第十話(03)
* * *
――俺の人生に特別なことなんて何一つないんだ。
ヘンリックのその言葉は、デューゴが宿屋に戻っても、頭の中で妙に響いていた。
ちょうど、リュックの中身を全て出して、今日買ったものと合わせて、何がいくつあるか確認しているところだった。再びその声が聞こえてきた。
人生の、特別なこと――ぼんやりと考えながら、デューゴは床に並べた自らの持ち物を眺める。
そもそも人生とは何なのか。気付けばデューゴは、星油の入ったペンダントを、指で遊んでいた。
これは兄の形見。やりたいことがあった兄。だから、もしかすると「人生」の意味も知っていたかもしれない。もし人生とは何か、と尋ねたら、きっと何か答えてくれただろう。
兄に対して、自分は一体、何なのだろうか。かつて、やりたいこともなかった自分は、何者なのだろうか。
そう考えると……人というのはいつか「何者か」にならなくてはいけないのだろうか。それが人生なのだろうか。
「人生って……何だろうなぁ」
思わず呟いて天井を仰げば。
「どうしたの急に。お腹痛いの?」
「……お前なぁ」
机に向かっていたエピが、眉を寄せていた。
「今日のヘンリックさんのことが……妙に引っかかってな。人生って、何だろうって」
少しでもいい手記を書きたいと言っていた彼。
それはつまり、少しでも立派な人生を歩みたいという意味と同じことで。
「人って……いつか、何か立派なことを成し遂げたり、何かにならなくちゃいけないのかなって……な」
今の自分に、大きな目標や夢はない。
ただいまは、助けてもらったエピに何か礼をしたいという思いだけがある。
デューゴが自らの手元を見れば、またいつの間にか、指が星油のペンダントを転がしていた。
たった一人、生き残った自分。
自分だけが残ったのだ、ならば、何か意味のあることをしなくてはいけない。もっと人生について考えなくてはいけない――。
「僕は……そういうことは、よくわからない」
しばらくして、エピが口を開いた。
「何にならなくちゃとか、何かやらなきゃとか……僕はそういうの、あんまりないかな」
ただ、とエピはふわりと笑む。
「僕は、やりたいと思ったことをやるだけ……生きてるからどうしようとか、旅人だからどうしようとか、そういうのはあんまり考えないで。ただ、それだけ、かな」
言われてデューゴは口を閉ざす。エピは自身でそう言ったものの、まだ何か言葉が足りないような気がしているのか、かすかに首を傾げていた。それでもデューゴは、何か小さな光が見えたような気がしたのだ。
焦る必要はない。思うように生きたらいい。
生き残ったのだからこそ。
そう言われたような気がした。
「やりたいこと」があるから、いずれは何者かにならなくてはいけない、何かを成し遂げなくてはいけない、という考えになることもあるかもしれない。
しかしそれと、いまの自分の人生に対する考えは、全くの別ものだ。
自分の人生に意味を持たせるために、あるいは特別なものにするために「特別なものにする」のは、虚しいことなのかもしれない。
――エピはやりたいことで、心で動いている。
それはきっと、大事なことで……生きるということだ。
「……やりたいことねぇ」
胸につっかえていたものが、すぅ、ととれた気がして、デューゴはベッドに仰向けに倒れた。
「そういえばデューゴくんは、自分がどうしたいのか、何か見つけられた?」
と、不意にエピが聞いて来るものだから、デューゴはどきりとして飛び起きてしまった。
「君、僕について来るって言ったときに『生き残ったことを無駄にしたくない』みたいに言ってたけど……だからって、焦る必要はないと思うんだ」
「……お前への借りも返してないしな」
半ば自嘲気味、残りの半分は談笑であるかのようにデューゴが笑えば「僕は気にしてないって」とエピが言う。
「でも……僕、デューゴくんと旅をするの、楽しいなって思ってるよ……」
そうして彼は、再び机に向かった。そこでデューゴはようやく気が付いた、エピが何をしていたのかと思えば、手記を書いている最中だったのだ。ペンを白紙のページに走らせている。繊細な文様にも見える文が綴られていく。
エピの旅。エピの人生。
「なあ、手記、見せてくれよ」
「ええっ? ……やだよ」
不意に気になって頼めば、エピがぎょっとしたような声を上げた。
「恥ずかしいもの……」
「でもそれ、いざという時は交換屋に出すんだ、いつか人の目に触れるものだろ?」
「……自分の知り合いで、その後も一緒に旅をする人に見せるのって、すごく恥ずかしいよ? 交換屋に出せるのは、自分も相手も、互いに詳しく知らないからできるんだよ」
ぱたんとエピは手記を閉じてしまった。そこで彼は。
「そういえばデューゴくんは手記書かないの?」
今度はデューゴが難しい顔をする番だった。
「……恥ずかしいし、立派なものは書けないし?」
そう口にして、再びヘンリックのことを思い出す――彼はきっと、立派な手記を書きたかったのだと。
だが。
「別に立派なものじゃなくてもいいんだよ」
エピの声が凛と響いた。まるで一陣の風が吹いたかのようだった。
「旅人の手記って、旅の記録を書いているだけのものだから」
深い青色の手記を、エピの白い手が撫でた。
「でも、それが、他人から見たら立派で興味深いものになるみたいなんだ……僕も他の旅人の手記を読んだことがあるからわかる……」
「……どこがどう、面白かったんだ?」
立派な手記が書きたいわけではなかった。興味深いものを書きたいわけでもなかった。
純粋に、気になった。
人生とは――手記とは、何なのか。
エピが見つけた答えは。
「他人の旅だからかなぁ? デューゴくんも手記を書いたらいいよ、考えてることがまとまるし、いざという時財産になるし……」
そしてエピは、少し恥ずかしそうに提案するのだった。
「そうだ、デューゴくんが手記を見せてくれたら……僕の手記も見せてあげる。一緒に旅をしてるけど、きっと見てるものは違うから、僕、少し気になる。君が見てるものは、君だけのものだけど、手記を通せば、僕も見えるんだ。手記って、その人だけが経験できた人生だから」
* * *
翌日、デューゴは一人仕立て屋に向かった。エピはどうやら、昨日珍しく買い忘れをしたらしい、そのため一人市場へと向かった。
仕立て屋に入れば、最初に来た時と同じように、店内には人の姿がなかった。もしかしてと、デューゴが奥へ進めば、やはり最初に来た時のように手記を睨むヘンリックの姿があった。ペンにインクを吸わせたはいいものの、ページは白紙のままとなっている。
――ヘンリックはきっと、なりたいものがあるのだろう。
――それは「価値のない今の自分以外の何か」なのかもしれない。
そう考えれば、ヘンリックが旅人になりたいと言って口だけになってしまうのも納得がいく。
彼はきっと、意味が、特別性がほしいのだ。
魔法のように上着の破れ目が消えたこと、『星油通し』という文化は、自分にとって初めてで、特別だったけれども。
――彼の日々は、自分にとって別のものだ。
「どーも」
近づいてもヘンリックは気付かない。デューゴが指でとんとんと机を叩いたところで、ようやく彼はこちらに気が付いた。
「ああ来てたんだね、ごめんごめん……上着は仕上がってるよ」
ヘンリックは慌てて立ち上がる。しかしそこでデューゴは制止するように、彼の手記を指さした。
「……これ、読ませてもらっても?」
「もしかして、いい手記の書き方を教えてくれるのかい?」
尋ねればヘンリックはぱっと顔を明るくさせた。だがデューゴは腕を組んで。
「残念だが、俺は手記を書かない旅人だ」
「……旅人、なのに?」
ヘンリックの表情がみるみる唖然としたものに変わっていく。けれどもデューゴは変わらずに言うのだった。
「手記を書く書かないはおいといて、旅人だから、あんたの手記が気になってな……もし、よかったら、読ませてほしいんだ」
ヘンリックは少し悩んだようだった。すでに書き綴ったページをちらりとめくってみて、やや俯いて、やがて眼だけをデューゴに向ける。
「……人に読んでもらえば、どうしたらいいかわかるかもしれないし、いいけど……俺の手記は、大したこと書いてないよ。面白いことも、何にも……」
「――でも、お前しか経験していない話だろ?」
――はっとしたようにヘンリックが顔を上げた。
部屋の片隅では、昼の色をした星油ランタンが室内を温かく照らしていた。




