第十一話(04)
* * *
ようやくジェラームが灯りをつけていいと言った。一体、どれくらい暗闇に閉ざされていたのか、わからない。
やっと暗闇を払えるものの、依頼主の男は、すぐに光を取り戻せなかった。普段から使い慣れ、それこそ暗闇の中でも火を灯すこともできるほどの慣れているだろうと思った星油ランタンの扱いに、手間取ってしまった。長いこと暗闇の中にいたとはいえ、その闇に目が慣れることもなかった。手で探る中、ようやくマッチに火がつき、ランタンに火が入れられる。白色の灯りだった。かつて空にあった太陽の色。昼間を告げる色。
男がジェラームを見れば、彼は黙々とコンテを動かしていた。台座の上には、顔を腫らしたカリーナの遺体が変わらずそこにある。まるで一瞬の悪夢を見ていたかのようだった。
少し席を外すと言って、男は一度地下室を出た。一階へ戻り、冷たい水を身体に流し込む。その時に時計を見た。針は、ジェラームを家に迎えてから、たいして時間が経っていないことを示していた。一時間も経っていない。それでもあの暗闇の中に、何時間も、いや何日もいた気がした。
男が地下室に戻れば、ジェラームがどうしてか片付けをしていた。
「今日はこれで十分だ……完成まで数日かかる。もうしばらく待ってくれ。あぁ、それと、またちょいちょいカリーナに会いに来るけど、いいかなぁ?」
その日、ジェラームは宿屋に帰った。
絵が完成したのは、数日後だった。それまでに、ジェラームは言葉通り、何度かカリーナに会いに来ていた。そのため、その日もカリーナに会いに来たのかと、依頼主の男は玄関の扉を開けたが。
「やぁ、待たせたな」
ジェラームが持っていたのは白い布にくるまれた、平たい何かだった。彼は家に上がり込むこともなく、その場で布を取り払う。
現れたのは、額装された絵。シンプルな仕立てだった。
その窓の向こうで笑っているのは。
「――カリーナ……」
男から出たその声は、感嘆のものとは少し違っていた。
まさに絵の中の人物に呼びかける、生きた人間への声だった。震える手が伸ばされる。
描かれていたのは、一人の美しい娘だった。少し恥ずかしそうだが、確かに外の世界へ微笑んでいる。病に冒された様子はどこにもなく、まるで寄り添うかのような優しさを秘めている。依頼主の男にかすかに似ていた。絵の具で描かれた瞳には、あたかも絵を見る人間が映っているかのようだった。
ジェラームはそっと、完成品を男へ手渡した。男は息を止めているかのように声も出せない状態で、けれども悲壮に濁っていた瞳に、小さな輝きが反射する。涙が頬を伝い始める。
「カリーナ……ああ、間違いない……」
と、我に返って涙を拭う。毅然とした表情が現れ、ジェラームを見据える。
「……報酬は倍払おう」
「んいや、いいよ。絵の具代とその額の分だけちょうだい……その絵の色、この街で得られるものだけで描き上げたんだぁ」
ジェラームがそう答えれば、男は再び『彼女』と見合う。
「この街で生まれ育ったんだ、その方がいいかなぁと思ってな……いい依頼だったよ」
心なしか、男には、額の中の娘がより笑ったように思えた。星油ランタンの街灯の光に照らされ、笑顔はきらきら輝く。その様子に、昔のことを思い出す。まだ彼女が顔を失わず、元気に街を歩いていた時のことが。
まるで、彼女が再び街を歩けるようになったかのようだった。そんな幻を、見る。
それにしても。
「あんた……まるでカリーナに本当にあったかのようだな。間違いなく……これはあの子だ……」
描かれた娘は、間違いなく、男の記憶にあるかつてのカリーナだった。
――それをどうして、ジェラームが描けたのだろうか。
この街に初めてきた旅人である彼が。
「会った気分にはなったかなぁ」
ジェラームは帽子を被り直しながら答える。顔に影が落ちる。そこに星油ランタンの街灯の光は届かない。
「見えないものを見るのは好きでね……」
その言葉に、あの暗闇の地下室を思いだし、男は瞬きをする。
あの時の黒色が、寒気が、言葉にできない何かが這い寄ってきたような気がした。
「まあ全部見えるわけじゃないけどなぁ」
と、旅人の画家は、だらけたような溜息を吐く。
「そんじゃ、報酬をいただこうかなぁ」
* * *
ジェラームがその街を旅立ったのは、カリーナの肖像画を渡した、次の日だった。
街の外へ一歩進めばそこは闇。星油ランタンの白い光が、何もない世界を照らし出す。
「懐かしい感じがするなぁ、やっぱり」
画家はほかの旅人と同じように闇の中へ進んでいく。遠のいていく街の光を気にせず、小さな光を片手に携えて。
闇の中では何もわからない。昼か夜かすらも、星油ランタンでないとわからない。
音もない。時折吹く風も、気のせいかと思えてしまう。あたかも無に溶け込んでいくかのような旅。
それでも足は次の街を目指す。
やがて星油ランタンの光が黄色を帯びてくる。ついに月色になりかけ、夜を迎える。
見回せば周囲に光は一つもなく、世界は星油ランタンの照らす小さな範囲だけになっていた。
焚き火の準備をするか、とジェラームは座り込むが。
ああ、飯の前に、絵を描くか。
荷物を置く。絵の具を並べる。筆を出す。紙を取り出す。
闇を見据える。微笑む。
手が星油ランタンに伸びる。たった一つの小さな火を、吹き消す。
――暗闇が群がりあたりに満ちた。すべてが闇に呑まれて曖昧になり、消えていく。
完全な闇の中では、何もかもが消え失せる。
それでもジェラームは微笑んだまま、闇を見据え続けて。
――手が動く。闇の中に浮かぶものを、描いていく。
何もない。何も見えない。だが確かに、何かがある。
それを、描いていく。忍び寄る何かに心臓を掴まれても。闇に肺の中を満たされても。
闇の中でも絵の具を使う。何の色も見えない。それでも色を取り、紙の上に乗せていく。
筆を動かす音と、自身の乱れた呼吸だけが聞こえる。
果てにジェラームは大きく息を吸って。
ついに星油ランタンを掴む。マッチをとって、闇の中でも、焦ったような手つきでも、さっと火をつけ、ランタンに再び光を灯す。
――月色の光に包まれた世界が、帰ってきた。
ジェラームは額の汗を手で拭いながら、己が描き上げた絵を見つめていた。
「……いいねぇ、我ながら、いい出来だよ」
彼の膝の上にあったのは、永遠に続くかのような、真っ黒な絵だった。
【第十一話 淵に立ち臨む 終】




