェプニルの仲間がいないから。絵のフェプニルを、仲間だと思ったところで……」
――なるほどね。
ユイグは、自分の描いたフェプニルを「本物のフェプニル」だと勘違いしている。だから絵を追って、それを持っている自分のところまで来たのだ。
しかしそれは、きっと、よくないことだから、と。
――これは本物ではない、絵だ。
「虚しくなるだけってことね……」
絵は絵でしかない。反応しない。温かさもない。
人間であれば、たとえ絵であっても「絵であるから」とわかっているために、慰めにはなる。
けれどもユイグはきっとわかっていない。これがただの、線と色で作られた平面の虚像だと。
ドリスは静かに頷いた。
「ユイグ……あなたの描いたフェプニルに向けて、口を大きく開けてたでしょう? あれ、文献を調べたら、どうやら求愛行動らしいんです」
「……絵の中の美人さんに恋しちゃったってわけかぁ」
人間だったのなら、笑い話にしてもよかったかもしれない。
しかし相手は動物だ、残酷なことをしてしまったかもしれない。
……ユイグは何もわかっていない顔で、ドリスを見上げていた。
「フェプニルは、生殖ができない存在なんです」
不意に彼女は言う。その手はユイグから離れない。少し強く毛を掴むように、手に力が入っていた。
「この子が生まれたときのように増やしたところで……家族はできないですし、最後には、孤独しかないんです」
最後に孤独なのは、みんな一緒かもしれない。
そう思ったものの、ジェラームは黙っていた。
人間の孤独と、このフェプニルという動物の孤独は、多分違う。
「とにかく……とにかく私は、ユイグにほかのフェプニルに興味を持たせるのが、辛いんです」
ようやくドリスは微笑みを取り戻した。ポニーテールが儚げに揺れた。
「動物は、同じ仲間と群れて暮らす。それは私達人間も……でもフェプニルは」
この街にはフェプニルを生み出す技術がある。けれども、だからといって、簡単にユイグの仲間を作るわけにはいかないのだろう。
フェプニルは何も残せない。記憶に埋もれてしまえば、全てがなくなる。
ドリスの瞳が、まっすぐにジェラームに向けられる。
「ジェラームさん、どうか、もうユイグを描くのをやめてもらえませんか?」
ジェラームは目を瞑った。悩んだわけではなく、全てを受け入れるには深呼吸と少しの間が必要だった。
そういうことか、と。
やがてジェラームは頷いた。すると、ぱっと明かりがついたかのような笑みを、ドリスは見せてくれた。
「代わりに、ほかの動物ならどんどん描いてもらって構わないので! むしろ描いてください! それでほかの街に持って行ってください! そうすれば……この街も、多少は救われるだろうから!」
「……ん?」
唐突に紡がれた意味深な言葉に、ジェラームは首を傾げる。
――窓の外、輝いていた星油ランタンの街灯一つが、ふと消えてしまった。
慣れた人間が見れば、理由がわかる消え方だった。燃料となる星油が足りていなかったのだろう。
ほんの少し、街が暗くなる。
「この街、数年後にはなくなるんです」
――階下から、再び宿屋の主の声がする。ドリスを心配した声だった。我に返ったドリスは「大丈夫!」と叫び返しそれからジェラームに頭を下げると、ユイグを連れて部屋から出ていく。
「ごめんなさい! ユイグ、やっぱりここにいたわ!」
「ええっ? どうやって部屋に入ったんだ……ていうか旅人さんは?」
「ジェラームさんなら大丈夫!」
そんな明るい声が廊下で響いている。
街の終わりを知っている者の声とは、思えなかった。
まるで今のが幻聴のように思えた。
机の上には、様々な動物の絵。スケッチブックには、多くの動物のスケッチ。
人間も、動物も、こんなにもいるというのに。
 




