第一二話 冷たい頬
大きな事件が起きないと、時の流れがやけに早く感じるものだ。記憶の中に点在する、小さな出来事をつなぎ合わせなければ、時間の感覚がなくなってしまう。
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テーセルと買い物をして、四人で楽しい夕辺を過ごした日から、かれこれ半年が経とうとしていた。わたしは一五歳になった。
テーセルとホーレーとは、宿舎でときどき顔を合わせるし、デゼーからは月に一度くらい、短い手紙が届くようになり、わたしも返信をしている。
ただ、あの日以来、四人の都合がなかなか合わず――具体的には、テーセルがかなり忙しくなってしまったために――、四人揃っての再会はかなっていない。テーセルは、さっそくその才覚を見込まれて、儀仗第一係が主宰するさまざまな式典の手配にかかわっているらしい。
彼女はその生真面目さゆえに、完璧に仕事をやり遂げようとして、身体を壊したりしないだろうか。わたしは彼女に遭うたびに、無理をしないでね、と声をかけたが、テーセルは、大丈夫、これくらいならばまだ全力の半分も出していないわと、涼しい顔で答えるのだった。
いったい彼女の全力とは、どれほどのものなのだろうか。わたしには想像もつかなかった。
あの日、テーセルと一緒に買った薬を、すこし疑問は残ったものの使い続けていたら、三ヶ月を越えたあたりから、とうとうそばかすが薄くなってくれた。今ではもう、顔料を付ける必要もないくらいだ。薬師リーの処方は、確かだったのだ。
化粧水も彼女に言われたとおり、少しずつ使い続けている。自分ではよく分からないのだが、肌のきめが細かくなったような気が、しないでもない。王都巡察などの外回りが減って、室内警護が増えたのが原因とも考えられるが、だからといって、化粧水をやめようという気にはならない。
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宮内警護に就くことが多くなってからしばらくすると、雨季が始まり、王宮にいても蒸し暑く息苦しい日が、そろそろ多くなってきた。
王宮と王都は、北の山麓から流れる早瀬を治水工事によって東西に分け、その間に築かれたものだ。
雨季の氾濫で、王都が浸水する心配がないではないが、治水工事は大規模かつ念入りに、百年以上もかけて行われており、さまざまな避水路や堰が、山麓の中に張りめぐらされていた。
この王宮が沈むときは、国土全体が水没するときだろう、という程度には、堅固なものだと聞いている。
それを念頭に、一応は安堵して王宮の外を見れば、時おり前ぶれもなしに降る激しいスコールが、わたしの警護する部屋の中までをも果てしなく均質な雨音で満たし、薄暗くなった宮内の、格子窓の向こうにぼんやりと輝く王宮北側の丘陵が、すっかり雨のカーテンの中で煙るさまも、そしてスコールが通り過ぎた後には、新しい生命を取り戻したように燦めく緑の山々が、雨後の不思議な静寂に包まれるさまも、わたしはおだやかな心で楽しめるのだった。
いやむしろ、人が人生の中で本当に幸福を感じるのは、富や武勲を手にしたときではなく、たとえば美しい雨が目の前の世界をゆっくり通り過ぎるのを、こんな風にじっと見つめ、心にすっかり受け容れることができた時なのではないか、とさえ思った。
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雨季にしては妙に肌寒い曇りの日、四月四日だったか、わたしは朝から宮内警護に当たっていた。今日は珍しいことに、シャーカ少尉が、わたしと組になった。
「パーラ曹長は別用でな」とシャーカ少尉は言った。曹長は、儀仗第一係に呼ばれて、外交使節の応接を手伝うらしい。
「私が急遽、代役となったが、私は王子にそれほど好かれていないんだ。何事もなく一日が終わるよう、祈っておいてくれよ。」
朝一番に、王子が寝室から出られ、わたしたち近衛兵や侍従たちにご挨拶をいただく。
わたしにはいつもの、少しはにかんだような笑顔を見せていただいた。少尉にご挨拶される際に、どんなお顔をされたかは、あえて見ないことにした。
その後、寝室へ戻られた王子のために、侍従が朝食を持って上がる。それから一刻ほどたった後、典医が王子の寝室に入る。
このあたりまで、いつもの宮内警護と変わりがなかった。
しかしその後、王子の寝室から出て来たエルム嬢が、眉間に皺を寄せ、心苦しそうな様子を見せた。
わたしが聞くと、「今日は典医の施術があまり上手くいかなくて、」と教えてくれた。「王子も、かなり我慢をして、なんとか施術を受けてらっしゃるのですが、そのお姿をお傍で拝見しているだけでも、不憫で……」
エルム嬢は、両手を固く握り合わせて、伏し目がちに立ち尽くす。典医のやることであれば、侍従や近衛兵に関われることはない。彼女は、それをただ見ていることしかできないのだ。
「施術って、いったい何をやっているのですか?」と、わたしは聞いた。
「瀉血です」と、エルム嬢が応えた。
「王子の微熱は、体液が濁り、それで臓器が熱を持つためだと、定期的に血を抜かれるのです。しかし、施術のたびに、王子の腕に針を刺さなければならず、またこれでうまくいかないときは、腕の表面を少し切開することもあります。
お可愛そうに!王子の両腕は、すでに瀉血の後がいくつも残り、お召し替えの際にそれを目にするだけで、私は泣き出しそうになってしまいます。」
王子がつらい治療に耐えている、そのことを知ると、わたしの胸も締めつけられた。
どうして、王子のように高潔な魂が、人一倍の苦難に遭わなければならないのだろう。王子は、本当におつらいとき、枕に顔を突っ伏して、自分の声が周囲に聞こえないようにするらしい。ご自身の苦悶の声がわたしたちの不安をかき立てないよう、そんな時でさえ、心遣いをされるのだ。
わたしは、エルム嬢とともに、不安な面持ちで、王子がいる寝室の扉をじっと見つめていた。
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と、扉の向こうから、高くか細い叫び声がした。
背中に戦慄が走った。瞬時に右手を腰の剣にかけ、扉の中に突入できるよう身構える。
しかし予想に反し、声に続いて、ぱたた、という可愛らしい足音が聞こえて、次いで両開きの扉が開いた。
王子が、寝室から飛び出してきた。
服を召しておらず、腰に布を巻きつけただけで、上半身は裸だ。青黒い髪は濡れ、真っ青な顔、目には涙を浮かべ、肌はいつにもまして青白い。
王子は一瞬、逡巡するように、扉を出たところで足を止めたかと思うと、わたしをめがけて飛び込み、わたしの腰に抱きついた。
わたしは仰天しながらも、王子を抱き止めた。
王子のお身体が、わたしの身体に服越しに押しつけられる。
王子の左腕からは血が流れ、抱きつかれたわたしの服を少しずつ、赤く染めてゆく。その肌もびっしょりと濡れており、まるで死人のように冷たく、震えがわたしに伝わってくる。
子供のころ、戦争ごっこで足を滑らせ、乾期の川で溺れて死にかけた村の子が、こんな風に震えていたことを思い出す。正常な状態とは、とても思えない。
ややあって、扉から典医が姿を現わした。長い白髭をたくわえ、丸帽子を被り、左手に大きな布、右手に小さな手術用の刃物のようなものを持っている。
「お手を煩わせて申し訳ない」と、典医は言った。「瀉血はもう終わったのだが、冷水浴の段になって、王子にことのほか厭がられてしまった。熱を帯びた臓器を適切に冷やさなければ、微熱がいつまでも下がらないのだが。おやおや、腕の止血帯も外れてしまっている。
さあさあ、ロロ様!お辛いのは百も承知ですが、どうかもう一時、頑張って下され。こちらにおいでになって、今日の治療を済ませてしまいましょう。」
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王子は、冷たい腕で、いっそうわたしの腰をぎゅっと抱きしめた。王子にとって、治療がとうとう、我慢の限界に達したのだと分かった。
どうしよう。王子のお身体を思えば、適切な治療を受けたほうがいいに決まっている。近衛兵の任務としても、王子を典医に引き渡すのが筋だ。シャーカ少尉の顔をちらりと見ると、厳しい表情で押し黙っていた。
だが、こんなふうにわたしを頼ってしがみつき、震えている王子を引き剥がすという考えに、わたしは目眩がするほどの嫌悪感を覚えた。
やっとのことで罠から抜け出した、わたしの主君、この美しく小さな生き物を、ふたたびこの手で罠にかけ直すような、そんな所業をしてしまえば、わたしの忠誠心は打ち砕かれ、これからさき二度と、王子に顔向けできなくなってしまうだろう。
どうすればよいのか、必死に考える。これまでの経験から、何か手がかりはつかめないか。あるいは父の言葉、そして友人の、これまでに会った人の全て――
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王子の背中に左腕を回し、王子を抱き寄せた。王子の冷たい頬が、わたしの腹に押し付けられる。その心臓の鼓動がわたしの腰に伝わり、そこから身体が温かくなるような気がした。
「瀉血は、わたしの郷里では、病を重くさせる邪法だと言われています。冷水浴も、それ自体に効果があるのではなくて、十分に身体を温めた後に冷水を当てることが、健康な身体にとって良い刺激になるに過ぎないと教えられました。
王子のように弱ったお身体を冷やしてしまっては、かえって毒です。」
典医は、少し驚いた後、困った苦笑いのような顔になって言った。
「民間療法は千差万別です。あなたの郷里では、きっとそのように伝承され、実際に手当てがされているのでしょうが、王都では、体系的に発展させた医学にもとづいて治療を行います。
さあさあ、あなたはまだお若い、王都に出て来たばかりの近衛兵とお見受けする。治療に違和感はあるでしょうが、理論的な根拠があってのことなのです。どうか王子をお渡し下され。」
わたしはなおも食い下がる。不適切で無礼な態度なのは、百も承知だ。
「医学は、つきつめれば経験の集積にすぎません。しかし、体液が濁るというのも、臓器が熱を帯びるというのも、実際に確かめられたわけではなく、理屈の上でそう考えられているだけなのではありませんか。」
部屋の中に、鋭い緊張が走った。典医が、今度はむっとした顔でわたしを睨んだ。
典医は文部に属するから、わたしとは所属が違うが、職制でいえばずっと上役に当たる。おまけに、自分の職域について、素人が勝手な意見を述べ立てているのだから、不快に思う気持ちはよく分かる。よく分かるのだが、わたしも今さら引き下がれない。
王子は、わたしが王子を典医に引き渡そうとしないからか、腰にしがみついたまま、不安と驚きが入り交じった表情で、わたしの顔を見上げた。
「あなたと、医学について議論をするつもりはない」と典医は言って、一歩進み出ようとした。
その瞬間、王子を左腕で強く抱き、腰を落として体を構えた。典医はぎくりとした顔で、その場に踏みとどまった。
わたしが、実力行使をも辞さないことが分かったのだ。
典医は、麻痺したように身体を動かせないまま、視線だけでシャーカ少尉を睨んだ。わたしも、少尉の顔をちらりと見たが、彼は厳しい表情のまま腕を組み、その心中はまるで読み取れなかった。
少尉はわたしに向かって、低い声で「レオ」とだけ言った。
わたしは小さく、首を横に振った。
やがて少尉は、両手を挙げて言った。
「何ともなりませんな。彼女が本気を出せば、私ではとても止められません。彼女は近衛兵団の中でも、最強の兵士の一人ですから。」
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しばしの間、部屋の中に沈黙が流れた。
少し離れたところから、エルム嬢が怯えた顔で、この事の成りゆきをじっと見ている。
「よろしい」と、ようやく典医が沈黙を破った。
「今日の治療は、これで終わりとしましょう。私は下がらせていただきます。ロロ様も、今日は身体をよくお休めください。しかし、ご体調の急変には十分にご注意ください。今日の施術は完全なものではなく、問題を残したままなのですから。
それから、今日のこの次第については、儀仗総括にも、侍従総括にも報告します。
儀仗第三係のシャーカ少尉、そしてレオ殿ですな。覚えておきます。あなたがどういうつもりでこんな事をしたのか、私には分かりかねますが、この件についての後始末は、追って指示があるでしょう。
この一件で、文部と式部の関係が悪化しないことを祈っております。」
言い捨てて、典医は足早に去った。
二、三の侍従が、治療道具をまとめて彼の後を追った。侍従の一人が、おそるおそるわたしに近づくと、手早く王子の腕の血を拭き、止血帯を巻き直し、王子にガウンをかぶせ、寝室へ連れて行った。
王子は、寝室の扉をくぐる前に、わたしの方を振り向いた。不安そうな眼差しで、何ごとかを云うように口を開きかけたが、結局は何も言わず、侍従に手を引かれながら、扉の奥へと消えた。
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緊張の糸が切れ、わたしは床にへたり込んだ。
自分がどれほど無鉄砲なことをしてしまったのか、少しずつ実感がわいてきた。文部の官僚の中でも、とびきり高位の典医に対して、医術について僭越にも意見し、あまつさえ、暴力を振るう姿勢を見せたのだ。
わたしの首ひとつで、事が済むのだろうか。シャーカ少尉の立場も、はたして無事では済むまい。
少尉がわたしに近づいた。この場で彼に切り伏せられても、文句は言えない。少なくとも、蹴飛ばされるくらいのことは覚悟していたが、少尉は相変わらず、厳しい表情を変えないまま言った。
「面倒なことになったなあ。まあ、仕方ないよな。少なくとも、お前が王子を想う忠誠心は、よく分かったよ。」
わたしは顔を上げた。
「怒らないのですか?」
「あとで、公式の場で、誰かがお前をたっぷり訓戒するさ。もしかしたら懲戒の場では、隣に俺がいるかもしれんが。その時は、一緒に怒られようか。」
少尉は少し口許を緩めた。
わたしのせいで、自分の進退がかかるというのに、わたしを責めないのだ。いつもは少しいい加減な少尉の、部下に対する気遣いがどんな形か、分かった気がした。
再び俯き、感謝と申し訳なさで涙を滲ませた。
エルム嬢が、わたしの傍へ身をかがめ、涙ながらにわたしの肩を抱いた。
「レオ、ありがとう、ごめんなさい。私がずっとやりたくて、臆病で出来なかったことを、貴女がやってくれました。王子のためを思えば、ずっと前に私がやるべきことだったのに。
私に勇気がなかったために、長年王子を傷つけて、そして最後は結局、貴女の立場を危うくしてしまいました。何と云っていいか分かりません。」
彼女の肩を抱きながら考えた。
とうとう、誤魔化すことのできない大失態を犯した。追って告げられるであろう沙汰をもって、近衛兵としての短い生活は終わるだろう。やったことの内容からすれば、それはおそらく確かなことだ。
わたしは、この短い生活の中で、王子のために、なにか意味のあることをして差し上げられただろうか。それとも、ただ感情にまかせて、騒ぎと迷惑をまき散らしただけだっただろうか。
今は分からない。
ただ脈絡もなく、王子の冷たい頬のことを思い返していた。