第十話(01)
ついにこの時がやってきてしまった!
長いこと続けてきた私の旅。その全てを綴ってきたこの手記。ついにいま、その最後のページにペンを走らせている!
ここで私の旅が終わるわけではない。しかしこのページを書き終えてしまえば、この手記は完成してしまうのだ。
そして完成した手記は、後々、どこかの街で交換の材料として使うだろう。
私が今まで見てきたもの。出会ってきたもの。その全てが、ここに記されている。
手放すことを考えると、寂しさと不安をひどく覚える。果たして私は、この手記を失ったあと、ここに記した全てのことを憶え続けていられるだろうか?
しかし旅人の手記とは、いつか「文明都市」なる場所に流れ着くものだという。だからもし私がこの手記を読み返したいと思ったのなら、そこに向かえばいいのだ。
そこで再会しよう、過去の私よ。相棒よ。それまでにお前は、私が見たものを、多くの人に伝えるのだ!
【ある旅人の手記より】
* * *
渋い顔をしながら、デューゴは歩き続けていた。手にしているのは赤い布――普段来ている赤い上着だった。日中を示す星油ランタンの街灯に照らされて、上着は深くも鮮やかな赤色を放っている。けれどもそこで「どうも」と存在を主張しているのは、大きな破れ目だった。
「……こんなに大きい破れ目だったら、できたときに気付いたと思うんだけどね。でも、昨日気付けてなかったら、もっと大きくなってたかもしれないし……まだ間に合うよ」
隣を歩くエピが、どこか慰めようとするように、デューゴの顔を覗く。
デューゴは何も言わずに、眉を寄せたままだった。旅に出てからずっと大切に着て来た上着が、無残な姿になってしまったのだから。
――上着に大きな穴が開いていることに気付いたのは、昨日の夜だった。
昨日の昼間、エピとデューゴはこの街に到着した。まずは旅の疲れを取るために、夕食まで宿屋でゆっくり過ごした。そして夕食後、明日の予定を立てている時に。
「……は? 破けて、る?」
明日は街を見て回ったり、交換屋へ行ったり、それから衣類の洗濯したり……と話している時。
どのくらい汚れているか、それを確認するために上着を手に取った際、ようやくデューゴは気が付いた。
背中の部分だった。何かにひっかけてびりりと破いてしまったかのように、穴が開いていたのだ。
いつ破けたのかわからないし、もしかしてあの時に、という心当たりも一切なかった。デューゴにもなかったし、エピにもなかった。まさに穴は、突然現れたと言ってよかった。寿命、というものだったのかもしれない。
住んでいた街から、ずっと共にしてきたものが破けてしまった――それはデューゴ自身すらも驚くほどショックなことで、破れ目から手を出して破けていることを確認する度に、色々なことを思い出してしまった。この赤色は、ククッコドゥルのとさかに似ていて、それで気に入ったんだっけ。ちょっと派手すぎないか、と母親に言われたけれどもこれを選んだ――。
「そろそろやめないと、余計に破けちゃうよ?」
見兼ねたエピに声をかけられるまで、デューゴはじいと上着を眺めていた。
「明日仕立て屋に持っていって、直せるか聞いてみようよ。いま余計なことすると、直せなくなっちゃうかもよ?」
「……そういうことは早く言ってくれ」
直してもらう、という発想は一つもなかった。すぐさまデューゴは上着をいじるのをやめたのだった。
そして今日に至る。
「すみません、ちょっとお願いしたいことがあるんですけど……」
仕立て屋の場所は、宿屋の主に教えてもらった。看板が出ていることからやっているのだと確認して、エピが店の中に入る。 続いてデューゴも、おずおずと続いた……直せないと言われ時のための心構えが、まだできていないのだ。ところが。
「……誰もいない?」
店に入ってデューゴが見回せば、人影は一つもなかった。出来上がった服や、作りかけの服があるだけ。出かけているのだろうか。
「すみません、誰かいませんか?」
エピが再び声を上げ、店の奥へ進む。と、その先に人の気配があった。
――一人の青年が、机に向かっていた。難しい顔をして、開いた本の白いページを睨んでいる。傍らにあるのはペンとインク瓶。
「――あれっ?」
不意に我に返ったように、彼が顔を上げる。どうやら気配で気付いたらしい、慌てて本を閉じれば、
「ごめんなさい、お客さんかな……って、君達は旅人? ようこそ、この街へ!」
先程までひどく苦しそうな顔をしていたものの、それが嘘のように、彼はぱっと表情を明るくさせた。
――彼こそが、この店の店主だった。早速エピに促され、デューゴが修繕の相談を始める。
若い店主は、デューゴの上着をカウンターに広げて、しばらく眺め、一度店の奥に戻り、また戻ってきて、果てにうんと頷いた。
「この程度なら、三日で直せるよ。材料もあったし」
「本当に!」
カウンターテーブルを叩くようにして身を乗り出したデューゴに、店主は驚いてわずかに身を引いた。それでも笑って、また頷いてくれたのだった。
どのくらい費用がかかるか尋ねる。良心的な価格で、エピに助け舟を出してもらわなくとも、デューゴ一人で十分に出せる金額だった。
そうして上着を預けて、二人が店を出ようとした時に。
「あっ……ちょっと待って、旅人さん達!」
不意に店主が声を上げた。ちょうどドアノブを掴んでいたエピが振り返る。安心の笑顔を浮かべていたデューゴも、何事かと表情を変える。
――店主は、最初に見た時と同じような表情を浮かべていた。本を開き、白紙を睨んでいた、あの表情だった。
「……ああいや、なんでもない。呼び止めてしまってごめんね」
けれどもその表情は再びかき消えてしまう。
「それじゃあ三日後には仕上がるから、その時に取りに来ておくれ。お金はその時に。何かあったら、また来ておくれ!」
* * *
「ああ~! よかった! どうなるかと思ったけど、直せるって言ってもらえてよかった!」
街の大通りを、デューゴは頭の後ろで手を組んで進む。
「費用も俺一人でどうにかできる額だったし……またエピに借りを作るところだった!」
「僕はあんまり気にしてないけどね。でも、本当によかったね」
二人が目指すのは宿屋。交換屋は仕立て屋に向かう前に行っていたし、旅に必要なものは明日市場で買うことに決めていた。そのため今日の残りは、宿屋でやるべきことをやる予定だった――道具の手入れや、洗濯である。時間があまれば、この街がどんな街であるのか、見て回るつもりでもあった。
しかしその前に。
「デューゴくん……ちょっといい?」
唐突にエピが立ち止まり、何かを指さす――それは街の中心。あるのは巨大な建物。
「宿屋に戻る前に、僕、あれがすごく気になるんだ……ちょっと寄り道してもいい?」
「あれって……街の中央にあるってことは『星油の泉』だろ?」
今まで見てきた街の『星油の泉』は、ここまで大きくなかった。確かに気になる、エピに言われて、デューゴも不思議に思えてくる。あれは『星油の泉』だけではないのだろうか。それともこの街の『星油の泉』は巨大なものなのだろうか。
小さな街であるのに、異様な建物。目前にすれば、その大きさをより感じられた。扉は閉まっていなかった。今までに見てきた『星油の泉』と同じく、全ての人を受け入れる建物らしい。
中に入って、エピとデューゴは息を呑んだ。
――そこは『星油の泉』で間違いなかった。入ってすぐに、きらきらと輝くシロップのような液体で満ちた泉が、静かに二人を迎え入れてくれた。大きさは一般的。深さも一般的。特に何も変わったことのない『星油の泉』だった。
しかしその奥に。
……いくつもの本棚が並んだ部屋が見えた。数え切れないほどの本棚。鍵付きのそれの中には、ぎっしりと本が並んでいる。様々な色の本。
「図書館か?」
部屋を前に、デューゴはそろりと中を覗いてみる。どこか厳粛な様相に、部屋の中に入れなかったのだ。それはエピも同じらしく、デューゴの隣に並んだところで立ち止まっていた。しかしエピは、何か気付いたらしい。
「……ただの図書館じゃないよデューゴくん。ここにある本、多分……全部手記だ」
色とりどりであるものの、並ぶ本には、何やらサイズや厚さに決まりがあるように見えた――どの本も、旅人が持つ手記と同じ、または似た形のものだった。手記の形式に決まりはないものの、手記として扱いやすいサイズというものがあるのだ。ここに並ぶ本は、それに則って作られているように見える。
『手記である』ということは。
「まさかこれ……全部旅人の手記?」
手記とは、旅人がつけるもの。暗闇の中をどう歩いたか記録をつけるためのもの。
エピはひどく驚いた顔をしていた。
「てことは……ここがもしかして文明都市? いやでも……びっくりするほど大きいって聞いたことあるし、光の道もなかったし……」
「――あら旅人さん? 星油をもらいに来たのかしら?」
と、声が響く。まるで悪さが見つかったかのように、エピとデューゴはびくりと震えあがってしまった。
振り返れば、箒を手にした女が一人いた――泉の掃除係だろう。
「ああいえ……俺達は、このでかい『星油の泉』が何なのか見に来ただけで……」
すぐに答えたのは、デューゴだった。すると女は二人が見ていたものに気付く。
「ふふ、ここはね『手記の図書館』。『星油の泉』と一つになってるのよ」
「『手記の図書館』? じゃあ、やっぱりここにあるのは手記? それならここが……文明都市?」
エピが驚きのあまりどこか不安さも纏っているかの様子で、彼女へ尋ねる。けれどもデューゴは、その隣で首を傾げていた――『文明都市』について、よくわからない。
「もし文明都市を目指して旅をしているのなら、残念だけど、ここは違うわ。それに文明都市は旅人の手記を集めていると聞くけど、ここで集めているのは旅人の手記じゃないの」
女はゆるゆると頭を横に振った。そして微笑んだ。
「ここにあるのは……この街の住人の手記なの。この街で暮らし、この街で死んでいった人達の手記なの」




