第七話(01)
久しぶりにコーヒー豆を見た。今日着いた街での、特産品だった。
コーヒー豆からできる飲み物コーヒーを、祖父が飲んでいたのを思い出した。子供の僕は、自分も飲んでみたいとねだったけれど、祖父は「子供は飲めないものだから」と言って飲ませてはくれなかった。けれども僕は、祖父が少し離れた隙に、こっそり飲んだんだ。
その時は、すごくまずかった。でも僕は、まずくてもどうしてか我慢してごくごく飲んでしまって、たくさん飲んだからすぐに祖父に気付かれてしまったし、その後おなかを壊したのを覚えている。
けれども今日、改めて飲んだらまずくはなかった。昔は薬みたいに苦かったのに、不思議なことに、僕はおいしいと思った。その後お腹を壊すこともなかった。僕が子供ではなくなったから、コーヒーに強くなったのだろうか。
けれど僕は、コーヒーよりも、牛乳をたっぷり入れて混ぜた子供でも飲めるコーヒー、カフェオレの方が好きだ。甘くておいしい。
【エピの手記より】
* * *
「あら……あらあら、珍しい! ああ、ようこそ、この街へ!」
門をくぐって街に入れば、すぐ近くの家で樹に水をやっていた婦人が顔を上げた。彼女はじょうろを地面におけば、笑顔を浮かべる。
「旅人さん……旅人さんよね? ふふ、これはきっといいことが起こるに違いないわ! 収穫祭の時期に旅人さんが来たんだもの!」
けれどもその旅人は、笑うことなく、淡々と尋ねたのだった。
「……この街の、宿屋は?」
その声は、落ち着いた女のもの。背は高くない、大人というのならば、まだ低かった。手には確かに星油ランタンがあり、暗闇を照らす光が灯っているものの、旅人自身は、まさに暗闇から出てきたかのように漆黒。黒い靴、黒いタイツにショートパンツ。纏ったマントも黒く、おまけにそのフードを目深に被っているものだから、口元のあたりしかはっきりと見えなかった。
しかし、深く被って濃い影の落ちた顔。そこで不思議な光を反射する双眸は、しっかりと婦人を見つめていた。
「あそこよ! あの茶色の屋根が、宿屋よ! 見えるかしら?」
婦人はにこにこと指をさした。旅人はその先を見つめるが、どうもそれらしきものは見えない――小さくはないものの、平屋の多い、どこか質素な街だった。だが所々に樹が生えていて、よく緑が生い茂っている。
「……ああ、あれね」
やがて旅人は宿屋を見つけた。茶色い屋根が、緑の後ろに隠れていた。
「ありがとうございます」
礼こそ言ったものの、旅人はそれ以上何も話そうとすることなく、歩みを進めていく。まるで他人に興味がないといった様子だった。しかし婦人は気を悪くした様子を見せなかった。それどころか、嬉しそうにいそいそと家の中に戻ろうとしていた。
「ああ、こんな時期に旅人さんだなんて! きっといいことがあるわ! 主人やみんなに伝えなきゃ!」
と、はっとして婦人は、
「旅人さん! お名前、教えてくださる? 今年の収穫祭の時期に、旅人さんが街に来てくれたこと、憶えておきたいの!」
すでに距離は開いていたものの、旅人は立ち止まった。
少し悩んだ末に、旅人の彼女は表情を変えることなく振り返った。
「――カラス、です」
――それは、まだ太陽と月と星があった頃、空を飛んでいた漆黒の鳥の名前。
そのことを知っている人間は、一体どれくらいいるのだろうか。
* * *
宿屋で案内されたのは、一階の部屋だった。それでも、窓からの景色は悪くはなかった。開けていて、そこそこ街の様子が見える――いくつもの樹が目立つ。よくみれば赤い実をぽつぽつと実らせていた。林檎のようにも見えるが、桃のようにも見える。初めて見る果物だった。
収穫祭、と街の人間は言っていた。もしかすると、あれが収穫されるものなのだろうか。
窓の外を眺めながら、カラスは首を傾げた。赤いためなのか、果物はよく熟しているように見える。
それにしても……収穫祭と旅人、何か関係があるのだろうか。
――宿屋に来た際も、主人に特別喜ばれてしまった。収穫祭の時期に旅人なんて、と。
詳しい話は聞かなかった。あまり他人と関わりたくなかった。
聞いたところで、すぐにこの街から出る予定だった。今日は休んで、明日は交換屋と『星油の泉』に行って、そして明後日に旅立つ――おまけに、この街には自分以外に旅人はいないようだから、なおさらこの街に用はない。
そこまで考えて、フードを被ったままベッドに倒れていたカラスは、ふと身体を起こした。漁り始めたのは、自分の小さな鞄。前の街やそのまた前の街で手に入れた特産品を引っ張り出して、そして鞄の一番奥に入っていたものを見て、溜息をつく。
布に包まれた、箱のようなものがあった。
「……あなたの持ち主、一体どこにいるのかしらね」
カラスはそれを、鞄から取り出すことはしなかったが、白い手でそっと撫でた。そうして鞄から一度出してしまったものを、整理しながら戻したのだった。
開けたままの窓からは、何か甘い香りがそよ風に乗って流れ込んでくる。それがあの樹の花の香りなのだと、カラスは気がついた。見れば、別の花が枯れ実をつけているにもかかわらず、その樹はまた別の枝で白い花を咲かせていた。なかなか、たくましい樹だな、と感心する。
そよ風は気持ちがよかった。街の外、暗闇の彼方から吹いてくる風だとしても、優しく撫でていく。そして街の賑やかさをかすかに運んできてくれる。旅をしている最中では、聞こえない音だ。
深く、溜息をついてしまった。暗闇がそう怖いわけではないものの、やはり街は、光の中は、安心する。
けれどもカラスは、どこか警戒したように窓の外を睨んで、そして鍵をしっかりかけてあるはずの扉にも振り返って。
……誰もいないことを確認すれば、そっとフードを払って、マントをはずす。
現れたのは白銀の髪。後頭部で団子にしていた。カラスがそれを結ぶゴム紐もはずせば、きらきらと輝くような長い髪は、腰のあたりまで流れる。その髪を簡単に手で梳くと、白銀はさらに、まるで星油の水面のように輝いた。
そしてその手にした髪を見つめる瞳は、赤色。
それが、カラスだった。
先程鞄から取り出したものの、しまわずにおいておいた櫛に手を伸ばせば、カラスは長い髪を梳き始める。長い間まとめていて、また数日間旅をしていたために、最初、目の細い櫛は簡単に通らなかった。それでも徐々に通るようになり、髪は光り輝く小川のように滑らかになっていく。
綺麗に整えば、カラスは再びベッドに横になった。今日はもう、外に出る予定はなかった。宿屋の主人にも、食事はいらない、手持ちの分を自室で食べると伝えた。
だからもう、今日は人に会う予定はない。
……他人に、この容姿を、見られたくはなかった。騒がれたくなかった。
横になっていると、じわじわと眠くなってくる。食事をとらずに、このまま眠ってしまってもいい気がした。しかしその前に、窓を閉めなくては――。
そこまでうとうとしながら考えて。
――がさっ、と窓の外で音がした。
「――誰!」
誰かいる。まずい。飛び起きたカラスがまずしたのは、マントを身につけフードを被ることだった。とっさに髪と瞳を隠すものの、長い髪はマントの下から漏れてしまっている。それを慌てて、結い直しながら窓の外を覗く。
きょろきょろと見回しても、誰の姿も見あたらなかった。けれども確かに物音がした。もし、この姿を見られてしまっていたら――街中に広まって、気味悪がられてしまえば。
面倒だ。何とか口止めしないと。でもどこに。
と。
「……星の光みたい!」
まだ幼い声が、真下から。はっとして見下ろせば。
「うわっ……」
驚いて、カラスは窓から離れてしまった。けれどももう一度窓の外、すぐ下を見れば、しゃがみ込んでこちらを見下ろす少女がそこにいた。
「旅人さんは……お星さま……お星さまの人、なの?」
十歳くらいだろうか、少女はぴょんと立ち上がれば、窓枠を掴んで身を乗り出し、目をきらきらと輝かせる。
見られてしまったか。そうカラスは苦虫を潰したような顔をしたものの、
「……あなた、星を見たことあるの?」
「ううん! でも、星ってきっと、旅人さんの髪みたいに綺麗だと思う!」
少女は目を細めて笑っている。
「旅人さんが来たって言うからこっそり見に来たけど……旅人さんじゃなくて、星の人だね! 目も『紅玉星の実』みたいに赤くて綺麗!」
『紅玉星の実』――おそらく、あの林檎のような桃のような、あの実のことだろう。いや、それよりも。
改めてカラスは少女を見つめる。彼女は目をきらきら輝かせて、口をわずかに開いている……これなら。
「……私の正体は、皆に内緒よ」
そう言えば、少女はさらに目を輝かせて。
「……うん! そうだよね、星の人だってみんな知ったら、驚いちゃうよね! 旅人さんのふりをして、収穫祭に来たんだよね!」
少女が何を考えているのかはわからないが……うまい具合に口止めはできた、らしい。これでほかの子供達や大人達に話さなければいいが。
明後日。明後日自分が旅立つまでもてばいい。妙な騒ぎになっては困る。
「――ノノ! ノノ、どこにいるの?」
そこでふと、離れたところから声が聞こえてきた。少女があっ、と振り返る。
「いけない……ママが呼んでる……! 旅人さんは疲れてるから、遊びに行っちゃだめって言われたの。戻らないと、怒られちゃう!」
ノノという名の少女は、窓から離れるとたたた、と走り去ってしまった。その途中、振り返って「またくるね!」と手を振る。カラスは手を振り返さなかった。ノノの姿が消え去るのを、黙って見届けた。
いなくなって、カラスはすぐに窓を閉めた。カーテンも閉める。そうして溜息をついて、マントを椅子に投げた。
すこし、ひやりとした。自分の見た目を、気味悪がらない子供でよかった。
あとは口が軽くないことを祈るばかりだ……けれどもあの様子だと。
――やっぱり明日旅立とうかな。
それが一番、安全なような気がした。さっさと交換屋へ行って、その後『星油の泉』で星油を補給して。
ああ、でも、と思う。
ベッドに倒れると、長い髪が広がって、部屋の明かりにきらきらと輝いた。
――自分の髪や瞳が、あまり、好きではなかった。
他人とは違う、見た目。
けれども、ほめられたのは、いつぶりだろうか。
……自分の髪色が嫌いであるにもかかわらず、カラスが髪を伸ばし続けているのは、かつて、ほめてくれた人がいたからだった。
 




