第十話(02)
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確かに手記とは、旅人のもの、と必ずしも決まったものではなかった。だから旅人ではない者が、日々のことを手記に綴ることがあってもおかしくはない。価値こそ、旅人のものの方が上になるが。
けれどもこの街の人間全員が手記をつけていて、今までのものが図書館に保管されているなんて。
旅人であるものの、手記を持たないデューゴはひどく驚いてしまった。エピも「いままで見たことがない」と言っていた。
この街の風習を知った翌日。意識しながら街中を歩けば、手記を手に歩く人々の姿がちらほらと見られた。時にベンチや花壇の隅、他適当な場所に座って、ペンを走らせている者の姿もある――皆、思ったことを、その場で書いているらしかった。そうして手記をすくすくと成長させていく。
また気付けば、白紙の手記を売る店も多く見られた。どの店にも様々な手記がある。赤や青や黄色の手記。模様入りのものもある。ページ用紙も様々で、色のついたものもある。そして筆記具も豊富で、一見同じ黒インクに見えても、かすかに赤みを帯びていたり、青みを帯びていたりするインクがあったり、旅人も使う丈夫で精密なペンも、複数種類置いてある――普通、これほどまでに種類はないのだ。しかしこの街では、生活必需品故の種類の豊富さがあった。
特に何か買う予定はなかったものの、デューゴは色取り取りな手記と筆記具を眺めて続けていた。エピも、何も買う予定はなさそうだが、人生を刻まれる時を待っている手記を眺めて、感嘆の声を漏らしている。
眺めているうちに、デューゴはふと、市場の果物を思い浮かべていた――様々な果物が、籠に入って並んでいる。どれも鮮やかな色を放っていて瑞々しい。ここにある手記や筆記用具は、どうしてだか、そんな賑わいと楽しみを彷彿させた。
ちらりと見れば、カウンターには手記店の店主がいた。きっとお気に入りを使っているのだろうその手記に、これまた気に入ったものを使っているのだろう、美しい羽ペンで何か綴っている……何となくだが、自分達のことを書いているのだろうと思う。
手記は、最後のページが刻まれたのなら、あるいは主が亡くなったのなら、あの図書館に保管されるのだという。
しかしその手記は、いつでも見られるわけではないそうだ。必要になった時に、町長や図書館長の許可をもらわなくてはいけないらしい。ただそれは本当に必要になった際のみのため、許可を取ってまで他人の手記を見る人は少ないそうだ。
それでも『手記の図書館』は年に一度開放日があり、その日に限って、誰もが自由に手記を読めるのだという。
残念なことに、その日はまだ遠かった。
街を見るのもついでに、エピとデューゴは市場で買い物を済ませた。あとは宿屋に戻って荷物を整理しなくてはならない。
「――あっ、仕立て屋さんだ」
そこではたと、エピが気付いて声を上げた。デューゴも見れば、大通りを行きかう人の中、確かに、あの仕立て屋の男の姿があった。その手に持っているは、
「……あれ、俺の服じゃないか?」
よく見慣れた赤色。彼はそれを持って、どこかへ向かって行く――『星油の泉』に、姿が消えていく。
デューゴはエピと顔を見合わせて、彼の後を追った。
『星油の泉』では、そのほとりに彼がいた。手にした赤色を広げれば。
「えっ?」
思わずデューゴは素っ頓狂な声を響かせてしまった――仕立て屋の男が、デューゴの上着らしき赤色を『星油の泉』に沈めたからである。彼はそのまま、まるでゆっくりと洗濯でもするかのように、ざぶざぶと赤色を水中で波打たせる。
「おや、旅人さんか!」
そうしながら、彼はこちらを向いた。目を丸くしたままのデューゴは、まるで巨大な魚のように揺れる上着を指さす。すると。
「ああ『星油通し』だよ! 知らない……? 珍しいのかな、これ」
「星油……通し……?」
「……おまじないみたいなものかなぁ。こうして星油に一度通して、健康や安全を願うのさ」
「あっ、僕、そういうの知ってる……僕の街にもあったんです、子供を『星油の泉』で泳がせるんだ……」
エピが納得したように微笑む。一方そんな文化もあるのかと、デューゴは少し、訝しんでしまう。聞いたことがない、『星油の泉』でものを洗ったり人が泳いだりなんて。
けれども、面白い、とは思う。
「穴、すっかりなくなってる……すごいな……」
星油を纏った上着は、心なしか、きらきらと輝いているように見えた。そこにあの悲しさを覚える穴はない。すっかり綺麗になってしまった。直した、というよりも、生まれ変わったかのように思える。
「ありがとうございます、ええと……」
「ヘンリック、仕立て屋のヘンリックだ」
そこでデューゴは、ヘンリックが傍らに何か置いていることに気が付いた。
茶色の表紙の手記と、ペン。
「ヘンリックさんも、手記を持ち歩いてるんですね」
エピも気付いたらしかった。
「ここは不思議な街ですね……最初に見たとき、びっくりしました」
顔を上げれば『手記の図書館』が佇むようにしてあった。鍵付きの本棚に並べられた手記は、人々の記憶を抱きかかえて、いまは静かに眠っている。
ところが、ヘンリックが表情を曇らせていた。どうしたのかとデューゴが思わず顔を覗き込めば、目が合ってしまう。
誤魔化すように首を傾げれば、ヘンリックは『手記の図書館』の長い廊下を見つめた。
「……君達はこれをどう思う?」
不意にそんなことを尋ねてくるものだから、デューゴもエピも首を傾げてしまった。ヘンリックは浮かない顔をしたまま続ける。すでに『星油通し』をする手は止まってしまっていた。
「いや……これって文明都市の真似事なんだけどさ……俺達ただの街の人が書いて……それってどうなのかなって。だって大したことは書けないし……面白いことも、ないだろう?」
デューゴには、ヘンリックが一体何を言おうとしているのか、全くわからなかった。
旅人の手記と、街の人間の手記の価値の違いを言っているのだろうか。そもそも。
「なあ……悪い、そういえば『文明都市』って何なんだ?」
昨日もエピが言っていた。ここは『文明都市』か、と。旅の中でも、何度か耳にしたような気がする。
「……文明都市っていうのは、この真っ暗な世界を、昔、光があった頃みたいに戻そうとしている街だよ」
教えてくれたのは、エピだった。
「どこにあるかわからないし、そもそも本当にあるのか、作り話かもしれないんだけどね」
「そこが……手記を集めているのか?」
「文明都市の噂の一つに、旅人の手記を集めて、世界がどうなっているのか知ろうとしているっていうのがあるんだ」
エピに代わって、ヘンリックが答えた。
「未来を作るために、過去を集めているんだ。未来は過去の上に出来るものだから。それに手記には、沢山の知識が詰まっているからね」
ようやくヘンリックの手が動き始めた。ついにデューゴの上着を『星油の泉』から引き揚げる。ぽたぽたと垂れる雫は、宝石のように美しく、泉に戻っていく。そんな雫を垂らす上着は、まさに加護を得たかのようだった。
けれどもヘンリックの表情は明るくならない。
「……それで、この街で、この街の人達の手記を集めて、どうするんだって、俺は思ってしまうんだ」
だってここには、と、彼は再び『手記の図書館』へ視線を投げる。
「代わり映えしない日々ばかりで、それを綴った手記ばかり。それって面白みもないし、未来に役立つこともあるかもわからない……大体未来のためって何なのかわからないし……意味のない手記なら、これはもしかして、ただの墓標なんじゃないのかなって……」
そう言われてしまえば、デューゴはかすかに眉を寄せるしかなかった。
――確かに、手記とは、旅をした証であるのだから。
道中、死んだら、それだけが遺される。
生きた証とは、すなわち、死んだからできるものだ。
「……だから俺は、少しでもいい手記を書きたくて」
上着を丁寧に絞りつつ、ヘンリックは立ち上がる。と、ぱっと顔をエピとデューゴに向けたのだった。
「旅人さん達……旅人さん達は、どんな風に手記を書いているんだ? 何か……面白い書き方って、ないかな」
そう言われても、デューゴはそもそも手記をつけない旅人だった。そしてエピは少し悩んでいるかのように黙ったまま。
それでもヘンリックは続けた。
「本当は……仕立て屋じゃなくて、旅人になりたかったんだ。素晴らしい旅をして、いい手記を書きたかったんだ。だから――」
そこまで言って、唐突にヘンリックは表情を歪めさせた。頭をゆるゆると振ると、まるで自分自身に呆れたように溜息を吐く。
「ああごめん……忘れてくれ……旅人さんを前に、昔の気持ちがよみがえったみたいだ……旅人になりたいって思っていたけど、それが本当に願っていたことなのかも、わからないのに」
「それって、どういうことですか?」
エピが尋ねれば、ヘンリックは曖昧な微笑みを浮かべながら、しばらくの間言葉を探していた。やがて。
「……その気になれば、この街を飛び出せたんだ。仕立て屋を継ぐ前も、いまだって。でも……俺は結局、そうしなかった。そうしたいと思うこともあるけど、しない。だから『旅人になっていい手記を書きたい』と口で言うだけで……何も考えていないのかも」
――何も考えていない。
その言葉が、あたかもとんと胸を突いたかのようにデューゴは思えた。
……街にいた頃、自分も何も考えていなかった。自分がどうなりたいか。将来のこと。どうしたいか。
ヘンリックのように「こうしたい」と思うことはあったかもしれない。しかしそのためのことを、自分はしただろうか。ただ流されるまま、行きつくであろう場所に、無意識に縛られていた――。
あの時の自分と彼、少し似ている気がした。
だが。
「……でもあんた、そこまで言えるなんてすごいな」
思わず口にしてしまった。
ヘンリックがきょとんとしている。それでデューゴは、自分が何か変なことを言ってしまったような気がして恥ずかしくなったものの、
「いや……俺も、似たような時があってさ。でも俺は、そんな風に考えることもできなかった……なんていうか、本当に、漠然とやってきていたから……」
「そうかい?」
ヘンリックは曖昧な笑みを浮かべたままだった。
「……でも、俺が色々考えたところで、俺の人生に特別なことなんて何一つないんだ。きっとずっと、このままなんだろうなぁ」




