第十話(04)
* * *
全てを読むのには、時間がかかった。
それでもデューゴは、ついに白紙のページにたどりついた。
――ここには、今日、何が綴られるのだろうか。
「……どうだった?」
恐る恐る、ヘンリックが尋ねてくる。デューゴは素直に答える。
「知らないことがたくさんだったし、俺が経験してないこともたくさんだった」
ヘンリックの人生は、ヘンリックだけのものだ。
誰の人生とも違う。たとえ似た人生の持ち主がいたとしても、手記の出来上がりは、間違いなく違うものになるだろう。
手記とはその人。
人は皆、一人しかいない。
昼前に仕立て屋に来たが、星油ランタンの光を見れば、かすかに黄色を帯びていた。夜か近づいてきている。思った以上に長いこと手記を読んでいたのだと、デューゴは悟る。座りっぱなしで、少し身体が痛いような気がした。
しかしそれほどの時間、手記を読んで感じ取れたのは、ヘンリックの人生の、ごく一部に過ぎない。
「――少し、目が覚めたような気がするよ」
と、不意にヘンリックが、呆れにも似た笑みを浮かべた。茶をデューゴに出せば、正面の席に座った。
「なんていうか……手記にこだわり過ぎていたというか……立派な手記というか、特別な人生って、なんだったんだろう、って」
かすかに俯いていた彼だったが、ついに顔を上げて、正面からデューゴを見据えた。
「俺の人生は、俺の手記は……俺だけのものだったな。ありがとう、気付かせてくれて」
デューゴは微笑んで、読み終わった手記をヘンリックへと差し出した。ヘンリックは両手で受け取り、大事そうに表紙を撫でた後で、最初のページを開いた。
――手記において、最初のページの書き方は、大きく分けて二つある。一つは何をすることもなく、文章を綴り始めるもの。もう一つは、タイトルというべき文章や、誰の手記であるか、何のための手記であるかを記すもの。
ヘンリックの手記の最初のページは、白紙だった。彼はインク瓶の蓋を開ければ、ペンの先を浸す。そうして刻んだのは。
『仕立て屋ヘンリックの、代わり映えしない日々』
「……すでに俺の手記は何冊か『手記の図書館』に入ってる。『手記の図書館』に入れる時には、最初のページが完成していなくちゃだめなんだ……俺はもっといい文がほしかったけれど、いい言葉が思いつかなくて、誇れるような体験もなくて、いつも渋々、こう書いてきた」
インクが乾いてゆく。ヘンリックの手記に、存在意義とも言うべきものが、もたらされる。
「つまらないタイトルだと思ってたけど、これでよかったんだな……思えば、意味のない手記はただの墓標だって言ったけど、俺自身が手記に意味を持てなかっただけなのかも」
手記とは生きた証。生きた証とは、存在していた証明。
何者にならなくとも、何かを成し遂げなくとも、自分とは、確かにそこにいるのだ。
「……生きるって、ちょっと難しいけどさ」
デューゴはふと、自らのペンダントに手を伸ばしていた。
星油のペンダント。兄の遺したもの。
手記とは違うものの、これも一つの生きた証だ。手記のように直接言葉や想いがあるわけではないものの。
「少なくとも自分は自分で、いいんだと思うぞ?」
こうは言ったものの、まだ自分は「やりたいこと」が見つかっていない。
それでもデューゴは笑ったのだった。
――兄から「やりたいこと」の話を聞いた時。あの時得たものはきっと「自分」だったのだから。
ヘンリックから受け取った上着を身に纏えば、デューゴは仕立て屋を後にした。
自分の道を歩いていかなくてはならない。
自分が確かに進みたいと思った道を。
道といっても、まさに道なき道だ。
けれどももう、迷子ではないのだ。
* * *
「デューゴくん、遅かったね……」
宿屋に戻ると、どういうわけか、エピが少し不機嫌そうな顔をしていた。怪訝にデューゴは、思わず顔をしかめる。エピにしては、少し珍しい表情のような気もした。
「まあ色々……」
何か悪いことをしただろうか。確かに、遅くなるかもしれないとは告げていなかったし、そもそも自分もここまで遅くなるとは思っていなかったのだが。
「僕、デューゴくんが早く帰ってこないか、わくわくしてたんだよ」
「はあ……」
そんなことを言われても、意味がさっぱりわからない。
そこで不意に、エピの据わっていた目が、ぱっと輝いた。
「――はいこれ! 早くデューゴくんに渡したかったんだ! 今日はね、これを買いに行ったんだ!」
そうして差し出されたのは――デューゴの上着と同じ、赤色をした手記だった。手記と、旅人向けのペン。
言葉を失って、デューゴはそれを見つめていた。受け取ることもできず、ただ唖然とする。ようやく受け取って、手記を開けば、どのページも白紙だった。新品の手記。ペンも新品だ。
「安かったからね、いい機会だと思って、デューゴくんにプレゼント! ……あっ、安かったって言ったけど、安物って意味じゃないよ。どっちもいいものだけど、他の街で買うよりずっと安かったんだ」
「ありがとう」と言う間も与えず、エピはぐいぐいとデューゴの背を押して、机に向かわせた。そうして彼は、目をきらきらさせながら、新品の手記に初めての言葉が刻まれる瞬間を待つ。
ようやくデューゴが我に返る。
「いや俺、書くって決めてないし……」
「せっかく買ってきたのに?」
「ていうか見るもんじゃないだろ! 恥ずかしいし!」
慌てて立ち上がれば、貰った手記とペンをリュックにしまい込んだ。エピはひどくつまらなさそうな顔をしていたが、急に書けと言われても、簡単ではないし、ああも見られていると書けるものも書けない。
「まあ……ありがとうな。そのうち書くさ、そのうち」
少しの罪悪感と、少しの恥ずかしさから、そっぽ向いてしまったものの、デューゴはちゃんと告げた。
そのうち、自分も手記を書いた方がいいこと。それは十分にわかっていた。
自分が歩いてきた道を、書かなくてはいけない。自分のためにも。
――でもどうやって書いたらいいんだ!
改めてエピを見れば、いつの間にか、手記を書きはじめていた。どうも彼は、手記を書くのが好きらしい。いままであまり、意識していなかったが。
そこで、ふと、デューゴは思う。
思えば、エピのことをあまり知らない。彼が旅する理由もいまいちわからないし、そもそも彼がどこから来たのかも知らない。
……手記に向けられる、彼の緑色の瞳。それが何を見ているのか、よくわからないのだ。
自然と、彼が見つめる手記に、デューゴの視線も移る。
手記を読んだのならば、エピのことが少しわかるだろうか。
……自分が手記を書いたのなら、読みあおうなんて、言っていたか。
いやしかし、それは恥ずかしい。思わずデューゴは頭をぶんぶんと振った。
……それにしてもエピは、いままで何冊、手記を書いてきたのだろうか。きっと、あの一冊だけではないはずだ。
――手記が集まる街があると聞いた。文明都市。未来を作るために、過去を集めている。
もしかすると、エピの手記はそこにあるのかもしれない。いま書いている手記も、いつの日にか、そこにたどり着くのかもしれない。
自分がいつか書くだろう、手記だって。
――文明都市。そこは一体、どんな場所なのだろうか。
【第十話 やがて白紙に道は広がる 終】




