第一六話 検証会議
(※ 注意)
この部分は、くどくどと書いてしまいましたので、飛ばしていただいても大丈夫です。
(話の筋には、ほとんど影響がありません。)
「どうして、父様がここにいるのですか。」
これが、王都に戻って、呼ばれるままに儀仗総括室に入ったときの、わたしの第一声だった。
儀仗総括の隣に立つ父は、何も言わず、ただにやりと笑った。
「私が呼んだのだ。今回の事の顛末を、ここですっかり検証するためにな」と、その場の主である儀仗総括が言った。
あらためて部屋の中を見回せば、部屋の中には、わたしの知った顔、知らない顔が、総勢七名そろっていた。いずれも、立派な身なりから、それなりの階級にいることが推測できる。
今さらながら、姿勢を正した。
「今回の件が、なぜこんな結末になったのか、儀仗第三係としては、皆目見当がつかない」と、儀仗総括のそばに立ったシャーカ少尉が言った。
「ここにご参集いただいた面々の、誰一人として、事の全貌を知っている者はいない。そこで、それぞれの立場から、この件について何を知り、何をおこなったかをご開陳いただき、突き合わせて、本件の事後検証としようというわけだ。」
儀仗総括が、参加者を紹介してくれた。
式部からは儀仗総括自身と、侍従総括。文部からは、附属文書館長と、典医室長。
軍部からは騎士兵団の第二大隊長として、父が。
治部からは貴族院参事なる人が、出ていた。
これに、わたしの直接の上司であるシャーカ少尉を含めて、七名というわけだ。
七名は、儀仗総括室の大きな丸テーブルを囲んで座った。
王宮は、中宮を挟んで西棟を左翼、東棟を右翼と、俗に呼ぶ。両翼には、式部以外の行政部が詰め込まれているが、左翼と右翼の仲は、一般に悪い。
文部と治部は左翼、軍部は右翼に属するから、本来彼らは犬猿の仲にあるはずだが、それが同じテーブルを囲んでいることになる。
わたしは、その一端に、肩身が狭い思いで加わった。
儀仗総括が口火を切った。
「お気づきのことかと思うが、今回の件では、左右両翼、そして、中道の式部のすべてが、役者として揃った。これだけの面々が、結論としてほぼ同じ方向を向いたのは、珍しいことだ。今後の官庁の動きかたについて、むしろ好個の先例となるやもしれぬ。
そこでまず、時を追って、今回の成り行きを辿ろうと思う。
以下、順に御参列の面々にご発言をお願いするが、どうか包み隠すことなく、事実を忌憚なくご教示いただきたい。」
こうして、本件の検証会議がはじまった。
要するに、わたしが実家でのんべんだらりと過ごしている間に、わたしの首について「なんとかなった」のはなぜか、ということを知る会議だ。
実に混み入った経緯が報告され、わたしは自分の運命を左右した経緯を聞いているのに、ときどき話についていけなかった。
記憶と理解の及ぶ限りまとめれば、こんな次第だ。
*
四月四日
わたしが典医に刃向かった日、シャーカ少尉が、昼前にわたしの謹慎処分について手続きを行うとともに、この一件を近衛課本部に報告した。
文部のほうでも、件の典医が文部附属典医室に報告した。彼は、わたしの除隊を強く求めたらしい。
侍従課もまた、エルム嬢からの報告により、昼過ぎにはこの件について知るに至った。
近衛課は、夕刻に緊急会議を開いた。
その場で、わたしのこれまでの経歴や勤務態度、資質、主君に対する忠義について触れられた。
その結果、せいぜい訓戒か減給相当で、除隊には及ばない、相手方からの申立てがないかぎり、積極的に処分はしないとの結論を、早々に得た。
態度が決まれば、あとは典医室の出かたを待つばかりという段で、この会議は終わった。
典医室では、室長が頭を悩ませた。
ありていに言えば、大の大人が小娘の近衛兵一人にすごまれたといって、暇を出せと騒ぎ立てるのは、あまり体面のよいものではない。
しかし、件の典医は鼻息が荒い。無下にも扱いかねるので、しばらくはのらりくらり、当人の頭が冷えるのを待ってから、式部へ苦情のひとつも云おうか、という程度で、この日はうやむやの内に話を終えた。
*
四月五日
午前中、つまりわたしが護送馬車に揺られているころ、休暇中の儀仗第一係の近衛兵から、儀仗総括に面会の申立てがあった。総括は多忙のため、翌日の午前中に面会の予定が入った。
この近衛兵とは、テーセルのことだった。
テーセルは次いで文書館にも現れ、デゼーと会い、午後には侍従課に連絡の上、エルム嬢にも接触した。
どうやら、エルム嬢から、事件の細かな事情を聞き取ったらしい。
そういえば、ホーレーは、この日の夕方に、テーセル、デゼーと三人で相談したと言っていた。情報を集めた上で、戦略を練ったのだろう。
テーセルが本気を出したときの行動力に驚いた。
*
四月六日
昼前、議場総括がテーセルと面会した。
その場でテーセルは、一〇頁近い学術報告書を総括に手渡した。見れば、「内容審査中」として、文書館長の署名が付されている。
報告書は、デゼーが文書館中の資料をひっくり返して徹夜で仕上げ、テーセルがその横で写本を作ったものだった。デゼーは、無理を言って、この学術報告を論文審査手続きに乗せ、その日の朝のうちに、手続き開始の旨を文書館長に署名させたらしい。
報告書の中身は、古文献に記述された医術の、その後の変遷についてである。
そこには、二〇〇年ほど前からの文献を遡りながら、瀉血という治療行為の扱いについて、報告されていた。
まとめれば、こうである。
―― 瀉血は元々、西域の民間療法で用いられた、宗教的な背景を持つ施術であり、ごく一部の症例に対してしか有効でないとされた。また冷水浴との併用が禁忌である旨、古語で明記されていた。
だが、五〇年ほど前に文部医課の刊行した施術手引には、瀉血の宗教性や、禁忌についての記述が、なんらかの理由により欠落した。
さらに、二〇年ほど前、全国に痘が流行った折に、瀉血が有効と吹聴されて、それ以来、万能の治療法であるかのような見解が、文部医課に広まった ――
この情報は、件の典医が王子に施した治療が、禁忌であることを教えている。典医室にとっては、致命傷に近い情報が、審査中とはいえ、すでに文書館長の署名付きで、学術報告として出されているのだ。
総括はテーセルに、これをどうしろというのかと問うた。
彼女は、これを典医室長経由で、件の典医に手交するよう求めた。そして、典医がわたしの処分申立てを控えれば、この学術報告も審査手続き半ばで取り下げると、伝えてほしいと言った。
先方の弱みとなる情報を握っていると知らせて、脅しをかけようというのである。
総括は、これを直ちに公表して、件の典医を失脚させるのでないのか、と聞いた。
するとテーセルは、その方法は時間がかかる、本件の収束に相手の失脚までは必要ない、相手に逃げ道を残さなければ、窮鼠猫を噛むのおそれがある、客観的な論拠で追い詰めつつ、こちらが良しとする逃げ道を空けてやるのが、交渉の常道だ、と指摘した。
儀仗総括は、彼女の冷静かつ周到な戦略に、舌を巻いた。この文書は、その日のうちに儀仗総括が典医室長室まで赴いて手交し、ただちに件の典医にも渡された。
これで、わたしの処分は沙汰止みになると、儀仗総括も、典医室長さえも考えた。
ところが、当の典医がそれを拒んだ。瀉血の正当性について反論の論文を書いてでも、個人として処分申請は行うというのだ。
ずいぶんと頑迷な態度だが、当人にしてみれば、わたしのみならず、文書館からも、自分の治療の正しさに横槍を入れられたことが、腹に据えかねたのかもしれない。
哀れなのは典医室長で、彼は途方にくれた。
*
四月七日
事態の推移は予断を許さない状況だったが、翌日には、さらに予想外のことが起きた。
この日、軍部から文部医課に対して急遽、「近時の軍事作戦における、兵士への治療の有効性について」という質問書が提出された。
そこには、戦時における軍医の医療行為により、兵士が死亡または重篤をきたした例が多数報告されていた。
有効性に疑問のある治療法の一覧の中には、傷創部位の切断等のほか、瀉血もあった。
文部医課は、およそ国内にいる正規の医師のことごとくに対して、施術の手引きを指導する。典医もその例外ではない。
その、文部医課本体の治療方針に問題があるというのだから、ここで、今回の医療行為への疑義は、典医室の中で握りつぶせるものから、医課全体の問題に発展した。
この質問書を企画したのは父だ。とはいえ、この問題は前々から軍部で問題となっており、父は最後のひと押しをしたに過ぎないらしい。
さらに、その日の午後遅く、治部の貴族院から、文部医課長に面会があった。
治部は、全国の領邦の治安維持や徴税を主に行うが、その関係で、中央、地方貴族の意見をとりまとめる貴族院が置かれている。
その貴族院から、国内の医療行為に関して、軍部と同じような疑義が出されたのである。
主たる話題は、国内における乳幼児の死亡率の上昇だった。
その遠因の一つとして、民間療法では概ね否定されている、瀉血等の不適切な治療行為があるのでは、と言及があった。
どうして、よりによってこの時機に、治部からこのような指摘が出るのか。
仕掛け人は、騎士アーンディーの妻クリーンヴェクティ、つまりはわたしの母だった。貴族生まれの母は、自分の実家に駆け込んで、娘であるわたしの窮状を訴え、貴族連から文部医課に圧力をかけるよう、実家の族長――大公にも当たる身分らしい――に請願したという。
わたしが帰郷した次の日に、母が父と王都へ出掛けたのは、つまり、こういう意図があったのだ。
*
文部医課は少なからず当惑した。
左翼の治部と、右翼の軍部の両面から、期せずして同じ問題を指摘されたのだ。緊急に、医課の全体会議が開かれた。その場には、役職者の一人として、典医室長がいた。
議題を聞いて、典医室長は、心臓が凍りつくほどの恐怖を覚えた。
まさしく、自分の手元にある学術報告書は、典医室のみならず、文部医課全体を吹き飛ばすほどの威力を持った、危険文書であることが分かったからである。
この文書は、文部医課の数十年に渡る誤ちと、多くの乳幼児や兵士に対する医療過誤を立証する証拠である。
今は近衛課と典医室限りで伏せられているこの文書は、わたしの処分手続きが進めば、遠からず世に顕かにされるだろう。
典医室長は、あらためて件の典医を説得にかかった。
当人も、たかが一近衛兵を排するだけの問題が、ここまで飛び火するとは夢にも思わず、当惑したらしい。
*
そして最後に、典医にとっては最悪の、わたしにとっても驚きの事態が発生した。
ロロ王子が、典医の治療方法を変えるよう、またわたしを放逐せぬよう、シェール王に上奏したのである。
王子は、体調不良を押して中宮へ参内し、嘆願された。
王は、王子のはじめての嘆願に驚いた。はじめは気弱な王子の我儘かと思されたが、よくよく話を聞けば、典医の長年の治療によって、かえって王子の病状が悪化しているのでは、との疑いも生じた。
それと同時に、治部と軍部の騒ぎについても、王の御耳に入った。
*
四月一〇日
そこでついに、御前会議において、文部医課の発布する施術手引の当否が議題に加えられた。
ロロ王子の治療は、その傍証として扱われ、件の典医が、御前会議に呼びつけられた。
居並ぶ大臣たちの背後に座して、この御前会議に参列し、その一部始終を目にしたのは、検証者の中では、儀仗総括、侍従総括、典医室長、貴族院参事の四名だ。
王が、全国の乳幼児の死亡率などについて、ひとしきり報告を受けた後、参考人として立ち尽くす典医に問うた。
「王子の病状は、どうなっているか。」
「現在のところ、一進一退でございます。」
「すでに、発症より五年になる。治療にあと何年を要し、どの程度回復するか。」
「明確な見通しは得られぬ状況でございます。」
「現在の治療方法をやめれば、王子は悪化するか、変わらぬか、快復するか。」
「王子の御身で試すことは畏れ多く、俄かにお答えすることは難しゅうございます。」
「現在の治療法は、他を以って換え難しといえるか。」
「改善の余地なしとは申し上げられません。」
「別の治療を試せ。」
このやり取りで、すべてが決まった。
典医は大いに意気阻喪し、わたしへの処分申立ては立ち消えになった。デゼーは、報告文書の審査申請を取り下げ、典医室長は胸を撫で下ろしながら、報告書の正本を握り潰した。
医課の施術手引は、これという根拠も示されないまま、全部見直しとなり、瀉血等の治療行為は当面、国内の全地域で控えられることになった。
ほとぼりが冷めた頃に、デゼーの学術報告があらためて公表されれば、それは、文部医課の自主的な治療改善を後知恵として検証する、ささやかなものにとどまる、というわけである。
(2019-05-20)
明らかにおかしい記述がありましたので、一部修正しました。全体の筋に、変更はありません。