第八話(01)
こうして後からあの頃のことを書いていると、何故あの時に旅の手記をつけなかったのか、ひどく後悔することがある。
あの頃のことは、いまでもしっかり憶えていて、ありありと思い出せる、とは言い切れないのだから。
指の隙間から、あの時に見たこと感じたことが、いつの間にか静かに零れてしまっていた。あの時に感じたことを完全には思い出せないし、再びその気持ちになることもできない。
手記というのは旅人がどんな旅をしたか、まとめたもの。時には財産に、時には生きた証になる。しかしそれ以前に、手記というのは心と記憶をしまい込んだものなのだ。
手放してしまえば、確かなものはなくなってしまう。人の記憶というのは消えていくものなのだから。
私も心と記憶が消えてしまう前に、この手記を書き上げなければ。
【デューゴの手記より】
* * *
次の街まで、あと三日ほど。
焚き火を起こし終えた後、地面に座り込んでカラスはフードを外した。結っていた髪を解けば、銀色の髪はさらりと流れて炎の輝きに煌めく。手で少し整えれば、輝きは増す。
声なく溜息を吐いて、カラスは次に、荷物の中から夕食を取り出した。今晩食べるのは干し肉。少量で十分だった。
正直に言うと、カラスは肉が好きではなかった。ただ干し肉というのは旅の中では優秀な食料であるため、旅人なら誰しもが持っているものだった。
無言で噛みしめる。星油ランタンの色は黄色。夜の色。だからなのか、周囲の暗闇がより暗く、寂しく、そして無音に思えた。
しかし――嫌いではなかった。
暗闇の中には、誰もいないから――。
「……」
そう思ったところで。
――誰かいる。
暗闇の向こう、地平線の先、ちらりと、光が。
――いや。
あれは本当に星油ランタンの光だろうか。
本来なら、それ以外考えられないが。
けれども。もし。
もし、それ以外の光だったなら――。
赤い瞳で、先を睨む。緩い風が銀髪を撫でていった。
――違う。
――あれは間違いなく星油ランタンの光だ。
やがてカラスは、緊張が解けたかのように肩の力を抜いて、瞼を下ろした。しかしそれも束の間、少し険しい表情を浮かべると、急いで髪をまとめ始めたのだった。
何故なら、先にある光は、徐々に大きくなってきていたから。
――こちらを目指してきている。
髪をまとめ終われば、フードを深々と被った。髪の銀色は全て隠れた。瞳の赤色も、濃い影が落ちて見えなくなった。
「……面倒ね」
思わず言葉を漏らす。
一体どこの誰だかわからないものの、確かに誰か、旅人がこちらに迫ってきている。
――人々は暗闇の中で出会うと、身を寄せ合う。その方が安全と言われているからだ。光が集まれば、恐ろしい『暗闇』に襲われにくくなるという。だから旅人と旅人が暗闇の中で出会ったのなら、出来る限り共に過ごす――そういった習慣があるのだ。
確かに安全にはなるかもしれないが、カラスにとっては迷惑な話だった。
一晩だけで済めばいいのだが、と考えながら光を見据える。もし、目的地が一緒だった場合、最悪だ――そこまで一緒に旅をしなくてはいけない。
光を見つめているはずであるのに、カラスは不安を覚えていた。そして。
「……」
その不安は更に濃くなる。
「……何人いるのよ、あれ」
――迫ってくる光が、一つ、二つ、三つと増えていく。目を細め長め続けていると、更にぽつぽつと増えていく。
集団で旅をしているらしい――が、それにしても妙に多い。数十の光が見える。
もしかすると、『星油の泉』が枯れて流浪の民となった人達だろうか。それならばあの人数にも理解できる。
と。
――妙な音楽が、カラスの耳をくすぐった。
それは軽快で、けれども少し怪しさも帯びたかのような、アコーディオンによる演奏だった。こちらに迫って来る集団の影がはっきりしてくる。大人もいる。老人もいる。そして幼い子供までいる。
彼らは色とりどりの服装をしていて、全員が楽しそうに微笑んでいた。まるで暗闇の中の旅に、一つも恐怖を感じていないかのように。歌が聞こえる、談笑が聞こえる。
流浪の民というには、軽快な彼ら。暗闇に慣れている彼ら。
ついに目の前までその集団が迫ってきて、カラスは腰を上げた。
「――こんばんは、旅人さん! 今宵はいい夜かな?」
集団を率いていたのは、まるで男装しているかのようだが、華やかな格好をした女だった。彼女はカラスの前に立てば、大袈裟に頭を下げて挨拶をした。
「私達は旅芸人一座『銀ヴェインの窓』――暗くて退屈な夜を、鮮やかに染めましょう!」
彼女の後ろで、アコーディオンを持った老人が賑やかすかのように音色を響かせた。また若い男の一人が、酔っているかのように声を上げた。そして女達に連れられていた幼い子供達は、大袈裟な挨拶をした先頭の彼女を真似てぎこちなく、それでも優雅にポーズを決めて見せた。
* * *
様々な音楽が響く。まるで街にいるかのような、否、それ以上の賑わいが辺りに満ちている。
暗闇の中にいるとは思えない。子供達もきゃあきゃあと笑いながら走っている。それを母親であるのだろう女達が追いかけているものだから、更に街の中にいるのではないかと錯覚してしまう。ただ。
「あなた達! まだ今晩の雑技のお稽古、終わってないでしょう! 次の街についたらもうお披露目しなくちゃなんだから、時間がないのよ?」
「俺、もうお稽古なんて必要ないもんねー! ほらほら、見て!」
子供達はまさに跳ねて逃げ回る。逃げ回る中、逆立ちになったり、宙返りしたり、中には旅芸人一座が張ったテントを軽々と飛び越える子供もいる。松明を手に取ったかと思えばそれを玩具のように、けれども舞うように振り回したり投げたりしながら走り回る子供もいる。
「……それ、いいね!」
と、一座を率いていた女――この『銀ヴェインの窓』の座長だというキウが、松明を手にした子供を指さす。そして後ろに張ってあった小さなテントへ叫ぶのだった。
「ねえ! 確か炎の色が変わる粉……結構前の街でだったけど、仕入れてあったよね? それ使ったら、いい見世物にできそうじゃない?」
テントの入り口は開いていて、中にはアコーディオンの手入れをしている老人がいた。彼は、ああ、と思い出すかのように顔を上げる。
「あれなら、ヤシューが持ってるはずだよ……でも、あれは確か『回る魚』をより華やかに出来るからって、仕入れたものじゃなかったっけなぁ……」
「あー……忘れてたわ! でも、忘れてたからそっちはなしで! 『回る魚』の方は、そうね……魚だから、炎はやめにしない?」
と、ことことと音が響く――キウとカラスの間、その焚き火で熱していたやかん。どうやら茶が沸いたようだった。
「おっと、もう沸いたのね……ググじいも飲むでしょ? 淹れておくよ!」
キウはやかんを手に取れば、すでに傍らに並べてあったいくつかのティーカップへ中身を注いだ――真っ白な陶器のティーカップだが、オレンジ色の茶が注がれたとたんに、ティーカップの表面に花の絵が咲いた。驚いてカラスが目を見張れば、カップの底にも花が咲いている。
「綺麗……」
思わずカラスが声を漏らせば、キウは得意げに笑った。
「このお茶は、まだ終わりじゃないのよ?」
そして何か指でつまんだものを、ティーカップの中にはらはらと落とした――金の花弁だった。
「これで出来上がり! どうぞ! 甘いわよ!」
キウはティーカップを差し出す。カラスは両手で受け取れば、その中を見つめた。まるで魔法の飲み物のようだ。一口飲めば確かに甘くて、気付けばカラスは微笑んでしまっていた。
……だが、楽しんでいる場合ではないのだ。
「それじゃあ、これから三日間の間だけになるけど、よろしくね、カラスちゃん」
キウのその言葉に、カラスは思わず顔をひきつらせた。それでも。
「……ええ、次の街まで、ね」
――カラスが向かっている街と、『銀ヴェインの窓』が向かっている街は、同じ街だった。
それはつまり、これから共に旅をしていかなくてはいけないということだった。
カラスが周囲を見回せば『銀ヴェインの窓』達による小さなテントが、いくつも並んでいた。そこには談笑する人々もいれば、自らの技を練習する人々もいて、またそれを見て騒ぐ人もいる。ひどく賑やかだ。
それ故に、落ち着かない。
――暗闇の中ならば、一人になれるのに。
「そうだ、テント貸そうか? カラスちゃん、テントなんて荷物になるもの、持ってないでしょ?」
と、キウが尋ねてくる。カラスは頭を横に振った。
「いいえ、必要ないわ」
そうしてフードを少し引っ張って、より目深に被る――テントがあれば、その中でフードを脱げたかもしれないものの、必要以上に親しくはなりたくなかった。
三日間。三日間、この中で過ごさなくてはいけない。
そこでふと、キウが首を傾げた。
「……それにしてもカラスちゃん、荷物少なさ過ぎじゃない? 旅人なら、もう少し……もしかして、何か困ってたり――」
「――荷物が少ない人は、旅が上手な人だって聞いたことあるぜ!」
男の声が割り込む。
突然隣に男がやって来た、驚いてカラスはわずかに身をひいたが、男は気付いていないようだった。
「……にしても若いな? それで一人で旅してるなんて、すごいな! ……なあ、あんた、どこから来たんだ? なんで旅してるんだ?」
それは自然な質問だったが、カラスにとっては、ひどく耳障りに聞こえた。思わず男を睨んでしまった。
「……驚かさないで」
そう言って、質問には答えない。けれども男は。
「おっとそりゃ悪かった……で、話を聞かせてくれよ! いやね、若いのに一人で旅をしてるなんて、俺も驚いちゃってさ!」
ぐい、と彼は近づいてくる。だからカラスは、手にしたティーカップからわずかに茶が零れるのも気にせず、更に身をひいて男をさらに睨んだ。それでも男はじっとこちらを見てくるものだから、カラスは溜息を吐いて。
「……話す必要ないでしょ」
「……なんだよ、面白くないなぁ」
男はそう言ったものの、口調は軽かった。
「まあ、気が向いたら教えてくれよ!」
頭をかいて笑う。その様子にカラスは少しだけ安心を覚えた――どうやら、そこまでしつこくはないらしい。
だが。
「――ねえ! カラスちゃん……? あなた、カラスって言うのよね!」
今度はどこからともなく女がやって来て。
「それって、真っ黒な鳥の名前よね? ……変わった名前ね?」
そして。
「――あら? あなた……」
彼女はぐいとカラスの顔を覗き込んだ。それが突然だったもので、カラスは慌てて彼女から逃げるように顔をそらしたが。
「……ねえ、ちょっと、フードをとって見せてもらえない?」
「どうした? なんかあるのか?」
すると先程詰め寄ってきた男も、カラスの顔を覗き込もうとする。カラスは俯いて見られまいとするが、女が指をさして男に言った。
「ちょっと……見たことない目の色だったのよ!」
「えっ? どれどれ……」
――まずい。
俯く中、カラスは表情を歪めた。それは焦りからではなく、怒りからだった。
――本当に、最悪。
もし見られたら、何と言われるのか――。
「こら! あんた達、お客さんを困らせてどうするの!」
そこでぴしゃりと声が上がった。キウだった。
「……あのねぇ、カラスちゃん、嫌がってるじゃない。私達は人を楽しませる者……人を不快にさせたり困らせたりして、どうやって楽しませるっていうのよ」
そうしてキウは茶を啜る。怒られた二人は苦笑いを浮かべると、カラスに謝りの笑みを浮かべて去っていった。
少し鼓動が速くなっているのをカラスは感じていた。あんな調子の二人だったのだ。もし姿が知られていたのなら……。
――いままでの、騒ぎになった時の嫌な記憶が、よぎる。
「ごめんなさいね」
と、キウに謝られて、はっとしてカラスは顔を上げた。その瞬間、銀の髪がフードからはらりと溢れてしまって、カラスは我を忘れて元のようにフードの中に押し込んだ。けれどもキウは声を上げることも、目を大きく開くこともなかった。
「私達、お喋りが好きで……好奇心も強いところがあってね。本当に興味本位で聞いてただけなの。カラスちゃんを困らせようと思ってたわけじゃないから、大目に見てちょうだい」
そしてちらりとカラスを見たかと思えば。
「言い方が悪いかもしれないけど……ここには、普通でない人も、いる。だから、そりゃあ彼らみたいに騒ぐ子もいるかもしれないけど……慣れてないわけじゃないから、私達はそこまで気にしないわ」
どうやら、いつの間にかキウに気付かれていたようだった――自分の見た目が、普通ではないことに。しかしカラスはキウを見据えて言うのだった。
「あなた達が気にしなくても、私が気にしているの」
ティーカップの中は、すでに空になっていた。カラスはキウにカップを返せば、立ち上がった。
「ありがとう……私、隅の方で寝るわ」
「あら、折角出会えたのだから、ダンスを見てってよ……って、あら」
キウは傍らに置いた星油ランタンの黄色を見れば、ポケットから懐中時計を取り出して笑った。
「結構時間経ってたのね……そうね、あんまり遅いのは、良くないわ……それじゃあ、ダンスは明日にでも!」
そうしてカラスは、キウのテントから離れていった。「何かあれば言ってね!」とキウに言われたものだから、振り返って頷く――彼女はどうやら、悪い人ではないらしい。
 




