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レオと青の宝玉  作者: 上原 青
第一章
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第一四話 友の訪れ


 いつの間に寝入ってしまったのか。気づいたら、窓の帳に、朝の光が滲んでいた。


 両の目尻に、涙の跡がついている。身体がすっかり強張って、上体を起こすだけでもあちこち痛む。いったいどのくらい泣いたのだろう。そのまま、気を失うように眠りに落ちたのに違いない。

 昨夜、わたしに覆い被さり、心を窒息させた真っ暗な絶望は、陽の光の中で、白けた空虚のように、胸の奥の傷跡として残っていた。ロロ王子にもう会えない、その一つのことをちらと思い出しただけで、今でも、爪先から身体が凍りつくようだった。


 身体を無理にベッドから起こして、部屋を出る。すぐに侍女が気づき、着替えを持ってきてくれた。部屋に戻って着てみると、母のゆったりした普段着だった。わたしがあまり私服を持っていないから、貸してくれたのだろう。


 編んだままの髪をいったん解き、浴室で顔を洗う。いま何時だろう。窓の光は柔らかく、家の中がやけに静かだ。侍女に聞くと、もう皆は朝食をすませたという。わたしがぐっすり寝ていたので、起こさず寝かせてやりなさい、と母が言ったらしい。弟たちは、もう初等学校へ登校してしまった。

 母はどこにいるのだろうと思ったら、侍女が、「ご主人様と奥様は、朝一番に揃ってお出かけになりました」と言う。父と母が二人で外出など、珍しい。一体どこへと尋ねると、王都、とだけ答えが返ってきた。


 「奥様より、お嬢様は本日、静養のため自宅からお出にならないようにと、お言付(ことづ)けをいただいております。奥様は、今夜帰宅予定ですが、事情次第では、王都で一泊し、明日お帰りとのことです。」


 昨夜の全員集合から一転、今日は家にひとりきりである。こうも静かだと、広い食堂でひとり、朝食を摂るのも味気ない。朝食は、自室で食べることにした。そう告げたら、侍女の一人が、自室まで朝食を運んでくれた。

 まさに上げ膳据え膳だが、自分のことを自分で始末する近衛兵の生活に慣れると、気後れしてしまう。入隊前は、これを当たり前のことだと思っていたのだろうか。思っていたのだろう。

 子供時代の自分が、よくよくの世間知らずだったのだと実感した。


   *


 朝食を摂ると、やることがなくなった。

 やるべき仕事がないと、間がもたない。何もしていないと、昨夜の暗黒が心をふたたび捉えそうで、怖い。

 わたしは身震いし、庭をぶらつくことにした。


 雨季の半ば、花木たちは生命の燃え上がりを見せていた。周囲の灌木の葉は瑞々しく、庭に設えられた小さな池の中には、繁茂した藻草が緩やかな水の流れに揺れていた。円形の庭の中心にある菩提樹が、枝いっぱいに薄黄色の花を咲かせ、甘く優しい香りが、庭じゅうに広がっていた。

 晴れ上がった午前中の庭は、陽光がさんさんと降り注ぎ、目を細めなければ、眩しさに周囲を見渡すことができないほどだった。胸の奥に刻まれた傷は、まだ疼いたが、そんな心持ちもお構いなしに照りつける太陽の光に、わたしの心は少し慰められた。


 菩提樹の根元に腰を下ろして、幹に身体を寄せた。

 祝福の木として知られる菩提樹は、下から見上げると、枝が放射状に伸び、花はまるで果実のように、鈴生りに垂れ下がっている。肺の隅々にまで染み渡るような、濃い花の香りを吸い込んだ。

 そのとき、わたしはずっと昔にも、この香りに触れたことがあることを思い出した。その時の情景が、突然、目の前に広がった。


   *


 わたしはまだ小さな子供で――五歳くらいだろうか――この菩提樹の木の下にいた。

 幹からそっと顔を出し、誰かから隠れているのだろうか。母屋のほうに、若い父らしき人影が見える。ぼんやりとだが、父が笑っているのが分かる。きっとわたしと、かくれんぼでもしているのだろう。

 庭の中は、光が洪水のように溢れて、自分が木の幹に隠れているのか、光の中に隠れているのか、よく分からない。頭上の菩提樹は花盛りで、わたしは甘く濃い芳香に包まれている。

 楽しいとか幸福とか、一言で言い表せない気持ちが、心の中に満ちている。


 と、そのとき、ふと考えた。

 いつか、いまと同じように、この菩提樹の花の香りを嗅いだとき、未来のわたしは、今のわたしがこんな気持ちでいたことを、思い出すのだろうか。そして、今のことをこんな風に思い出すだろうと考えたことも、思い出すことができるだろうか。

 それとも、そんな事どもは、すっかり忘れてしまって、未来のわたしは、今のわたしを置き去りに、その先のさらなる未来へ去ってしまうだろうか。


 でも、わたしが云っている、今とはいったい、いつだろう。

 五歳のわたしが、一五歳のわたしに思いを向けているのか、それとも、一五歳のわたしが、もっと遠い未来の、わたし自身のことを考えているのだろうか。


 光が眩しくて、周囲の景色がよく見えない。

 もたれかかった菩提樹が地面に落とす影が、わたしの視界をわずかに確保し、その花の香りだけが、たしかな感覚に感じられた。

 まるで、光の海の中に、菩提樹の孤島が浮かんでいるようだ。


 わたしはどこにいるのだろう。



 そして、ぼんやりと気づいた。




 ああ、わたしは今、いつかわたしが五歳の少女になったとき、今のことをこんな風に思い出すだろうかと、思いを馳せていたのだった。





 今とはいったい、いつだろう。




   *


 気がつくと、菩提樹の根元で眠り込んでいた。強い日差しを遮る木陰を微風が通り抜け、ほどいた髪をくすぐって、揺らしていた。

 奇妙な考えに取り憑かれた不思議な夢の名残りに、頭を少しふらつかせながら、母屋に戻った。どうもわたしは、いつの間にか、夢の世界に迷い込んでしまう癖がついたようだ。近衛兵になる前には、こんなことはなかったのだが。



 なにか、軽くお腹に入れておこうかなと、台所へ行こうと思ったら、家の中が騒がしい。何ごとかと思えば、来客のようだ。ほどなく侍女の一人が、「お嬢様、お嬢様に御来客です。男性の、近衛兵の方です」と教えてくれた。


 わたしに、近衛兵の来客。

 いよいよ、除隊宣告か、それとも死刑執行人のお出ましだろうか。そんなに(いかめ)しい来客を、こんなにくつろいだ、解いた髪に部屋着の姿で出迎えてよいものか。もし死刑執行ならば、わたしのほうでも、何か特別な制服を着るのではないか。それから、執行に際しては、抵抗してもかまわないのだろうか。昨夜のうちに、父に聞いておけばよかった。

 などと考えながら、実家の正門へ向かう。そこにいたのは、馬を繋いでいる最中の、見知った顔だった。


 わたしはびっくりして、「ホーレー!」と呼びかけた。彼はわたしを見つけると、急いで駆け寄り、わたしの両肩を掴んだ。

 ホーレーは、気が動転したようにまくしたてた。

 「レオ!ああ、大丈夫だったかい?手紙をもらって、びっくりしたよ。それから、近衛兵団の中で、事件のことを聞いたんだ。

 もう、どうしていいか分からなくて。レオは大丈夫かい?顔が青いよ。誰かに何かされなかった?」

 彼に掴まれた両肩が、痛いほどだ。彼がこんなに大きな声を出すのを、はじめて聞いた。


 「落ち着いて、ホーレー。わたしはすっかり平気よ。わたしは何かした側で、されたわけじゃないもの。それよりあなた、仕事はどうしたの。どうしてこんな時間に、こんな所にいるの?」


 「仕事は今日、休暇をもらったよ」と、彼は答えた。「昨日、テーセルと相談したんだ。彼女が僕に、レオのところへ行ってくれと頼んだんだ。

 昨日の夕方、三人で集まって話し合ったんだ。テーセルとデゼーは、この件について、何か策を講じるらしい。具体的なことはよく分からないけど、二人で今から働きかけの準備をすると云っていた。

 そう、二人からの手紙も預かっているよ。といっても、急いで書き付けたものだけど。」


 ホーレーは胸のポケットから、二枚の紙を渡した。開くと、流れるようなテーセルの字、のたくるようなデゼーの字で、それぞれ、こう書いてあった。


 「レオへ

 手紙を読みました。大変だったわね!

 決して何も心配しないで。すぐにまた会いましょう。

   あなたを愛する忠実な  テーセル」


 「レオ

 わたしとテーセルで、あなたの力になります。

 ようやく、士官学校時代の恩を、少しでもお返しできて嬉しいわ!

   心より  デゼー

 (追伸)テーセルの『あなたを愛する~』は、どうかと思うわ。」


 友人たちの行動力に仰天した。わたしとしては、今生の、とは言わないまでも、しばしの別れのつもりで、あの手紙を書いたのだが。

 でも、わたしの友達は、そんな独りよがりの感傷を、軽々と飛び越えてくれた。そして何よりも、短くとも心のこもった、大事な手紙を携えて、わたしの元にまで駆けつけてくれた、目の前の友人の存在が、とても嬉しかった。


 「ありがとう、ホーレー。こんなにも早く、わたしに会いに来てくれて。ずっと馬に乗って、疲れたでしょう。今日はあいにく、父も母も家にいないから、ちゃんとしたご挨拶はできないのだけれど。どうぞ、家の中で休んでちょうだい。

 わたしも、まさかあなたが来てくれると思わなかったから、こんないい加減な格好でごめんなさい。恥ずかしいわ。」


 ホーレーはそう言われて、わたしの姿を改めて見ると、とたんに顔を赤くして答えた。

 「いや、今日のレオの格好も……うん、とても綺麗だよ。あの、ここがレオの実家なんだね。ご両親にご挨拶は、……いや、僕はぜんぜん、今日はそんなつもりじゃなかったから。

 あの、それじゃお邪魔するよ。ありがとう。」


   *


 応接間で、侍女がお茶とお菓子を用意してくれた。

 ホーレーは、実家の調度や庭、それに侍女の存在に驚いたようだ。「レオって、本物のお嬢様だったんだね」と、感心していた。

 そういうものだろうか。聞くと、父親が重歩兵のホーレーの家は、無骨で殺風景そのものらしい。そう聞いて、改めて見回せば、この応接間は、東宮内でよく待機していた、王子の寝室前の広間にも幾分似ている。たぶん、これが貴族風の調度なのだろう。

 父は豪放な性格だから、この家のあれこれを自分で手配したとは思えない。たぶんこれも全部、母の采配なのだな、と推測した。


 わたしたちはお茶を飲み、それから、お昼すぎの庭を一緒にそぞろ歩いた。落ち着いた黒い眼差しの、背の高いホーレーが、いつもと変わらず微笑みながら、わたしの背にいてくれると、身体が暖かくなるようで、心の深くから安堵した。

 一昨日からずっと続いていた緊張が、ようやくほぐれてゆくのを感じた。

 

 ホーレーは、一刻ほど家に滞在してくれた。その後、今日中に王都に戻らなければならないのでと、馬で帰ることになった。

 「それじゃ、レオ。テーセルも手紙に書いていたけど、またすぐに会えるよ。王都でね!」と、ホーレーは言って、もと来た道を戻っていった。


 わたしは、彼の姿が見えなくなるまで、門の前で彼を見送った。


   *


 ホーレーがいなくなると、広い実家に、ふたたび侍女たちとわたしだけになった。

 湯浴みをすませると、夕方には弟たちが帰ってきたので、寂しさが紛れて助かった。

 その後、けっきょく父も母も帰ってこなかったので、わたしと弟たちだけで夕食を摂った。このときは、王都と王宮の話を、たっぷり話して聞かせた。


 夜になり、自室に戻ると、また様々な思いが去来した。

 ロロ王子の顔を思い浮かべると胸の奥が苦しいほどに熱くなり、その王子に会えないことに思いを致すと手足が芯から冷えるという、ぎくしゃくした調子で、ベッドの上で身体を丸めた。一刻も早く眠りが訪れて、わたしを混乱した気持ちから連れ去ってほしい、と願った。


 今日、ホーレーがわたしの元に運んでくれた、友情の暖かさだけが、唯一の心の拠りどころだった。



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