宣戦布告
アスラン王国の王宮には外壁がなく、王都の北方に広い庭と建物がいくつか建っている。平民達が庭に入るのも自由とされていて、警備兵は建物の前にしかいない。
セリムとサマンサは市場を見終えて別館へと戻ってきた。彼女は疲れていたので、すぐにでも横になりたい気分だったが、別館の前で警備兵が彼に声を掛けた。
「セリム殿下、ゼフラ様がいらっしゃっています」
「ゼフラが? もうここには来ないようにと言ってあるのに入れてしまったのか?」
「私も拒否をしようとしたのですが、ミライが引き入れてしまいまして」
「ハサンはどうした?」
「ハサン様は王宮へ行っております」
セリムは面倒くさそうな顔をした。サマンサはそのゼフラという人が誰なのか、何となく見当がついた。
「私が追い出しましょうか?」
背後から声がしてサマンサは驚いた。振り返ると、そこにはいつの間にか男性が立っていた。セリムの護衛であるメルトである。勝手についてくるとは言っていたが、一体どのようについていたのか、彼女には全くわからなかった。
「いや、強引に追い出しても意味はないだろう」
「しかしセリム殿下が何度も話されたのに、こうしてまた侵入されているではありませんか」
サマンサは侵入という言葉に違和感を覚えた。ただの従姉をそのように表現するのも不自然な気がして、彼女は説明が欲しいという眼差しをセリムに向けた。
「一旦入ろう。ここは現在私とサマンサの家なのに遠慮する方がおかしい」
警備兵は一礼をすると別館の扉を開けた。セリムは廊下をまっすぐ歩いて行くので、サマンサもそれについていく。そしてセリムの部屋の近くに行くと、突然女性が飛び出してきて彼に抱きつこうとした。それを彼は女性の腕を掴んで拒んだ。
「セリム、おかえりなさい。恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしがっているのではなく、困るからやめて欲しいと何度も言っている」
「そのような冷たい事を言わないでよ。私達の仲でしょう?」
「従姉というだけで、それ以上の仲はない」
従姉という言葉を聞いて、やはり彼女が今朝ポーラの話していたセリムの元兄嫁なのだとサマンサは理解した。そしてやはりポーラの認識は甘いと思った。この女性の振舞いは元夫の弟に対する態度ではない。
「ここはもう私とサマンサの家であってゼフラの家ではない。気軽に遊びに来られては困る」
「他国の王女よりも私の方がセリムの事をよく知っているわ。私にしておきなさいよ」
サマンサはゼフラの言葉に戸惑った。ゼフラにサマンサが見えていないはずがない。言葉を理解しないと思われているのか、理解しているとわかった上で宣戦布告をされているのか、判断が出来なかった。
「私はサマンサとこれからの人生を歩むと決めたと何度も説明をしただろう? そろそろわかってくれないか」
「他国の王女がこの国で何が出来るというのよ。私の方が絶対に王太子妃に向いていると思わない?」
「そんなに王太子妃になりたいのなら私が王位継承権を放棄するから、エイメンに嫁いだらどうか」
セリムの冷めた提案にゼフラは驚いた顔をした。それを彼は気にせず受け流す。
「とにかく私が王太子である間はもうここには来ないで欲しい。私も出来たら手荒な真似はしたくない」
「ここに来る事は別にいいでしょう? ミライとも話したいし」
「その使用人も別に連れて行って構わない。雇う金がないというのなら手立てを考える」
「どうしてそんなに冷たいのよ。昔はもっと優しかったわ。そこの女に妙な事を言われたの?」
ゼフラはサマンサに挑戦的な視線を投げかけてきたが、彼女はそれを無表情で受け流した。ここで挑発に乗るのは得策でないと彼女は判断をしたのだ。
「サマンサは妙な事を言わない。変な言いがかりをするのはやめてほしい」
「肌が白くて金髪なのは物珍しいのでしょうけど、ただそれだけでしょう?」
アスラン王国は褐色の肌、黒髪の民族国家である。サマンサのように白肌で金髪な女性はいない。ストールを被っているとはいえ完全に隠しているわけではないので、市場を歩いている時も物珍しそうな視線を彼女は感じていた。
「これ以上サマンサに対して失礼な事を言うな」
「別にいいでしょう? 黙っているのだから」
サマンサは二人の親密度がわからないので黙っていたのであり、文句がないわけではない。だがこのまま黙っているのも、見下されているようで面白くなかった。
「私とセリム殿下の結婚は国家間の政略結婚であり、この結婚に異議を唱えられるというのでしたら、私の母国が黙って受け入れるとは思えませんけれど、相応の覚悟があっての振舞いと捉えさせて頂いて宜しいでしょうか」
サマンサは微笑みながらゼフラを見た。彼女にはレヴィ王女であるという自尊心がある。しかしゼフラはその対応に怯まなかった。
「覚悟とは何かしら? 遠い海の向こうの国で何が出来るというの?」
「私の兄はまだこの国にいて、兄の一言で軍人数万が迅速に動きます。アスラン王国は隣国との小競り合いが続いており、王都を守る軍人は最小限と聞いています。この意味、おわかりになりますか?」
サマンサは微笑みを崩さなかった。ゼフラはサマンサの言っている内容が理解出来ないのか、眉間にしわを寄せる。
「軍事力はレヴィ王国が上だ。本気で攻め込まれたら我が国は勝てない。だからサマンサを怒らせるような事を言わないで欲しい」
「その女の母国に無理矢理結婚を強いられたという事?」
「無理強いはされていない。ゼフラの行動は国家間の問題になるから弁えて欲しい、そういう意味だ」
ゼフラの表情には不満がありありと見て取れる。サマンサは彼女とは思考が違うので理解しあえないだろうと思った。
「セリム殿下、ゼフラ様をお送り致します」
また急に背後からメルトの声がしてサマンサは驚いた。この男は気配がしないので長らく後ろにいたのか、急に現れたのかがわからない。しかしセリムは驚く事もなくゼフラをメルトに引き渡した。
「屋敷まで丁重に頼む」
「まだ話は終わっていないでしょう?」
「私は話す事はない」
メルトはゼフラの腕を掴み、強引に玄関の方へと歩き出した。ゼフラは何か喚いているが、それをメルトもセリムも気にする様子はない。セリムはサマンサに向き直ると申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「従姉が失礼な事を言って申し訳ない」
「いえ。私は疲れましたので少し休みたいのですけれど」
サマンサの声色は冷たく、彼女は自分の声の冷たさに内心驚いていた。セリムもその冷たさを感じたのか表情が強張った。
「あぁ、夕食までまだ時間がある。ゆっくりするといい」
サマンサは声を出すのが怖く、無言で一礼をすると自室へ戻り、ポーラに飲み物を用意するように言ってからソファーに身を預けた。
サマンサは瞳を閉じて心を落ち着けながら、白肌に金髪が珍しいだけという言葉に少し苛立ってしまった事を反省した。金髪は彼女の母国でも少数であり、高貴な血が流れている証拠でもある。ただ彼女の金髪は暗めで金髪と茶髪の中間のような色合いなのでそこまで珍しくもないとは思っていたが、昨夜の宴の出席者や市場で見かけた人達に同じ髪色の人はいなかった。セリムは初めて会ってすぐに運命だと言い出したのだから、この外見が珍しいだけと言われると返す言葉が見つからず、つい国家間の話に飛躍させてしまったのだ。
扉をノックする音がしてポーラがカートを押して入ってきた。そこには茶器が乗っていた。
「どうしたの?」
「勿論茶器も茶葉もレヴィから持ってきました。ただ水が違うと味も変わるらしいので、美味しくなかったらごめんなさい」
ポーラは紅茶を注ぐとサマンサの前にティーカップを置いた。サマンサはそれを口に運ぶ。
「確かに微妙だわ。水が合っていないのかしら」
「檸檬も輪切りにして持ってきました。この国の人達は水に必ずこれを入れるので、紅茶に入れても合うかもしれないと思ったのですけれど」
サマンサはティーカップを戻すとポーラを見た。ポーラは頷くとティーカップに檸檬の輪切りを入れてスプーンで軽くかき回した後、檸檬を取り出した。サマンサは再びティーカップを持ち上げると一口飲む。
「レヴィで飲んでいた物とは違うけど、何も入っていないよりは檸檬を入れた方が美味しいわね」
「それでは今後は檸檬も添えますね。お水だけというのも何だか寂しいですし、今まで通り紅茶の時間はあった方がいいと思うのです。茶葉も色々と缶に詰めて持ってきましたし、保管方法も学んできました」
「そう、色々とありがとう」
柔らかく微笑むサマンサにポーラは胸の前で拳を握った。
「先程の失礼な人には負けないようにしましょうね」
「ポーラ、あのやり取りを聞いていたの?」
「この部屋に控えていて、騒がしいなと扉を少し開けたら聞こえてきたのですよ」
それは聞こえてきたのではなく聞いたというのだと思ったが、サマンサは聞き流す事にした。注意した所で直るとは思えなかったのだ。
「その時、ミライはどこにいたの?」
「わかりません。サマンサ様が出かけた後しばらくして姿が見えなくなってしまったのです。勝手に動くのもよくないかと思い、ここで待機していました」
ミライが引き入れたと護衛が言っていたので、ミライがゼフラを呼び出したのかもしれないとサマンサは思っていた。しかし二人の関係もわからないし、ミライがどういう理由でその行動を取ったのかわからない以上、頭ごなしに何か言うのは得策ではないと彼女は思った。
「そう。それならポーラは大人しくしていてね。無意味な争い事はしたくないの」
「それはあの方にセリム殿下を譲るという事ですか? ここまでわざわざ嫁いできたのに?」
焦るポーラにサマンサはにっこりと微笑んだ。
「誰が大人しく引き下がると言ったかしら? 勝つ為にはまず相手の事を調べるのが肝要だと、お兄様は言っていたわ。何も知らない内に仕掛けるという愚かな事はしないだけよ」
サマンサは父と兄に愛されていた。また彼女自身王女という立場を弁えて振る舞っていたので、彼女に敵対心を見せる者などレヴィ王国にはいなかった。彼女は初めて感じた宣戦布告に受けて立つ覚悟をしたのである。