第一三話 自宅謹慎
典医に楯突いた日、わたしはそのまま宿舎に返されて待機した。
さっそくその夕方、近衛課全体の総務係から連絡があり、処分が決まるまで当分の間、自宅謹慎を命じられた。即刻逮捕されるのでなくて、ほっとした。
この場合、自宅とはつまり、わたしの実家を指す。近衛兵になってから、はじめての里帰りとなるのだが、故郷に錦を飾らない、どちらかというと泥を塗るような帰郷で、大変に申し訳ない。
父と母は、わたしがこんなふうに職場から追い返されることを、どう思うだろうか。それを想像すると、合わせる顔もなく、何ともいえず面倒で重たい気持ちになる。
その夜、テーセル、デゼー、ホーレーに、ごく簡単な手紙を書いた。
わたしが明日から突然いなくなれば、そしてそのまま近衛兵団を除隊とでもなれば、きっと三人に心配をかけてしまうだろう。友人たちに、心苦しい思いはさせたくない。
自分の今の身の上を、どう手紙に書くか迷ったが、職場で不始末をして謹慎、刃傷沙汰にまで及んだわけではないから、さしあたり大丈夫、状況が変わったら、すぐに連絡します、とだけ説明した。
*
次の日の朝、一応は制服を着た上、身の回りの品を旅行鞄一つに詰め込み、近衛兵団の護送用馬車に乗り込んだ。
御者として近衛兵二名のほか、車内にはシャーカ少尉が同伴する。民間の乗合馬車に乗らなくてよいのはありがたいが、窓に鉄の格子がはめ込まれ、内側に取っ手がない扉を見れば、わたしの逃亡を防ぐための護送だと、すぐにわかった。
わたしの実家の村までは、馬車で半日といったところだ。道中、シャーカ少尉は何も話さず、ぼんやりとした顔で、郊外の景色を眺めていた。
王都東側の丘陵地帯は、雨季でも北の山麓地帯から涼しい風が吹きおろし、野生の星草の花が、丘を清純な白に染めていた。南を見ると、ときどき、斜面の切れ間から平地を見渡すことができ、遠くに小麦畑や水田が広がっていた。小麦畑は、青々とした穂で大地を単色に彩り、水田は、午前中の陽光を反射して、鏡のように輝いている。
王都での、時間に追われる毎日にくらべると、ずいぶんと静かで、のんびりとした護送の旅である。田舎ののどかな景色を見ているうちに、わたしの暗い運命も、なんとも馬鹿らしく、せせこましい人間の営みに思えてしまうほどだった。
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午後の半ばに、馬車は郷里の村へ着き、物珍しそうな顔で黒塗りの馬車を見送る村人のあいだを通り過ぎて、実家の前に止まった。
懐かしい顔ぶれの侍女が、驚いた顔で馬車を迎え、それからしばらくすると、母が顔を出した。
わたしは、車内で待機するよう命じられ、少尉が馬車を降りて、母に挨拶した。
少尉は、しばらくのあいだ、母と何事かをしゃべっていた。格子窓をはさんで、その模様を見ることができたが、母は、ときどき馬車のほうをちらりと見るほか、ごく冷静に、少尉の話を聞いていた。
以前と変わらず、すっと伸びた背筋で顎を上げて、少し下目遣いの眼差しから、気位の高い雰囲気が否応なく伝わってくる。ああそうだ、母はたしかにこんな風だった、と、わたしはなぜか、思い出したくない古い記憶をほじくられるような気分になった。
話が終わると、わたしが呼ばれ、馬車から降りた。少尉は、わたしに告げた。
「それではまた。謹慎中は一応、家から出ずに過ごしてもらうよう、母上には伝えてある。まあ、あんまり心配しなさんな。長期休暇をもらったと思って、実家でのんびり、沙汰を待っておきなさい。」
少尉は、再び馬車に乗り込むと、なんの未練もないように、あっさりと実家の前を去った。
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後には、旅行鞄を持って立ち尽くすわたしと、母だけが残った。
わたしは、ばつの悪い思いで、母の顔をまともに見られなかったが、母は素っ気なく、「久しぶりね、レオ。さあ、さっさと家の中に入ってしまいなさい」とだけ言った。
母の後に従って、実家に入った。侍女たちの好奇心に満ちた視線を受けながら、入隊前までわたしが使っていた部屋へと導かれた。
部屋の中は、近衛兵団に入る前と、何ら変わらない状態で、掃除も行き届いていた。
「いつ帰ってくるか分からないし、他に使いみちもないから、そのままにしておいたわ」と母が言う。
わたしが部屋の隅に旅行鞄を置くさまを、母が後ろからじっと見ていた。置いてしまうと、もう他にやることがない。他にやることがないということは、いよいよ、母と話をしなければならないことを意味する。背中に突き刺さる、母の視線が痛い。
すべてを観念して、母に相対した。絞り出すように言葉を綴る。
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「母様、ごめんなさい。」
「なぜ謝るの。」母が、突き放したように聞く。
「なぜって……。母様は、わたしを怒らないのですか。」
「あなたは、私が怒るようなことをしたの?」
「いえ……まあ、受け取りようによっては。」
「私が、あなたのしたことを、許せないと受け取ると思った?」
「母様は、近衛兵団の任務を、よく知らないではないですか。」
「そういう問題ではないわ。私が、あなたが私にとって許せないことをするだろうと思っていたと、あなたを信じていなかったと云うの?」
いつもこうである。母は、貴族出身の癖なのだろうか、わたしの言葉を正面から受け止めない。話をすり替え続けるような、不可思議な問答で問い詰めて、いつの間にかわたしは、一切の反論ができない、袋小路に追い詰められる。
これが、子供のころからわたしが晒されつづけた、母の喋りかただった。
わたしは、押し黙ってしまった。母が続けた。
「先ほどの、あなたの上司のかたが説明してくれたわ。王子を庇って、典医に歯向かったそうね。近衛兵の任務云々は知りませんけれど、私に云わせれば、レオはよくやったわ。父様もそう仰るでしょう。子供を泣かせる医者など、二流、三流です。
その典医がどれだけ高い地位で、どんな報復をしてくるかは知りませんけれど、そもそも私にとって、あなたが近衛兵を続けるかどうかは、本質的にどうでもいいことです。」
わたしは、つい大声を出した。
「どうでもいいことなんて、母様、わたしは王子に忠誠を誓っているんです。」
母は、わたしの大声にまったく怯まず、釣られて声を荒げることもない。
「あなたの上司は、王子に対するあなたの忠誠心に疑いがないので、軽い処分で済むだろうと仰っていました。その点でも、あなたはよくやっていると思っています。
でもそれは、あなたが靴屋なら靴に忠誠を誓う、学者なら真理に忠誠を誓う、そういう類のものではないのですか。」
なにを言われたのか分からない。わたしと靴と、なんの関係があるのだ。
「私にとって大事なのは、あなたが特定の職業にどれだけ入れ込んだかではなく、あなたがどれだけ、一人の人間として成長しているかです。
今の姿を見る限り、近衛兵の経験は、あなたをとても成長させたように見えます。子供じみた立ち振舞いも消えて、私の目を見て話すようになりました。ついでに云えば、ずっと気掛かりだった、あなたの身だしなみも、それなりに改善しました。
久しぶりにあなたを見たけれど、随分と安心しました。」
言葉だけを聞けば、母に褒められたはずなのに、あまり嬉しくない。
「自宅謹慎を食らって、職場を叩き出されたのに、安心ですか。」と、わたしは口をとがらせて呟く。
「乱暴なものの言い方はおやめなさい」母がぴしゃりと返した。「そんなところは変わらないのね。父様の悪いところがうつってしまったわ。今は新人だから、見逃してもらっているかもしれませんが、本来、職場では失礼にあたる言葉遣いです。早急に直しなさい。
父様といえば、今日は父様も久しぶりに、夕方にお帰りのご予定です。少し早めの夕食にしますから、あと一刻くらいで、旅の荷物を解いてしまいなさい。ここが片付いた頃に、侍女を遣りますから、居間においでなさい。
もうすぐ、弟たちも帰ってくるでしょうが、彼らには処分のことは伝えないでおきます。あなたも、長期休暇だと云っておきなさい。子供に、よけいな心配をかけさせてはなりません。」
こう言って、母は颯爽と部屋を出ていった。わたしは、母との会話でどっと疲れて、ベッドの上に腰を下ろした。
思えば、母はいつも、世の中すべてを見下ろす視点からものを見ていた。その視線の傘の下、迷路のような世界の中で、わたしは子供の頃からずっと、母がわたしに何をさせようとしているかも分からないまま、叱られ、そして許されてきた。
近衛兵になるまで、ずっと通底基音のように感じていた母の重圧を、まざまざと思い出した。いや、近衛兵として実家を出て、別の生活、多忙だが自由な生活を経験したからこそ、その重圧にはっきり気づいてしまったというのが、正しいのかもしれない。
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程なくして、弟たちが帰ってきた。言いつけられた通り、長期休暇だと二人には告げた。二人はことのほか喜んでくれたが、それだけにかえって、本当のことを明かせないのが辛い。
続いて、夕刻に父が帰った。父はすでに、王宮でわたしの事件について耳にしたらしい。
弟たちといっしょに、玄関で父を出迎えたわたしを見るなり、「おお、レオ!お前、さっそく大立ち回りをやってみせたらしいなあ。よくやったぞ!」と、笑いながら大声で言った。
母が厳しい目つきで父を睨んだ。それで、父も察するところがあったのか、続けて弟に向かって、「云うなれば、武勲だな。テオにティスべよ、姉様が近衛兵として武勲を上げたのだ。いやまったく、頼もしい忠誠心だ!」と、誤魔化しにかかった。
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久しぶりに一家全員が揃った夕食の場では、弟たちがしきりに、わたしの上げたとされる武勲の内容について聞きたがった。
酒杯を重ねて酔った父は、「それはな、機密、機密事項だ。お前たちも、兵士になれば分かる。姉様はな、重大な機密を任されるような立場になったのだ」などと、出鱈目を重ねた。
そのくせ、まるでその機密の内容を仄めかすように、大声でまくし立てるのだ。
「儂はな、ああいう手合いが昔から気に入らなかったんだ。我ら騎士のほうが経験的に、よっぽど奴らより適切な処置を知っているくせに、現場で頭でっかちなことばかり喚き立てて、かえって助かるものも助からなくなる、そういう手合いが、よりによって王室の周りをうろつくのを見せつけられてはなあ!
なにせ、お前は儂の娘だ。実力は折り紙つきだと、もう儂の耳にも届いているぞ。歩兵師団は、すでに平伏させたらしいじゃないか。この調子で、獅子、ははは、まさに獅子身中の虫だな、これを根こそぎ、取り除いてくれよ。」
機密も何もあったものではない。弟たちも、さすがに何があったか、薄々気づいているのではないか。
「父様、酔いすぎではないですか」とわたしが言っても、意に介する様子もない。母は、苦虫を噛み潰したような顔で、しかし一言も発さずに、夕食の場を見守っている。
わたしは二人を見ながら、この二人は、こんな夫婦関係だったのだと、はじめて気づいた。母は、人が多く集まる場の秩序を壊す真似はけっしてしない。その時々の場の秩序は、いつも父が作り出す。
ただ、夕食後、父が母になんと責められるかは、神のみぞ知るである。
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夕食のあと、わたしは自分の部屋で、ベッドに仰向けに横たわっていた。
机に置いた、小さな燭台の蝋燭が、部屋全体を薄暗く照らしている。部屋の窓は、夜には帳を下げてしまうが、それでも時折、庭で何かの虫が鳴いているのが聞こえる。
いろいろなことがあって、疲れているのだろうか、天井が回っているような錯覚を覚える。
わたしは、両手で顔を覆って、心地よい世界を懐かしむように、昨日までの近衛兵の生活を思い返そうとした。入隊式から先、徐々に仕事を覚え、友人たちと寝食をともにした日々を。
ところが、何度試しても心に浮かぶのは、ロロ王子の、あの濡れたような青黒い髪、深い青の瞳、白い肌、それに、王子がわたしに抱きついた時に感じた、あの冷たい頬と、心臓の鼓動だった。
わたしが抱き止めた、美しく小さな主君、半裸の王子の細い腕がわたしの腰に回された感触が、まとわりつくように、執拗に幾度も再現され、ほかのことを思い出すことができない。
わたしは、妙な胸騒ぎがして、自分の身体を掻き抱いた。寒気ではない。胸の奥に、捻じられるような、今までに経験したことのない熱を感じた。ロロ王子の、あの憂いを帯びた優しい眼差しを思い出すたびに、胸の奥が苦しくなる。
そのとき、突然に気づいた。
近衛兵を除隊になれば、もう二度と、ロロ王子に会うことはできないのだ。
いや、参賀式で他の臣民に混じって、遠くから拝謁くらいはできるだろう。でも、今までのように、王子のお傍で、あの寝室の前に立つことはできない。
朝、ロロ王子が少し恥ずかしそうにはにかみながら、寝室から出てご挨拶をいただくことも、もうない。
王子のご体調が良い折に、正装に着替えて王や王妃のいる中宮へ移動する際、殿として付き従って、その後ろ姿を、あの不思議な青黒色の髪をゆっくり見つめることも、もう二度となくなるのだ。
すべてが手遅れになった今、わたしが近衛兵の日常として無為に過ごしてきた、王子のお傍での日々が、自らの無分別で手放した、かけがえのない財宝だったことに、気づいてしまった。
「あ、あ、あ、」
喉の奥から、言葉にならない声が漏れる。目を見開いたまま、涙が目尻から流れ落ちる。
わたしのこれからの人生が、本当の真っ暗になってしまった。まったく希望が失われた世界。驚愕と恐れと悲しみで、茫然自失となり、そのまま正気を失った。
ベッドに仰向けのまま、天井が回りながら遠ざかってゆく。姿勢を変えることもできず、身体は恐怖に冷えきって震えた。息ができずに喘ぎ、乾いた嗚咽が喉から漏れ続ける。 涙はとめどなく流れ、 両の手が虚しく、宙を掻きむしった。