第一八話 決意
いったい昨夜、わたしは眠ることができたのだろうか。苦痛と不安に攪乱された微睡みがひたすら続き、時間の感覚を失ったまま、気づけば少し空いたままの鎧戸から、朝日が部屋に差し込んでいた。
胸の奥でうごめく熱い塊は、まだ消えていなかった。鎧戸を開けて、朝の清浄な空気を吸おうとしたが、雨季の湿った空気が肺を撫でるだけだった。
目は開いているのに、目の前のものを、ありのままの姿で見ることができない。朝の王宮の景色までもが、いつもとまるで印象の違う、無味乾燥でとげとげしいものに感じる。
頭を振って、不純なイメージを脳裏から振り払おうとする。昨夜、微睡みの中で、何度も執拗に繰り返し、わたしを襲ったイメージ、見知らぬ顔に取り囲まれ、形を持たない獣がわたしを内部から貪るようなイメージに侵されて、今のわたしの主観は、ひどく歪んでいるように思われた。
こんな状態で、今日の任務が務めるだろうか。しかし、復帰初日から、悪夢で欠勤などとは、口が裂けてもいえない。額や脇に手を当てるが、熱があるわけではない。今日を越えれば、明日からはまた、王都巡察や王宮外の警護で、気が紛れるという可能性もあろう。今日一日、無理をしてでも乗り切ろうと決めた。
鏡で自分の顔を見ると、目の下に隈ができ、顔色がひどく悪い。見咎められないように、わたしは薬師のリーからもらった顔料を、目の下や頬に塗ってごまかした。
*
王宮中央棟で今朝の指示を受け、パーラ曹長と東宮へ向かう。
わたしが時折ふらつくのを見て、曹長が心配そうに「大丈夫ですか、レオ?復帰からすぐに宮内警護ではなくて、いまからでも、待機要員に替えてもらいましょうか」と言ってくれた。
心遣いは大変にありがたいが、なぜかその提案に乗る気になれなかった。長期休暇で勘が鈍りまして、面目ありませんとごまかして、東宮へ向かった。
東宮入口の扉が、わたしの期待と恐れの対象を内に蔵するように、禍々しく揺れて見えた。
ロロ王子の寝室前に到着すると、胸の熱はいよいよ激しくなってきた。すでにエルム嬢は、忙しそうに侍女たちに指示を出していた。
「まあ、レオ!」とエルム嬢が、わたしを見て明るい顔で言った、「無事の復帰、おめでとうございます。また貴女と一緒にお仕事ができて、とても嬉しいです。」
無理に作り笑いを浮かべて、お礼を言った。彼女に不調を見抜かれないか、ひやひやした。
「すでにお聞き及びかもしれませんが、ロロ王子もまた、貴女の復帰をお喜びです」と、エルム嬢が続けた、「実はあれから、貴女が遠からず免官されるのではないかと、わたしが王子に零したのです。すると王子は、あなたの罷免を妨げようと、王へ上奏されました。
王子は、貴女が自分への忠義心から、我が身を顧みず、あえて典医の医療について諫言に及んだのだから、自分にとって大切な家臣であると、堂々と王に仰いました。王も色々と思し召しがあったようですが、ともあれ、王子の願いがかなって何よりです。
今日は、王子も貴女に再び会えることを、楽しみにされていると思います。王子はまだお休みですが、もうすぐお目覚めになるでしょう。」
ロロ王子が、わたしの事をことさらに取り上げて、シェール王に直訴いただいた。王子のお心遣いに驚き、手足が震えるようだった。このご厚情に、なんとしても応えなければならない。しかし、わたしの不調は、須臾も収まる気配がない。
居室警護といっても、要は一日、部屋の前に立っていればいいのだ。何を大げさに考える必要があるだろう。そう、なんとか自分に言い聞かせようとした。
しかし、ロロ王子の寝室が少し開き、侍女の一人が顔を覗かせて、「王子がお目覚めになりました。もうすぐ、こちらに朝のご挨拶に見えます」と言った瞬間のことだった。
心臓が、意思を無視して狂ったように暴れはじめ、胸の中に溜まっていた溶岩のような熱が、堰を切ったように全身へあふれ出した。
*
とうとう、膝をついて倒れ込んだ。もう、我慢ができる状態ではなかった。
パーラ曹長とエルム嬢が、驚いてわたしの傍に駆け寄った。両手を床につき、息も絶え絶えに、申しわけありません、と口に出すのが精一杯だった。
王子に、こんな騒動をお見せするわけにはいかない。宮内から、近衛兵が引き払うことはできず、パーラ曹長は動けないので、エルム嬢が肩を貸して、急ぎ東宮から連れ出してくれた。二人は東宮から出て、王宮中央棟にある式部近衛課の救護室まで、彼女がわたしをなかば引きずるような格好で同道した。
「いったい、どうなさったのです」とエルム嬢が、わたしの体重の大部分を、自身のがっしりとした片肩に乗せて、王宮内を進みながら聞いた。
ためらったが、正直に言うことにした。
「あなたが警告してくれた乱心が、わたしに起きました。」
エルム嬢が声を震わせた、「まさか、貴女が!おお、なんと恐ろしいことでしょう。王子の格別のご厚誼をいただいた貴女が、そのような呪いにかかるとは。
どうか、間違いであってください!これまで、様々な災難があなたに降りかかって、お疲れが一挙に出ただけかもしれません。
どうぞお休みになって、万全の状態で、王子にお仕えください。そうすれば、あるいは……。私も切に祈っております。」
何も返事ができなかった。わたしも、何かの間違いであってほしい。しかし、王子の顔を思い浮かべるたびに、胸の熱が高まり、王子に近づけば近づくほど、それが大きくなるのを感じた今となっては、この症状を否定することは難しいように思われる。
そして、王子の力で乱心した者は、遠からず自身の精神を壊すか、王子に凶行を及ぼすおそれがある。事ここに至って、今後王子にお仕えすることは、もはや絶望的に思われた。
*
救護室に運ばれ、エルム嬢は不安な面持ちを残して去った。軍医がわたしを診察したが、病状不明とだけ言われた。もとより、正確な診断は期待していなかった。
手狭な救護室の、いくつか並んだ簡素なベッドの一つに仰向けに寝かされたまま、軍医も去り、一人、部屋に残された。
救護室は、元が何の部屋だったかわからないが、天井の木板が不格好なまま剥き出しになっており、その木目をぼんやりと見ていた。
昨日までは、典医に刃向かって馘首の危うきに至り、ロロ王子と会えなくなることを恐れていた。これは社会的な問題で、幸いに、両親や友人たちが助けてくれた。
けれども今日は、自分の心中の問題から、王子と会えなくなるのだ。
そして、エルム嬢の言うとおりに、王子の乱心は原因も対策も分かっていないならば、わたしにも、他の誰にも、打つ手はない。ただ、わたしが王子から離れることだけが、唯一の解決策だ。
どうしてこう、うまくいかないのだろう。
自分の未熟さが口惜しくて、歯を食いしばった。近衛兵として独り立ちしたくても、わたしは社会人として、まるで無力だ。何か面倒ごとが起きると、他人に助けてもらうばかりで、自分で我が身を処することができない。
自分の心中の乱れ一つ、律することができないではないか。ロロ王子への愛に、みっともなく振り回されて――――
はっと口許を手で覆った。自分の頭の中に、何気なく浮かんだ言葉に、愕然とした。
ロロ王子の不思議な力、乱心の正体が何であるかを、突然、はっきりと理解した。誰もいない部屋の中で、顔がみるみる赤面した。そんな畏れおおい感情を、まだわずか六歳の王子に対して、なぜわたしが――
――けれども、ロロ王子の、あの深く青い眼差しがこちらに向けられるイメージを想い描くと、そして、あの冷たい頬が、わたしの腹に押し付けられた、あの瞬間を思い返すと――
もう、二度と否定できない。誰にも打ち明けることのできない熱情が、魂の奥深くに、楔のように打ち込まれてしまった。
*
救護室のベッドの上で、顔を紅潮させたまま呆然としていると、なにやら部屋の外が騒がしくなってきた。救護室の扉がノックされたので、どうぞと言うと、扉を勢いよく開けて、シャーカ少尉が入ってきた。
少尉は、一時あってわたしを見つけると、「大丈夫か?」と聞いた。
「はあ。なんと申し上げていいか……」と起き上がろうとすると、
「いいから寝ておけ。その様子なら、大事でなくてよかった。いや、今ちょっと想定外のことが起きている。
ロロ王子がここに、お前のお見舞いに来ようとしているぞ。」
「ええっ!」思わず叫んで、上体を飛び起こした。
「起きるなというのに」と少尉に言われ、慌ててふたたびベッドに横たわると、腰まで掛けていた毛布を引き寄せて、顔を半分ばかり隠した。
顔が真っ赤になっているのを、少尉は気づいただろうか。あるいは、これも症状の一つだと、うまいこと勘違いしてくれないだろうか。
「なにをそんなに慌てふためいて……、いや、慌てるよな。王族が一介の近衛兵のために、こんな所までお出向きになるとは。
王子のご予定にはかなりの余裕があるから、他に差し障りがあるわけではないんだが、とにかく、まったく予定になかった急な決定だから、近衛課全体が、王子の出迎えに大わらわだ。
東宮からは、ごく非公式のお出向きだと言い添えられたが、だからと云って、こちらに手抜かりがあっていいわけでもない。
もうほとんど時間がないぞ。お前はとにかく、そこにそのまま寝ておけ。俺は王子の出迎えに参加する。一応、お前の直属の上司だからな。」
そう言って、シャーカ少尉は扉を開け、救護室を出ようとしたが、首だけ外に覗かせると、また室内に戻って、扉をそっと閉めた。
「いかん。もうそこまで来られた。」少尉は、扉の脇に直立し、出迎えの体勢に入った。
わたしはどうすればいいのだ。
ベッドで仰向けに寝たまま、王族をお迎えする作法など、聞いたこともない。姿勢を崩してだらりと寝るのは不敬に当たりそうだが、かといって、あまりきっちりとした姿勢で寝ていると、お見舞いの必要がない健康体のように見えてしまう。
何より、こんな風に毛布で顔をなかば隠したまま、謁見など許されるのか。しかし、ロロ王子にお会いする、それも、自分の想いに気づいた上でお目にかかることへの期待とおそれに、わたしの顔は、これまでにないほど紅潮し、心臓はおそろしいほど強く脈打っている。
*
救護室の扉が静かに開いた。
先頭にパーラ曹長が進み、その後から儀仗総括、そしてエルム嬢に伴われて、ロロ王子が部屋に入ってきた。他の侍従や近衛兵、軍医が続く。
狭い救護室が、人で満杯になった。
さすがにこれだけの面々の手前、毛布で顔まで隠すことができず、真っ赤に染まった頬を晒したまま、仰向けで皆の視線を受けた。心中を誰も知らないとはいえ、わたしにしてみれば、この扱い自体が、軽い公開処刑のようなものだ。
軍医がロロ王子や総括たちに、わたしの病状、要するに、原因も内容もよく分からないということを告げる。
エルム嬢が、不安そうな目でわたしの顔を見ていた。彼女が、わたしの乱心を懸念していることが、その表情から手に取るように分かる。わたしだって、いつ自分が無意識に、王子に狼藉を働かないか、不安でたまらない。
情けない表情で彼女を見返した。
やがて、ロロ王子が、ベッドの枕元に近づいた。そのすぐ後に、エルム嬢が控えた。
王子は、心配そうなお顔で、わたしの顔をじっとのぞき込んだ。
わたしの――その感情を表す言葉を、心に浮かべることすら憚られる――主君が、こんなにも間近に、すぐ手の届く場所にいる。身体は震え、頬から湯気が出るほど上気しながら、おそるおそる、王子の瞳を見つめ返した。
「だいじょうぶですか?」と、ロロ王子が優しいお声で仰った。
「はい」と、必死に応えた、「はい……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。わたしなどのために、このような場所にまでお越しいただいて、感謝の申しようもありません。」
「レオは、わたしのだいじな家臣です。どうか、ずっとわたしといっしょに、いてください。」
ロロ王子はそう言って、毛布の外に出ていたわたしの手を、そっと片方の手で取ってくれた。王子の掌は冷たかった。そうして、王子のもう一方の冷たい手が、わたしの額の上に乗せられた。
*
その瞬間、胸の奥で暴れていた黒い塊が、突然、爆発したように砕け散った。全身を侵していた熱は、王子の手の爽やかな冷気に、跡形もなく溶けてなくなり、思考と視界を覆っていた霧は、一陣の烈風に吹き飛ばされた。
あまりの急激な快復に驚いて、身体を半ば起こし、目を見開いてロロ王子の目を見ると、王子は、にっこりと邪気のない微笑みをわたしに向けてくれた。
「わたしも、元気になるように、がんばります。
レオも、はやく元気になって、わたしのそばにもどってきてください。」
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わたしは、すっくとベッドから起き上がり、呆気にとられた一堂に囲まれながら、枕元に立つ王子の傍へ跪いた。そして、王子に片手を取られたまま、言った。
「勿体ないお言葉をいただき、まことにありがとうございます。
わが命と生涯のすべてを、王子に捧げてお仕えいたします。」
王子は、わたしの手を両手で包んでくださり、きょうはゆっくり休んでくださいね、と慈しむような目で仰った。そうして、儀仗総括や軍医にご挨拶され、踵を返した。エルム嬢が、ほっと安心したような目でわたしを見た。
一行は、そのままぞろぞろと救護室を出て、あとには、跪いたわたしだけが残された。
*
底なし沼のような錯乱から一転、明晰になった頭で考えた。
そうだ、わたしはいま、ロロ王子に、命と生涯のすべてを捧げると誓った。
そうだとすれば、一体、わたしの想いや、胸の痛みがなんだろう。ただ、王子のために誠心誠意尽くし、そしてもし、わたしの存在が本当に、王子にとって害をなす時が来たならば、そのときは、この命を自ら捨てればいいだけの話ではないか。
なにも迷うことはない。ただわたしの全てを、ロロ王子に捧げればいい。何ものも何ものも、それ以外に重要ではない。
昨夜、わたしの胸を蝕んだ、あの黒い熱は、王子の呪いなどではない。わたしの迷い、わたしの濁った欲望だった。
いまや迷いは去った。
わたしはあらためて、王子に心からの忠誠を誓った。