残念王太子と優秀な側近
「ハサン、留守番を頼んだはずだが何故王宮へ出向いた?」
セリムは不満そうな顔を、王宮から戻ってきたハサンに向けた。ハサンはしれっとしている。
「罠とわかっていても断れない呼び出しがある事は御存知ですよね」
「やはり別段急ぎの用事でもなかったという事か」
セリムはため息を吐くとハサンに座るように促したので、ハサンは一礼してセリムの前の椅子に腰掛けた。そして手に持っていた書類の束から一通の手紙を取り出すとテーブルに置いた。セリムはそれを手に取り内容を確認する。それは大臣から至急王宮へ来るようにとの呼び出し状であった。
「明日でもいい話でしたね。ですからミライは解雇した方がいいと伝えたのですよ」
「あの時はまだサマンサに会っていなかったから、こうなるとは思っていなかった」
「私はオルハン殿下が亡くなった後、この屋敷で最初に言いましたよね。ゼフラ様は必ずセリム殿下の妻になりたがるから、この別館の人間を全員解雇するべきだと。私の事も雇わなくていいと」
ハサンは冷たい眼差しをセリムに向けた。ハサンは元々セリムの兄オルハンの側近だった。セリムが王太子になるとは誰も思っておらず、護衛のメルトしかついていなかったので、セリムがハサンを側近にしたのだ。ハサンは幼き頃よりオルハンに仕えていて、セリムとも昔から面識がある。
「ハサンがいなかったら私は王太子になっていない。エイメンに譲っている」
「エイメン殿下が王太子だったならば、サマンサ様もエイメン殿下に嫁いでいたでしょうね」
セリムは驚きの表情をハサンに向けると、ハサンは冷めた視線でセリムを見つめた。
「初夜を過ごしていないようですね」
「な、何でそれを」
セリムは明らかに動揺している。ハサンは素直に認めた主により強く冷めた視線を投げた。
「ご自分の部屋の隣に誰が控えているかお忘れですか。サマンサ様の部屋に入ってから自室に戻るまでの時間が短すぎたので、何も出来なかったのだろうと報告を受けました」
セリムは苛立つ表情を隠しもしなかった。彼の隣の部屋には常に護衛が控えているので、大抵の事は筒抜けである。
「何も出来なかったわけではない。サマンサが私の事を意識しない内には何もしたくなかっただけだ」
「そのような悠長な事を言って、横からエイメン殿下に掻っ攫われても私は知りませんよ」
「掻っ攫う? エイメンが?」
「エイメン殿下とセリム殿下、どちらが女性に受けるかはご自分が一番御存知でしょう?」
セリムは一瞬顔を引きつらせた。エイメンはセリムの異母弟なので顔立ちが違う。何よりこの国では珍しい髪色をしていて女性に人気なのだ。
「先程ゼフラにエイメンを勧めたら嫌そうな顔をしたけどな」
「それは嫌そうな顔をしますよ」
「派閥が違うからか?」
ゼフラの父と前王妃であるセリムの母が兄妹である。エイメンの母は現王妃であり、前王妃と新王妃は違う派閥になる。
「セリム殿下がそう思うのでしたら、そう思っておけば宜しいのではないですか」
意味あり気な物言いにセリムはハサンを睨んだが、ハサンは涼しい顔をして受け流した。
「ゼフラ様の件は対策を講じます。ミライを解雇するのが一番だとは思うのですけれど、今は難しいのでそちらは御了承下さい」
「難しい?」
「ミライが解雇理由になるような失態をすれば別ですが、彼女だけ辞めさせるのはよくありません。サマンサ様にいじめられたと、ある事ない事吹聴し出したらどうされるのですか」
ハサンの指摘にセリムは悲愴な表情を浮かべた。アスラン王国に慣れていないサマンサが、ミライの嘘に振り回されて心を閉ざし、帰国をしてしまうと想像したのである。その想像が容易に理解出来たハサンは呆れた表情を浮かべた。
「サマンサ様の侍女であるポーラには事情を説明してありますから、サマンサ様の耳にも入っているでしょう。何もやましい事はないのですから、隠さず全て話した方が宜しいと思います」
「だがサマンサは私とゼフラのやり取りを見て、とても冷たい対応になった。もう嫌われていたらどうしよう。どうしたらサマンサを帰国させないですむだろうか」
「レヴィ王国には船がなければ簡単に帰国は出来ません。ただ、サマンサ様が望めば出航の手続きが出来るように準備はしてあるようです」
セリムは眉を顰めた。アスラン王国に今停泊中のレヴィ国籍の船は軍艦だけである。それはジョージ達が帰る為の軍艦なので、サマンサが勝手に乗って帰る事はない。
「セリム殿下はお忘れですか。サマンサ様と引き合わせた方を」
ハサンの言葉でセリムは理解した。この政略結婚の話をまとめたのは、サマンサの祖父テオである。テオはケィティの商人であり、中型ではあるが個人で船を所有している。またケィティはアスランへ定期便を運航しているので、その船に乗り込まれたらセリムは連れ戻す事が難しくなる。
「テオは私の味方だと思ったのに敵だったのか!」
「敵ならばそもそも嫁がせていません。サマンサ様の心が添わなかった場合、無理をさせたくはないから準備をしたと仰っていました。以前申し上げましたけれど、この政略結婚はこちらからしたら諸手を挙げて受け入れたいものでも、レヴィ王国にとっては大した価値はないのです。向こうの大陸ではサマンサ様を嫁がせる事により国家間の均衡が崩れる可能性が高かったので、こちらに話が舞い込んできたのですから」
「つまり私の態度によっては結婚もなくなり、技術供与もなくなると?」
「そうです。運命はどうでもいいので、しっかりとして下さい」
ハサンは冷たくそう言った。セリムはつまらなさそうな顔をする。
「マナータ神殿へ挨拶に行った。この結婚は認められた」
「人払いをしたのはマナータ様に御見通しだと思いますけれど」
女神マナータは運命を司っている。マナータ神殿へ夫婦二人で入り、祈りを捧げて神殿を出るまで誰ともすれ違わなければ、その二人は夫婦としてマナータに認められ幸せに暮らせるという言い伝えがある。しかし最近ではこれにあやかろうと、わざわざ予約をする者もいる。
「私は予約をしていない」
「ですが警護の為にメルトが誰もいないことを先に確認し、お二人が入った後は誰も入れなかったはずです。サマンサ様は無宗教の国から嫁がれたのですから、セリム殿下も神頼みではなく自力で頑張られた方が宜しいと思います」
「わかっている。わかっているけれど、絶世の美女を前にして、どうしたらいいかわからない」
綺麗だとは思うが絶世の美女は言い過ぎだとハサンは思ったものの、反論した所でセリムの意見は翻らないだろうから時間の無駄だと諦めた。それよりもこの情けない男に、国の将来をかけて本当にいいのかと不安になった。
「何事も素直になるのが一番です。セリム殿下は駆け引きなど出来ないのですから」
「悪かったな。どうせ私は剣を振るしか能がないよ」
セリムは王子時代、軍人として国境の軍隊に所属していた。彼の剣の腕はなかなかのもので、軍隊上層部から将来有望だとも言われており、王太子として首都へ戻る命令が出た際には、軍隊上層部の皆が彼の才能を惜しんだ。アスラン王国では王太子および国王は戦線へ参加しないのが決まりなのである。
「それでもこの二年、勉強されたではありませんか。個人的にはサマンサ様と二人三脚で歩まれるのが宜しいかと思いますが、それはいかがですか」
「二人三脚?」
セリムは首を傾げる。彼の母親はオルハンを産んでから亡くなるまで王妃の座にいたが、政治に口を出す女性ではなかった。
「あのテオ殿の孫娘です。たった二年でアスラン語を習得した所から見ても、十分に優秀な女性であると思われます。ゼフラ様との違いもそこにあるでしょうし、政略結婚の場合は戦友という関係もあり得ますから」
「待て。私はサマンサと戦友になどなりたくはない。夫婦がいい」
「それはセリム殿下次第だと思いますよ。少なくとも初夜から逃げる男に愛情を抱くでしょうか」
ハサンの冷めた物言いにセリムは強く首を横に振った。
「逃げていない。サマンサの気持ちを待っているだけだ」
「言い訳はもう宜しいです。そろそろ夕食にしましょう」
ハサンは淡々とそう言うと椅子から立ち上がった。セリムはつまらなさそうな顔をして渋々椅子から立ち上がると、二人は食堂へと移動した。