幸せの温もり
サマンサは重い瞼をゆっくりと開けた。突然嫌な臭いを嗅がされたと思ったら気が遠くなり、その後の記憶がない。彼女は事が起こるのはゼフラの家についてからと思っていたので、まさか途中でミライに拉致されるとは予想していなかったのだ。
完全に開ききらない目で何とか部屋を見回す。しかし明かりもなく、暗くてよく見えない。更に両手を後ろで縛られていて起き上がる事もかなわない。彼女は必死にミライが自分を拉致する理由を考える。ミライはゼフラの事はどうとも思っていない雰囲気があるので、多分エイメンの命令と考えた方がいいだろう。そうなるとセリムを廃太子してエイメンが立太子する際の後ろ盾に自分が必要で、その為の説得が一番あり得ると結論を出した。
しかし肝心のエイメンの姿はない。それどころかミライもいない。サマンサは再び瞳を閉じた。眠っているふりをしようと思ったのだ。誰かが入ってきてもこの暗さでは認識出来ないかもしれない、それなら相手を油断させて話を聞こうと思ったのだ。彼女は縄抜けの術など知らないので、無駄に足掻く気はしなかった。メルトが上から見ていたはずであり、きっとセリムに知らせてくれている。多少の時間稼ぎさえすれば助かる、そう疑わなかった。
扉が開く音がしてゆっくりと足音が近づいてくる。一人と思われる足音にサマンサは必死に想像力を働かせた。しかし彼女はそのような訓練をしていないので、男性か女性かさえわからない。踵の高い靴音ではないが、アスラン王国ではそのような履物がない。彼女は仕方なく瞳を閉じたまま、寝息に聞こえるように呼吸を整える事に集中した。
足音はサマンサの側で止まった。そして横向きに寝かされていた彼女を仰向けへと変える。彼女は抵抗しないように転がった。しかし次の瞬間、酒の匂いがして彼女は反射的に顔を顰めた。彼女にとって酒は睡眠薬と同等であるので、口に入れられたらたまらないと、咄嗟に酒の匂いから遠ざかる為に身体を背けた。
「起きていたのですか」
冷めた声色はミライのものだった。サマンサは観念して目を開け、首だけ声が聞こえた方に向けた。先程まで暗かったはずの部屋は燭台の弱々しい灯で照らされ、ミライは無表情で彼女を見下ろしている。弱い光だった事から彼女は眩しいと思う事なくミライを睨んだ。
「何故、このような事を」
「貴女がさっさとセリム殿下と夫婦にならないからいけないのです」
サマンサはミライの言いたい意味がわからなかった。彼女とセリムは既に夫婦である。離婚する気もない。
「私はセリムさんと離婚する気はないわ」
「それなら何故エイメン殿下に色目を使ったのですか。話まで合わせておいて、言い逃れが出来ると思っているのですか?」
「それはあくまで彼の弟としての付き合いだけで、それ以上ではないわ」
「嘘は結構です。ただ弟としての付き合いだけなら昼食に招かれる必要などないのですから」
サマンサは話しながら考えていた。ミライの論点がおかしい。ゼフラの為でもエイメンの為でも、自分をセリムから離す方向で進めなければいけないのに、何故かエイメンに近付いた事を責められている。まるでエイメンに近付くなと言われているようだと思って、彼女はひとつの結論に辿り着いた。
「それは私がアスランの風習を知らなかっただけの話よ。母国では珍しい事ではないの」
「異国の話という本当か嘘かもわからない事を理由にしないで下さい」
ミライは屈むと手に持っていた酒瓶をサマンサに近付けた。強引にでも飲ませる気かと彼女は逃げようとしたが、ミライは彼女に跨って動きを封じた。
「それを飲ませてどうするの」
「先日、貴女はエイメン殿下の事を誰かと勘違いしました。また同じように振る舞って頂ければ自尊心の高いエイメン殿下の事。もう貴女を諦めると思うのです」
「それならお酒など入っていなくてもきっぱり言うわよ。そもそもミライは普段の夕食の会話を聞いていたでしょう?」
「えぇ、聞いていました。セリム殿下を欺く為に、エイメン殿下が苦手なふりをしていたのですよね」
何故そうなるとサマンサは言おうとしたが、ミライが力強く額を上から押さえたので言葉にする事が出来なかった。彼女の頭は床に押し付けられ、痛みに顔を歪めた。どうやって逃げるか、彼女が口を堅く閉じながら必死に考えていると突然扉が開いた。
「待て、サマンサに危害を加えるな」
セリムの声にミライは驚いて力を緩めた。その隙に彼の後ろから部屋に入ってきたメルトがミライに近付き、酒瓶を奪うとすぐさま拘束した。セリムは慌ててサマンサに近付くと抱き起こす。
「遅くなってすまない。大丈夫か?」
「えぇ。来てくれると信じていたから」
サマンサはセリムに抱きつきたい衝動に駆られたが、手を後ろに縛られていて出来ない。彼女の困った表情で彼は気付き、ゆっくりと縄を解いた。
「何故邪魔をするのですか!」
ミライの言葉にセリムは振り返ると不機嫌そうな表情を向けた。
「サマンサは私の妻だ。妻を守るのは夫の役目」
「一体セリム殿下もエイメン殿下もその女のどこがいいのですか。何故長らくあの方の為に働いてきた私ではなく、ただ肌が白いだけの女を――」
「それ以上口にする事は許さぬ。メルト、彼女が何をしていたか全部吐かせてくれ」
セリムはサマンサの腕を縛っていた縄をメルトに投げた。メルトはそれを片手で受け取ると器用にミライの腕を縛る。
「何故私ではいけないのですか。アイシャは…んっ」
黙らないミライの口をメルトが手で塞ぐ。サマンサはアイシャという名前が気になったが、メルトは一礼するとミライを連行していった。セリムは不安そうな表情でサマンサを見つめる。
「サマンサ、歩けそう? ここから別館はさほど遠くない」
「えぇ、大丈夫。ゼフラ様の所へはいかなくてもいいの?」
「ハサンが事情を伝えに行ってくれている。そのせいで少し遅くなってしまってすまない」
「いいえ。何もされていないから大丈夫よ」
サマンサは微笑んだ。セリムも笑顔で頷くと彼女を立ち上がらせた。彼女は服についた埃を叩く。どうやら空き家のようで彼女は全身埃まみれになっているような気がしたが、鏡がないので確認が出来ない。彼女が彼に外を歩いてもおかしくないか問うと、暗いから大丈夫と返された。
「あの、お願いがあるのだけど」
部屋を出て行こうとするセリムの背中にサマンサは言葉をかけた。彼はゆっくりと振り返る。
「別館まで手を繋いで貰えないかしら。大丈夫だとは思うけれど、また誰かに連れ去られたら困るから。今はほら、メルトもいないでしょう?」
「あぁ。外は暗いから誰が何をするかわからないし、そうしよう」
セリムは笑顔で手を差し出した。サマンサも笑顔で彼の手を取る。そして二人は別館へと歩き出した。彼女は強く握りしめてくれる彼の手の温もりに幸せを感じていた。
同時刻。ハサンはタラール親子と向かい合っていた。
「何故セリムではなくて貴方が来るのよ!」
ゼフラはとても不機嫌そうな表情でハサンを睨んでいる。その横に腰掛けているタラールはどこか落ち着かない様子だ。
「こちらに伺えない事情が出来ました。ゼフラ様は御存知ですよね」
「知らないわよ。昔から貴方の顔を見ると苛々するから早くセリムを連れてきて」
ハサンは冷めた視線でゼフラを見る。この二人はオルハン存命中から意見が合わなかった。何の抵抗もなく金を使う彼女に再三注意をしたのが彼だ。彼も女性ならお金がかかるのは仕方がないとは思っていたのだが、サマンサが嫁いでから三週間で求めた物は糸だけだった。しかもそれはセリムに贈る為の機織り用の糸である。サマンサは嫁入りにあまり荷物も持ちこまず、セリムが用意した物を身に着けて生活している。つくづくセリムの妻がゼフラにならなくてよかったと彼は実感していた。
「サマンサ様はミライに誘拐された為、セリム殿下は捜索にあたっておられます。ミライにどこへ連れて行くよう指示をされたのですか?」
「はぁ? 何で私がそんな事をしなくてはいけないのよ」
ゼフラはハサンを睨んでいる。彼は彼女が嘘を吐いているようには見えなかった。彼は視線をタラールへ移す。
「それではタラール様はいかがですか。エイメン殿下ならどこへ連れて行くと思われますか?」
「わ、私が知るはずもないだろう」
「ですが急に夕食に招くのはあまりに不自然です。エイメン殿下の指示ではないのですか」
ゼフラは不審そうに父親の顔を見る。タラールは明らかに動揺をしていた。
ハサンは事情をセリムから聞いていた。ミライはサマンサを抱えて遠くに逃げる事が出来ないと思ってか、比較的誘拐を実行した場所から近くの空き家に逃げ込んだ。その一部始終をメルトが建物の上から確認した所に、セリムも建物に上ってきた。素早さには自信のあるセリムがメルトに監視を依頼して、一旦別館に戻ると、手土産の酒を置いて万が一の為の武器を携帯し、彼に事情を説明した。言い終わるとすぐに救出に向かったセリムを見送った彼は、料理人に軽い食事を用意するように指示をしてからこの邸宅へと歩いてきた。
「私は甥の結婚相手と夕食を共にしたかっただけだ」
「そうですか。言いたくないのでしたら構いません。こちらも証拠は揃っていますから」
ハサンは微笑を浮かべた。タラールの額に汗が滲む。
「しょ、証拠とは何だ」
「教えて頂けないのでしたら時間が惜しいので、私はこれで失礼致します」
メルトとセリムならば多少の賊くらい何とでもない。あの二人は戦場を知っている。例えミライがエイメンの命令で誘拐したとしても、エイメンが用意する賊ならば簡単に倒せるだろう。ハサンの仕事はタラールを揺さぶり自滅を狙う事だが、動揺している姿を見る限りある程度成功したと言えそうだ。
ハサンは一礼をするとその場を辞した。背中からゼフラがタラールを責める声が聞こえてきたが、あえてそれは聞かなかった。大丈夫とは思っていても実際サマンサが無事だったかを確認するまでは安心出来ない。彼は足早に別館へと戻っていった。




