第一五話 雨
次の日も、母は帰ってこなかった。
母と顔を合わせるのは、はっきり言って気詰まりだ。とはいえ、一日中、誰の相手もせず手持ちぶさたなままに、いつ来るともしれない処分通知だけを待つ、というのも、心に絶えず得体の知れない不安を抱えながら、緩慢に流れる時をやり過ごさなければならないのだから、なかなかに気疲れするものだ。
しかも、わたしは自宅謹慎を命じられているので、実家の敷地から外に出ることは、まかりならない。自然、実家の母屋と庭を、なんの用もなく行き来する以外に、やることはなくなる。
ほぼ一年ぶりの帰郷で、目新しく感じたもので、気を紛らわせようともした。
たとえば、孔雀草の花壇の手前に、千寿菊の花がそこかしこに植えられ、可愛らしいオレンジの彩りが庭に加えられていた。庭の池に差し渡されていた、なかば飾りの石橋にこびりついていた苔が、数年ぶりにすっかり洗い流されていた。下の弟が何度も派手に食べ物をこぼしたせいで、とうとう食堂の絨毯が新調された。
けれども、こうしたことの新鮮な印象は、一日もたてばすっかり褪せてしまい、あとはただ、侍女たちがときどき目の前を行き来するだけの、もの寂しい実家の中で、時間をもてあましていた。
テーセルやデゼーは、今ごろ、わたしのために「働きかけ」をしてくれているだろう。
一刻も早く、彼女たちに会いたい。彼女たちの前に立って、わたしは大丈夫だと元気な姿を見せ、彼女たちを安心させたい。そうすることを強く願っても、叶わないのがもどかしい。
そのほかの、任務や、ロロ王子のことを考えると、心の平衡が崩れてしまいそうなので、少なくとも日が高いうちには、なるべくそのことを考えないように努めた。
*
実家に帰って四日目、朝からおだやかな雨が降っていた。弟たちは、笑いながら初等学校へ走っていった。
庭を散策できないので、ますます時間をもてあました。とにかく身体を動かさないと、暗い考えに取り憑かれそうなので、侍女たちに混じって、掃除や皿洗いの手伝いをした。
侍女たちは驚いて、畏れおおいなどと言ったが、こちらは必要があってやっているのだ。むしろ、手慣れぬ素人が闖入して、迷惑をかけているのが申し訳ないくらいだ。
それにしても、と、皿洗いをしながら考えた。母は、なぜこんなに長い間、家を空けるのだろう。不祥事を起こした娘と顔を合わせるのを、疎んでいるのだろうか。
子供のころから、母に優しくされた覚えはとくにないが、わたしが落ち込んでいる今くらい、気遣ってくれても罰はあたらないだろうに。
*
などと考えていたら、娘の心を知ってか知らずか、母が昼前に帰って来た。
午前中、ずっと小雨が降りしきる中、ぬかるんだ道中をひたすら、貴族用の馬車でえっちらおっちら、王都からここまで進んできたらしい。車輪には泥がこびりつき、よくも道を踏み外さずに、家までたどり着いたものだ。実家の門までたどり着いたこと自体、慈悲深い神が、母を哀れんで下された恩寵のように思えた。
母は玄関に入るなり、「レオ!レオはどこです。」と叫んだ。台所にいたわたしは、珍しい母の大声に驚き、小走りに玄関へ出て、母と対面した。
そのときの母の姿といったら、いつも気高く、完璧な着こなし、身のこなしを信条とする母からすれば、控えめに言っても、見るも無惨なものだった。
わが家の馬車は、雨にそなえて簡易な屋根を頭上に張ることができるものの、それだけで今日の、霧にも似た雨を長い間、しのげるはずもなく、かわいそうに母は、ずぶ濡れになっていた。かなり高価そうな他所ゆきの服には、大胆に泥が跳ねており、念入りに洗濯しても、ふたたび着られる状態にまで戻せるとは、ちょっと考えられなかった。
母が、わたしを睨んだ。母の怒りが、濡れた身体から湯気のように立ち昇る。背筋が凍りついて固まった。
母の怒りの源泉はなんだ。このだらけた謹慎生活に、堪忍袋の緒が切れたか。あるいはもしかして、王都でわたしの不行状について、いろいろ見聞きしてしまったのだろうか。
母が次に口にする言葉に、戦々恐々とした。
一時おいて、母は、つとめて声を抑えるように言った。
「思ったより、遅くなりました。忌々しい雨に、すっかり、予定を台無しにされたわ。こちらは、変わりありませんでしたか。」
「はあ、特になにも。」意表を突かれ、つい気の抜けた声を出した。
「それなら結構です」と母は短く言い、次いで、おそろしい早口で、侍女たちに風呂と着替えの準備を命じると、つむじ風のように素早く、自室へ引っ込んだ。
わたしは、玄関に突っ立ったまま一人取り残され、ため息をついた。
母は、なにかの叱責を呑み込んだのだろうか、それとも、雨に対する八つ当たりを抑えただけだろうか。
親と子という、長い人間関係の物語には、積もり積もった、短い言葉ではとても言い表せないものもある。
当面、母の雷を避けられたならば、それで十分だ。
*
母が帰ってから、やることが本当になくなった。
雨は、午後になってもずっと降り続いていた。庭の池は、すでに溢れそうになっており、白い砂利道も水がはけきっていない。庭を歩くこと自体、馬鹿げたことになりつつあった。母の手前、侍女たちに混じって家事の真似ごとも憚られる。
万策尽きて、居間の簾を一枚上げ、窓の近くに立って、しばらく雨の庭を眺めた。
簾の向こうには、色彩をなかば失った、青と灰色の中間のような、鈍い単色の風景が広がっていた。その中で、庭の奥手に暗く広がる灌木林から浮かび上がるように、花咲く菩提樹が白抜きの輪郭を際立たせ、ほのかに輝いているように見えた。芝生の緑はほぼ冠水して、雨煙に暗くよどみ、冬の海を思わせた。あらゆる生き物は息をひそめ、ささやくような雨音が、庭を神聖な静けさで満たしていた。
細かな雨が、絶えず均質に視界を覆っているからだろうか。遠近感が失われ、庭の眺めが、まるで一枚の、揺れ動く平坦な絵のように見えた。大きな灰色のシーツに、庭の情景を幻灯で映しているようだ。
ふと、視界の隅に、子供のころのわたしが、裏手口を抜けて、村の本通りへと駆け抜けてゆく姿が見えた気がした。雨の揺らぎが見せる幻だろうか、それともわたしの白昼夢が、雨の画布に映し出されているのか。
幻影は、とりとめもなく次々に表われた。士官学校の、教室の隅に座る友人、窓からの逆光に照らされるシャーカ少尉の影、休暇日の夕辺に、レストランの前に立っていたホーレーの姿、寝室に戻られる前に、不安そうにこちらをちらりと見た、ロロ王子の暗く青い瞳。
その瞳と重なるように、もう一つの眼差しが、こちらを見返している。色褪せた暗い部屋の中、老いた女が振りかえり、後悔を滲ませた目で、わたしを見つめる。
あれは、遠い未来のわたしだ。
一時の過ちで、本当に大事なはずのものを手放してしまった今のわたしを、思い出しているのだ。彼女は諦め混じりにむこうへ向き直り、目を伏せる。眼差しの先には、もう何もない。
生涯の最後、老いに目を瞑るとき、遠く去ったロロ王子の姿を、どんな風に思い出すのだろう。
涙が頬を伝った。
*
「お茶にしましょう。」と、背後から明瞭な声がした。心臓が跳ね上がり、慌てて振り返ると、すこし離れたところに、母がすっと立っていた。
母はいつもの、無表情な厳しい顔で、こちらを見ている。湯浴みも着替えも、すっかり終わったようで、いつもの隙のない姿に戻っている。
泣いているのを見られてしまっただろうか。いや、わたしは外を向いていたし、部屋は薄暗いから、大丈夫だろう。
「簾を上げたのなら、そのまま庭を見ながらお茶を飲むのもいいわね。テーブルと椅子を持ってこさせましょう」と、わたしの心臓が激しい鼓動を打っていることなどお構いなしに、母は、てきぱきと侍女たちに指示を出した。わたしに拒否権はないようだ。
ほどなく、居間の簾がすべて巻き上げられ、庭を広く見渡せる場所に、小ぶりのテーブルと籐椅子が二つ、並べられた。雨の日特有の柔らかな光が、細かな湿気とともに、部屋の中に立ちこめた。
母とわたしは籐椅子に座り、侍女がお茶とお菓子を出してくれた。テーブルを挟んで、二人とも椅子を庭に向けている。母と二人、こんな風に過ごすのは初めてで、どんな顔をしてよいか分からない。
母は、いつもの澄まし顔で、優雅にお茶を口に運ぶ。
沈黙が場を支配する。何か話したほうがいいのだろうが、何を話すべきか、まったく分からない。母と無駄なおしゃべりなど、想像もつかないのだ。
蛇の隣に身を潜めるネズミのように、縮こみながら、お茶に口を付けた。母は、じっと庭を見つめたまま、なにも喋ってくれない。
庭に落ちる雨の一粒一粒が見えるのではないかと思えるほど、時間がゆっくりと進んだ。
*
だいぶ時が経って、ふと母が口を開いた。
「菩提樹の花が咲いているわね。」
「ええ、とても良い匂いです。」なんとか話を合わせようとする。
「父様と結婚したとき、実家の庭に生えていた樹から、苗木を作ったものです。」母が訥々と話し始めた。
「ずいぶんと結婚に反対されたから、実家とはなかば喧嘩別れだったわ。家を出て、はじめて父様と二人で暮らしたときには、まだ鉢植えで、この家に移り住んでから、あの場所に植えたの。
菩提樹は生長が遅いから、鉢植えの時はずいぶんと気を揉んだものだけど、植え替えてからはびっくりするほど早く、あそこまで大きくなった。」
初めて聞く、母がまだ若いころの話だ。「植えた場所がよかったんでしょうか。」と、何の気なしに聞いた。
「そうね、」と母が答えた。母がわたしの言葉に、素直に返事をするのはめずらしい。
母は、庭を見つめたまま、続けた。
「私の結婚も、さんざん親戚に罵られましたけど、父様が騎士として立派におなりあそばして、私の誇りは保つことができました。つらいこともあったけど、誇りは、長い時間をかけて、ようやく確かなものになってゆくようです。
樹と同じで、たとえ正しくまっすぐに育っていても、その成果がすぐに見えるわけではないのね。適切な長さの時を、待たなければ。」
雨足が弱まり、外が少し明るくなった。
わたしは、雨上がり前の淡い光を受けて庭を見つめる、母の顔を見た。
そのときはじめて、母が、子供のころから慣れ親しんできた、母親という記号のような役どころではなく、その表情に人生の様々な襞や複雑な陰翳を含んだ、一人の人間の顔をしているように見えた。
よく見れば少し白いものが混じる、完璧に梳かれて髪留めでまとめられた黒髪、眉間に刻み込まれたごく小さな皺、長年の習慣によって自然と固く結ばれた口許を見るにつけ、母はこんな顔だったのかと、新鮮な驚きの気持ちが、胸にじんわりと広がった。
*
玄関のほうが騒がしくなり、弟たちが帰ってきたことを知った。母はすっと籐椅子から立ち上がると、無言で玄関のほうへ向かった。しばらくすると、弟たちに足の泥を落とし、風呂に入ることを、冷然とした口調で命じる母の声が、玄関から聞こえた。
そこから先は、父以外の家族が揃った、いつもの実家になった。
母は、実質上の一家の長として、家のすべてを采配し、侍女たちが、実に機能的にそれに従う。わたしと弟たちは、ときに叱られ、ときに許され、いつも少しばかり窮屈な思いをしながら、母の子として、めいめい好きに過ごすのだ。
その夜のうちに、雨は上がった。
次の日、わたしは、雨上がりの庭を掃除すると、母に宣言した。
母は、とくに何も言わなかった。これで、当面の気晴らしは確保できた。
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そうこうしているうちに、実家での謹慎生活は、一週間に及んだ。
実家の安逸さに慣れつつも、しまいには疑問と焦りを感じはじめていた。
どうして、いまだに処分の通知が来ないのだろう。わたしが狼藉をはたらいた典医は、その日のうちに、近衛課にも侍従課にも報告したはずだから、遅くとも、二~三日もあれば、処分は決められるはずだ。
除隊だろうが打ち首だろうが、ともかくはっきりしてくれなければ、こちらとしても居心地が悪くてかなわない。
あるいはもしや、すっかり油断しきったところを狙って、まるで犬のように寝首を掻き切るような、そんな絶望的な処刑こそが、わたしの行った悪事にはふさわしい、という話にでもなっているのだろうか。
などと、あれこれ考えていたら、とうとう早馬で、通知が届いた。式部全体の総務課から、処分決定が送られるのかと思ったら、差出人は、シャーカ少尉個人だった。
やけに簡素な封筒を切って開けると、中には乱雑な字で、ごく簡単な文句だけが書いてあった。
「お咎めなし。即刻王都へ戻れ。 シャーカ」