第十一話(03)
* * *
「どうやって描く?」
「あんたが頼んだのにそう聞くんだぁ」
椅子に座り足を組んだジェラームは、下書きから顔を上げると、どこか横柄そうな態度で首を傾げる。
「以前、街の画家に頼んだことがあってな。彼はまだ元気な頃のカリーナに何度か会ったこともあったが……描けなかったんだ」
依頼主である男は、まるで見張るかのようにジェラームを睨み立っている。星油ランタンの火が揺れると、深い闇色の影が笑うかのように揺れた。
ジェラームは微笑めば、下書きに視線を戻した。下書きの線は細く、薄く、まるで煙のようなものが描かれている。
「そりゃあ、中途半端に見たものを描こうとしたからだろう……逆にわからなくなるもんよ」
「……彼は人にも話を聞いて、カリーナがどんな姿だったか、描こうとしていたがな」
「そりゃあ、更にわからなくなるねぇ。なにせ人間全員が全員、同じものを見てるとは限らないだろう?」
立ち続ける男は、つと、眉を寄せる。下書きに向かっているジェラームは気付かなかった。ところで、と続ける。
「あんた、もしかしてそこに居続ける気? ちょっと集中しにくいんだが」
「当たり前だ……私の娘に何かされたら困る」
それ以降、ジェラームは何も言わなかった。ただあたかも柔らかな羽毛で撫でるような手つきで、薄い線を描き、人物画の下書きを作っていく。
冷気が暖まることは一切なく、室内の空気はまるで二人を閉じこめようとするかのように冷え込んだままだった。さりさり、というジェラームがコンテを滑らせる音だけが世界の音だった。時折音はやむ。かと思えば、寝付きの悪い子供が生み出す衣擦れの音のように、また奏でられる。
――やる気はあるのだと、依頼主の男は認めた。ただ、下書きを見て、またカリーナを見る画家の瞳に、感情らしいものが見えないのが、どうしてか不穏に感じられた。そこには悲壮も使命感といったものもなく、まさに「見ている」という具合だった。
けれどもしばらくが経ち、ジェラームが初めて目元をひくつかせた。彼は静かに立ち上がったものの、急な動きに、男は少し驚く。ジェラームは気にせずカリーナまで歩み寄れば、腫れたその顔をじっくり眺めて、椅子に戻る。そしてまた下書きを進める。
それを数回繰り返した後だった。ジェラームのコンテの音が完全にやんだのは。
ジェラームは変わらず足を組んだまま、下書きを眺めていた。納得がいっていないのか、それとも。
冷えた中、依頼主の男は冷えた自身の手を握りあわせて温め待つ。だがジェラームの手は動かず、まだ燃料が十分にあるはずの星油ランタンが、催促するかのようにじじ、と声を漏らす。
「……やはり、難しいか」
やがて、男は頭を横に振った。ジェラームの停止は、明らかに不可能を前にしたものだった。
ところがジェラームは返事をせず、黙って下書きを見つめ続けている。手は動かない。表情を見ようにも、帽子を目深に被っているためによく見えない。
もしかして、と思う。
「……まさか眠ってるのか?」
男は怪訝に目を見開いた。対してジェラームはやはり動かない。
部屋にたった一つある明かり、星油ランタンの光が、揺れる。冷気は少しも揺らめかない。
依頼主の男は、そっとジェラームに歩み寄る。もし本当に眠っていたのなら、追い返そうと心に決めて。
だが、その顔を覗き込んで、思わず息を呑み、一歩退いた。
――ジェラームは眠ってはいなかった。目深に帽子を被ってできた影の中、瞳はまっすぐにカリーナを見つめていた。
その瞳に宿る、どこか飢えた獣を思わせるような、あるいは遠くまで見透かしているかのような、ぎらついた輝き。
「あんたさぁ」
そして不意に口を開くものだから、男はまた一歩下がってしまった。ジェラームは気に留めることもなく、瞳もカリーナから離さず続ける。
ジェラームはコンテを握り直していた。
「星油ランタン……消してくれ、明るすぎるんだ」
男はすぐに答えられなかった。
この部屋にある明かりは、星油ランタン、それだけだった。その光は決して強烈なものでない。温かく優しい光を放っている。
「この光を消せというのか?」
思わず指さした。すると、ゆっくりとジェラームが頷いたものだから、男はかすかに声を荒らげ始める。
「何を言っている。真っ暗になってしまうぞ」
お前は気でも狂ったのか、という言葉を呑み込んで。
しかしジェラームは。
「見えないものを見るためには必要でね」
その言葉に、他人をからかっている様子は一つもない。むしろ真剣で、だからこそより室内が冷えたように男は感じた。より冷たい何かが、その声に含まれているように思える。
男はしばらくの間、迷った。断ろうにも、あたかも見えない何かが言葉を封じている錯覚に陥っていた。やがて難しい顔をしながらも星油ランタンへ向かい、手を伸ばす。その手は寒さにか、震えていた。けれども星油ランタンの明るくも小さな火に、息を吹きかけた。
たちまち暗闇が部屋を満たす。のしかかってくるかのような暗闇だった。何も見えない。心なしか、冷気の鋭さが増す。
地下室は井戸の底になってしまったかのようだった。あるいは街の外のようにも思えた。
「これで……これでいいのか……?」
男は自分でも何をしているのかわからなくなっていた。光を消してしまったいま、当たり前のように何も見えない。暗闇に、息が詰まる。
ジェラームからの返事は何もない。仕方なく、男は彼がいたはずの方を見つめるものの、やはり何も見えない。我に返ってランタンに火を灯し直そうと、手探りでマッチを取り出し、ランタンに触れる。
何か、よくないものがこの部屋にいる。そんな気がしていた。
たとえ何も見えなくとも、星油ランタンは生活に欠かせないものであり、日常で使っているもの。暗闇の中でも問題なく火を灯すことができる――そのはずだったが、手が震えてしまってうまくいかない。ホヤを上げるレバーがどれだかわからない。開いてしまったマッチ箱から、マッチがぽろぽろと零れ落ちる。闇に呑まれて消えていく。
「おい、お前! 聞こえてるだろう? そこに、いるんだろう!」
苛立ちと恐怖に、ついに声が出た。
「一体、何を考えて――」
声はそこで、止まってしまう。何故なら。
――暗闇の中、コンテが紙の上を滑る音が聞こえる。
迷いなく。確かに何かを観察し、描いているかのように。
――ジェラームは暗闇の中を見つめていた。
そこはカリーナが横たわる台の上。
台の上には、上半身を起こした人影が、一つ。
もう息をしていないはずの人間が、起き上がっていた。
それはジェラームにしか見えない、幻だったものの。
「……よおカリーナ。あんた結構美人だな」
起き上がった女の顔は、よく整っていた。依頼主の男に似ているように思える。
幻の彼女は、言葉を発することはなかった。ただ優しい微笑みをジェラームに向けていた。




