第八話(04)
* * *
暗闇の中を歩くのは、とても危険な行為。
道を見失えばもう光は見えてこない。それだけではなく『暗闇』がどこかに潜んでいる。
でも間違えなければ大丈夫。運が悪くなければ大丈夫。
けれども間違えた上に、運も悪ければ……。
――二人の旅人がいた。二人は、商売するために共に隣の街へ向かっていたんだ。もう何度もやってきたことで、今回も準備は万端にしてきたし、何度もやって来たからといって、行くべき道の確認を怠ることもしなかったんだ。
二人はまじめだった。まじめに足を進めて、まじめに商売していた。
でも人間。人間は間違えることもある生き物。
そして間違いというものには色々あるけれども、知らない間にどんどん大きくなっていく間違いというものがある――。
暗闇の中の旅の間違いというのは、まさにそれだ。少し方角を間違えて進むと、目的地は二度と見えてこない。
……ほんのちょっとの誤差。けれどもその小さくも大きな間違いが、彼らを暗闇の中に閉じ込めてしまった。
二人が間違いに気付いた時には、もう遅かった。彼らは、自分達がいまどこを歩いているのかわからなかった。まっすぐ引き返せばなんとかなったかもしれないけれど、二人は道を見失ったと気付いた時に慌てて歩いてしまったから、それもできなくなってしまったんだ。
……暗闇の中で道を見失うって、どんな気持ちなんだろうね。星油ランタンがあるから、多分明るかったんだろうけど……きっと、真っ暗なのと、変わらないんだろうね。
幸い、水も食料も、星油も多めに持ってきていた。これが尽きる前に、街を見つければ助かる。簡単なことではないけど。でもその旅人達は、地図で大体このあたりにいるだろうと考えて、それじゃあ、こっちの方角に進めば光が見えてくるかもしれない、と歩き出したんだ。
……でも歩いても歩いても、まるで進めていないかのように辺りは暗かった。床も壁も天井も、真っ黒に塗りつぶされた狭い部屋を歩いているようだった。耳を澄ませても何も聞こえやしない。そしてもちろん、先に光なんて一つも見えてこないんだ。
息をするのも苦しいほどの暗闇だ。息を吸うと、暗闇も入ってくるかのようで、そうやって身体の中から彼らを蝕んでいくんだ。
そうして諦めさせる――歩くことを。進むことを。生きることを。
でも二人は、祈ること止めなかった。信じたんだ、この先に、自分を照らしてくれる優しい光があると。
歩き続けなければ、見えてくるものも、見えてこない。
足は棒のようになっていた。もし誰かが耳元で「無理だ」「何も待っていない」と囁けば、彼らはすぐに絶望に沈み込んで二度と歩けなくなってしまうかもしれなかった。
それでも歩き続けたんだ。星油ランタンの光に励まされながら。
星油ランタンの光は、旅人の希望。彼らのランタンでは、まだ炎が微笑んでいたんだ。
それにね。
それに、一人じゃなかったから。
だから、歩き続けられたんだ。
――しかし、道を見失ったと気付いてから、何日が経ったか、もうわからなくなった頃。
ついに一人が……倒れた。
どうして倒れてしまったのかというと……もう何日も食べてなくて、水もなくなってしまっていたから。
もう一人が声をかけたり、身体をゆすったりしても、彼は起きなかったし、返事もしなかった……もう死んでしまったかのようだった。彼は、地面に伏せたまま。
それで……もう一人も、その傍らに座り込んで、立ち上がれなくなってしまった。
だって、二人だからこそ、歩けていたのだから。
一人では、もう進めない。
そして何日も食べていない、何日も水を飲んでいないのは、座り込んでしまった彼も一緒。
……静かに、死を待つしかなかった。
……街の明かりなんて、どこにもない。
……ここで死ねば、きっと遺体は『暗闇』に呑まれて消える。
……何も残らない。
それはあまりにも残酷で、けれどもあまりにもありがちな、旅人の終わり方だった。
……けれども、だった。
彼らが本当に死んで、骨になる前に。
――『暗闇』が目の前に現れたんだ。
『暗闇』は飢えていた。二人を丸呑みにしたくて、うずうずしていた。星油ランタンの光が眩しくてたまらないけれども、それでも二人を呑み込んでしまおうと、ずるずると姿を現したんだ。
座り込んだ旅人は、怖いとも、嫌だとも、何にも思わず『暗闇』を見ていた。
……そういうことも感じられなくなるほどに、彼は疲れてしまっていたんだ。
それはきっと「死にたい」と思うことに似ていた。
……それにしても『暗闇』のふっくらとした身体。
ふわふわ。ぐねぐね。もやもや。『暗闇』というのは、とても不思議な身体をしている。
実際はどんな感じなのかはわからない。しかし旅人は、柔らかいことに間違いないなと思ったんだ。『暗闇』は人を包み込み、呑み込むからね。
……ふと。
……ふと、彼は思う。
――『暗闇』とは、真っ黒で大きなパンのようだ。
彼はまるでウサギのように跳ねた。もう二度と立ち上がれないと思った足を使って。どんな感情もなくなってしまっていた顔には笑顔が戻っていた。
だって、目の前においしそうなものがあるんだもの!
そして彼は――『暗闇』に噛みついて、ぱくぱくと食べ始めてしまったんだ。
『暗闇』もこれには大慌て。急いで逃げようとするけれども、お腹がぺこぺこの旅人には勝てなかった。もぐもぐぱくぱく、身体をどんどん食べられてしまって……ひとかけらも残らず、食べられてしまったんだ。
本当は『暗闇』が旅人を食べるはずだった。けれども旅人は逆に『暗闇』を食べてしまったんだ!
……信じられる?
あの恐ろしい『暗闇』を、だよ。
その真っ黒な身体は、甘くて辛くて酸っぱくて苦くて、いろんな味がした。久しぶりの味に、旅人は嬉しくてたまらなくなった。
けれども妙だ。
お腹がいっぱいになった気がしない。
まだまだ空いているような。
――むしろひどくなったような。
元気を取り戻したのに、お腹はまだぺこぺこのまま。でももう『暗闇』は全部食べてしまったし、荷物の中にももちろんもうない。
それでもお腹が空いてしまって、どうしようもなくて、どうしようもなくて。
はたと……彼はあるものに、目を留める。
それは……ここまで一緒に旅をしてきて、二度と起き上がりそうにない仲間。
もう一度揺すっても、彼は起きない。息はしているのか、していないのか。
倒れた時に小石で切ったのだろう、彼の腕には切り傷があって、鮮やかな鉄の臭いがした。
……『暗闇』を食らった彼は思った。
どうしてそう思ったのか、なんて言われても……お腹が空いていたから、としか言えないけれども。
でもね、人間というのは、お腹が空きすぎると、思うこともあるんだ。
――同じ人間が、おいしそうだって!
* * *
「人が……人を食べるの……?」
膝を抱えるようにして物語の流れに身を委ねていた少女が、まるで未知の場所に流されていたことに気付いたように顔を上げた。幼い瞳は大きく見開かれ、膝を抱える細い腕にじわりと力が入る。
ハウクトはどこか冷たく、他人事のように歌う。
「お腹が空いて仕方がなかったんだ……。それに口を大きく開けたら、一口で食べられそうで、ぱくんと口に入れてしまえば……本当に一口で食べられちゃったんだ」
「人が、人を、一口で……?」
他の子供が、隣の子供の服の裾を掴みながら、声を震わせる。
「そんなこと、あるの……?」
「――ねえ、そもそも『暗闇』を食べた人間が、人間のままだと、思える?」
ハウクトは問いかける。子供達はまるで答えるのを恐れたように何も言わない。周囲のショーや音楽、歓声はどこへいってしまったのか。この場だけ切り取られ、物語の中に置き去りにされたかのように、遠い。
「『暗闇』を食べた彼は、その時、もう人間ではなくなっていた」
彼は憑りつかれたかのように淡々とした声で語る。
物語の世界を呼び出す。
「それこそ、一口で人間を食べられてしまうほどに……そして」
闇を抱くかのように両腕を広げる。
「人を食べて……血の味を知った。彼にとってそれは、ごちそうの味だった……」
――ふと、カラスの口の中で、舌が勝手に動いた。外に出たいと波打って、そのままに唇を舐める。
ごちそうの味だなんて。
……人間の肉とは、そう美味しいものではなかった。それがたとえ、空腹で気がおかしくなっていたとしても。
物語は物語だ。
胃がうねって裏返って、口から外に出そうな感覚があった。胃液が重力に逆らいさぁっと上がって、口の中は突然の激流に慌て、妙な唾液を堪えきれず分泌し始める。
しかしカラスは目を固く瞑って、口をきつく結んで。
唇を噛みしめてしまえば血が出た。
血の味は――血の味だ。それ以外に何もない。
胃がきゅうと締まる。
「人を食う怪物になった彼は、次々に旅人を襲い始めた」
ハウクトの声は、こもって響くようだった。それでいてカラスの耳に刺さる。
彼は語り続けていた。しかしその声はもう、よく聞こえない。
絨毯に置かれたランタンの光が、妙に眩しくて目が痛かった。ちかちかと光っているかのようで、ハウクトの言葉をちぎり、世界を無秩序に混ぜていく。
その深みにはまって、出られない。
「――でも大丈夫。明かりをしっかり持っていれば。『暗闇』を食べてしまった彼は……光に弱くなってしまっていたんだ」
声が聞こえてくる。
何故自分が光を眩しく思う時があるのか、カラスは自分自身で理由を知っていた。
他の人にあって自分にないもの。色素がないからだ。赤い瞳に、多くの光が突き刺さる。
怪物故、だからではない。
子供達が怯えの声を漏らしている。ハウクトはなだめる様に傍らにあるランタンに手を伸ばした。
「だから光は大事なもの。手放してはいけないよ。いいね?」
子供達の前に置かれたランタンは、それはひどく眩しくて。
カラスの足は、勝手に一歩、下がっていた。
フードをより深く被る。
「――あっ、旅人のお姉ちゃん?」
と、声がした。一座の子供だった。休憩時間に、物語を聞きに来ていたのだろうか。
カラスは何も返事をしなかった。吐き気を抑え込むのに必死で、また誰とも会話をしたくなかった。
ぎろりと睨めば、ランタンの明かりに瞳が血のような赤色を返し、子供に突き刺さる。
笑顔だった子供が怪物を前にしたかのように顔をひきつらせた。けれどもカラスは気にする様子もなく、足音を殺してその場から離れた。
その瞬間、語りの締めに入ろうとしていたハウクトが、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
それでも彼は物語を中断することなく、最後まで語り続けたのだった。




