穏やかな時間
青色で織った敷布をセリムに渡した後、サマンサは家政婦長が勧めてくる桃色の糸を使って自分用の敷布を織っていた。一時は上手く織れなかった彼女だが、彼の態度にも徐々に慣れたせいか、今は間違える事なく淡々と織れる。彼の態度が変わるのが早過ぎると思っていた彼女であるが、人の事は言えないと感じていた。
ただ、セリムの存在は今までの誰とも違うと思うのだが、それをどう表現するのが正しいのかサマンサにはわからなかった。友情とは違う、けれどカイルに抱いていた気持ちとも違う感情を彼女は持て余し、結局答えを出せないまま過ごしていた。
「本日はセリム殿下とどちらへ行かれるのですか?」
「市場を歩いてから珈琲を飲みに行くの」
サマンサはアイシャにガラス製の文鎮をふたつ依頼していた。それはナタリーとライラへの贈り物である。グラスでもよかったのだが、二人ともあまり酒を飲まないので使用頻度が低い。それに船での輸送中に割れてしまうのも嫌だったので割れにくい文鎮にし、今日はその受け取りの日だった。
「サマンサ様は外出される事に抵抗はありませんか?」
「レヴィでは王都を歩いた事がなかったのだけれど、今は抵抗がなくなってしまったわ。市場の人も多分二人一緒が普通になっているのではないかしら」
セリムは元々市場をよく歩いていた。机の前で仕事をしているのが性分に合わず、書類に書かれている事がどういう事なのかを自分の目で確かめていたのだ。国営の工場以外では身分を明かさない彼を、市場の人達は裕福な家庭の放蕩息子くらいにしか思っていない。しかし偉そうな態度ひとつせず、人の話をしっかりと聞く姿は市場の人達に受け入れられていた。そして異国の商人の孫娘を娶ったとあちらこちらで紹介し、その女性を連日連れ回している事も、放蕩息子だから仕方がないかと見逃されていたのだ。
「そのようですね。お二人の姿を見て、夫婦が一緒に歩いてもいいのだと思い始めている人もいるようですよ」
「それは私達関係なく歩けばいいと思うけれど。何が嫌なの?」
「この国では誰かに奪われないようにと夫が妻を家の中に閉じ込めるのです。後宮へ入られたらサマンサ様も二度と出られません」
「二度と?」
サマンサは眉根を寄せた。気軽に出られないとは思っていたが、二度とというのは引っかかったのだ。
「えぇ。陛下の妻となる者は陛下が生きている間は後宮に閉じ込められます。王家以外の血を継ぐ男子が生まれてはいけませんから、後宮には女官と宦官しかおりません」
「もしレヴィから兄が訪ねてきても会えないという事?」
「そうなりますね。本来ならこの別館も同じなのですが、ここで働いている男性は宦官ではありません。オルハン殿下はゼフラ様と夫婦関係を営む気がなかったので不要と判断したのでしょう」
「レヴィには宦官制度がなかったの。必要性がよくわからないわ」
「男女の過ちはいつ起こるかわからないものです」
家政婦長はにこやかにそう言った。サマンサは理解出来なかった。母国では貴族同士の不倫の話なら聞いた事があるが、貴族婦人と使用人という組み合わせは聞いた事がない。アスラン王国では貴族制度もないので、色々と事情があるのだろうと無理に納得する事にした。
「彼は男性使用人を信用しているから宦官にしていないのかしら」
「どうでしょうか。ハサン様から大国の王女だから失礼のないようにと言い含められていますし、セリム殿下の浮かれた様子を二年以上見てきましたから、サマンサ様と男女の関係になりたいと思いはしないのではないでしょうか」
「余程浮かれていたの?」
サマンサの質問に家政婦長は笑顔を返しただけだった。言葉がない分、セリムは余程浮かれていたのだろうと彼女は思った。それと同時に、彼が望んでいるように振る舞えていない事が少し引っかかった。
「私はどう振る舞うのが正しいのかしら」
サマンサは杼から手を離した。家政婦長は母親が娘に向けるような柔らかい表情を浮かべる。
「自然体で宜しいかと思います。サマンサ様が無理をされてもセリム殿下は喜ばないと思いますから」
サマンサは視線を伏せた。セリムが王太子として頑張っているのだから、自分も王太子妃として頑張るべきなのだろうが、どうするべきかわからない。最近では寝る前に会話をする時も主導権は彼で、最初の頃と立場が変わってしまった。頬に口付けされたのだから唇を重ねる日も遠くないのかもしれない。それを一瞬想像して、彼女は目を瞑って小さく数回首を横に振った。
「いかがされましたか?」
「気にしないで」
サマンサは微笑むと杼を手に持った。彼女の作り笑顔はセリム以外にはまだ有効である。
午後、市場を見てからセリムとサマンサはケィティ料理店にいた。アイシャと店主が笑顔で二人を迎え入れてくれる。今日も大繁盛のこの店は少し騒がしく、二人はいつものようにカウンターへ腰掛けた。
「いつもので宜しいでしょうか」
「あぁ、頼む」
セリムは珈琲を、サマンサには甘いガレットと甘めの珈琲。これが定番になっていた。
「いつかはここに来られなくなってしまうの?」
サマンサは今日家政婦長に聞いた事が気にかかっていた。
「いずれはそうなる。サマンサの国では王妃が王都を出歩いていた?」
セリムの問いにサマンサは首を横に振った。彼女の母親は幼い頃に亡くなっているので出歩いていたかはわからないが、レヴィ王妃は王都どころか王宮内でも滅多に出歩かない人である。父である国王でさえ王宮の外へ出かける事はほとんどなかった。
「上に立つと仕方がないのかもしれないわね」
「別にいいと思うのだけれど、慣習はなかなか変えられないから」
「セリムさんが身分を明かさないのは何故なの?」
「自分がらしくないと言うのもあるけど、何より自由に歩けなくなるのが嫌だから、かな。ここの店主のように普通に接してくれる人ばかりだといいのだけれど」
セリムは店主の方に視線をやると、店主は笑顔で応えた。ケィティは元々共和制で身分のない国だった。だからかケィティ人の商人は相手の望む接し方をするのが上手い。店主は彼の希望を汲んで普通に接している。店主が彼を王太子と知っているのはテオから聞いたからである。
「私も商人の孫娘という肩書に慣れてきたの。これではいけないと思うのだけど」
「今はそれでいいと思う。俺もサマンサとこうしてここに通うのは楽しみだから」
セリムが嬉しそうに微笑むのでサマンサもつられて微笑む。最近彼女は彼に微笑まれると自然と微笑むようになっていた。その時に訪れる穏やかな空気が彼女は好きだった。母国では感じた事のなかった、この居心地の良さが末永く続けばいいと思っていた。
「例の件はどうなったの?」
「まだ返事はない。わかったら話すよ」
サマンサは頷いた。彼女は和睦案を持ってカエドに向かった使者が持ってくる返事が気になっていたのだ。いくらアスランが和睦を願おうと、先方が受け入れなければ成立しない。そして平和にならなければ、この穏やかな日々がいつか壊れてしまうかもしれない。
「いい結果だといいわね」
「あぁ」
二人が笑顔で話しているとアイシャが珈琲を二人の前に置いた。アイシャはにこにこと嬉しそうにしている。
「アイシャ、何かいい事でもあったの?」
アイシャの態度が不思議でサマンサは問いかけた。アイシャは笑顔だ。
「お二人が幸せそうなので私も何だか幸せです」
サマンサは困ったように微笑んだ。
「アイシャには誰かいないの?」
「私の愛おしい人は旅立ってしまいました」
サマンサは瞬時に後悔をした。何気ない質問に対して、そのような返事だとは思っていなかったのだ。
「ごめんなさい。知らなかったとはいえ言い難い事を聞いてしまって」
「いえ、お気になさらないで下さい。今は手に職もつけて充実した日々を送っていますから」
セリムが以前、アイシャは二年しか働いていないと言っていた。その前までは結婚していたのかもしれない。サマンサはそう考えると、何を言えばいいのかわからなかった。どこか気まずそうな雰囲気の彼女を察してアイシャは微笑む。
「ご依頼の商品を今お渡ししても宜しいでしょうか」
「えぇ。急かしてしまってごめんなさい」
「いえ。文鎮はグラスより加工が楽なので問題ありません」
アイシャは作業台に置いてあった包みを持ち上げるとサマンサに手渡した。
「開けてもいい?」
アイシャが頷いたのでサマンサは包みを開けた。そこには赤と青のガラスで百合の模様が彫られている文鎮がふたつあった。彼女は自然と顔を綻ばせる。
「ありがとう。とても素敵。姉達もきっと喜ぶと思うわ」
「お気に召してよかったです。またいつでもお伺い致します」
サマンサは頷くと文鎮を包み直した。彼女はセリムの妻として上手く振る舞えない代わりにアスランの為に出来る事はないかを考え、アスランの工芸品が義姉達から貴族達の目に留まり広まればと思ってアイシャに依頼をしたのだ。このような綺麗なガラス細工はレヴィ王国にはないので流行ると踏んだのは、彼女に祖父から受け継いだ商人の血が流れているせいだろう。
王太子妃ではなく商人の孫娘らしくなってきたサマンサを、セリムは愛おしそうに見つめてから珈琲を口に運んだ。穏やかに彼女と過ごす時間が、彼の王太子としての重責を少し軽くしていた。全ての事が上手く収まるような気さえしていた。




