宴
話には聞いていても、実際に現実を目の当たりにするとサマンサは戸惑った。アスラン王国には結婚式という概念がない。一体どうやって心を切り替えればいいのか彼女はわからなかった。いくら他国の王宮に足を踏み入れたからといえど、嫁いだという実感がわかなかったのだ。
「ハサン様より案内役を申し付かっておりますので、ご案内させて頂きます」
身なりのいい女性が頭を下げると踵を返して歩き始めた。サマンサは今自分がいる場所がどこなのかもわからないまま、その女性の後をポーラと共についていった。廊下は静かで他に誰かとすれ違う事もなく案内された建物内にある部屋は、まるでレヴィ王宮の一室のようだった。
案内した女性は室内に入ると、もう一度頭を下げた。
「申し遅れました。私はミライと申しまして侍女を務めさせて頂きます。以後宜しくお願い致します」
「私はサマンサ、彼女はポーラ。彼女にしきたりなど色々と教えて貰えるかしら」
「かしこまりました」
サマンサは部屋をぐるりと見回した。調度品は母国の物で揃えられているので、ここが自分の部屋なのだろうと判断し、彼女はソファーに腰掛けるとヴェールを外した。
先程謁見の間で国王陛下に御目通りが叶い、ジョージはレヴィ王国の代表として堂々と挨拶をした。その挨拶が結婚式替わりなのかもしれないが、サマンサとしては腑に落ちない。白いワンピースに白いヴェールを被っていたとはいえ、婚礼衣装とは程遠い。謁見の間にセリムは同席していたものの、国王とは離れ臣下の者と一列に並んでいた。
「ミライ、この部屋は王宮のどの位置にあるのかしら」
いくら事前に風習などを学んでいるとはいえ、王宮の見取り図は見た事がない。むしろそのような物を易々と嫁ぐ前に他国に持ち出す者がいたら国防上問題になる。
「こちらはセリム王太子殿下用の別館です。王宮敷地内にあり廊下で繋がっておりますけれども、古来より別館と呼ばれております」
「何故別館と呼ぶの?」
「王宮とも後宮とも別の棟になるからでございます。王子には成人後別館を与えられそこで暮らす事になっておりまして、王太子はこちらの別館と決まっております」
ミライは淡々と答えた。サマンサはどうも堅苦しい雰囲気のこの侍女がわかりかねた。サマンサは王女という立場でレヴィ国内の貴族達と関わってきた。少し話せば相手が自分の事をどう思っているのか何となく察する事が出来るのだが、ミライは何も見えない。
「そう。それでは私はこれから何をしたらいいのかしら」
「特に何も。こちらで自由にして頂ければ結構です」
「挨拶すべき人はいないの?」
「ここから出られるのでしたら、まずはセリム殿下に許可を頂かないといけません」
サマンサはつまらなさそうな表情を浮かべた。アスラン王国は男性社会というわけではなく、女性でも能力があれば官吏として働く事も出来る。しかしサマンサは政略結婚として他国から嫁いできた何者かわからない女性であり、王宮内を自由に動かれるのは困るのだろうと、ミライの言葉をそう解釈した。
「つまりここに閉じ込められている、という事でいいのかしら」
サマンサの言葉には棘があった。側に控えていたポーラはそれを咎めようとしたが、ミライは気にも留めなかったのか無表情だ。
「セリム殿下、もしくはハサン様からの指示がない事に関しては対応致しかねます」
「そう。喉が渇いたから何か飲み物を貰えるかしら」
「かしこまりました」
「私もご一緒して宜しいでしょうか」
ミライはポーラに無表情のまま頷いた。ポーラは礼を言うとサマンサに一礼をして、二人は部屋を出ていった。
サマンサは他国に嫁ぐので自国の物は最小限に減らして持ってきた。今日はあくまでもレヴィ王女なのでレヴィ式の服装であるが、それ以外に持ち込んだ服はアスラン式の物である。それでもセリムからの手紙で身の回りの物は用意するとあったので、大した量は持ち込んでいない。
サマンサはヴェールに視線を移した。このヴェールはレースを編むのが趣味のライラが、結婚祝いにと贈ってくれたものである。男女差別のないこの国でライラはジョージの横で通訳の仕事を全うしていた。兄の苦手な部分を助けている義姉を見て、自分もレヴィ王女としてセリムの為に出来る事を考えてみようと思った。
サマンサはもう一度部屋を見回した。この部屋には廊下に繋がる扉の他に隣室に繋がると思われる扉が三ヶ所あった。一ヶ所は侍女の部屋、その隣の扉が衣裳部屋として反対側の壁の扉はどこに繋がっているのだろう。彼女が気になって立ち上がろうと思った時、部屋をノックしてミライとポーラが戻ってきた。ミライはテーブルにグラスを置くと水差しから水を注ぐ。
「綺麗なグラスね。アスラン王国の工芸品かしら」
「はい。王家が抱えているガラス工房の作品になります」
レヴィ王国にもガラス工房はあるが、目の前に置いてある綺麗な切込み細工をしてある物をサマンサは初めて見た。そしてレヴィ王宮では喉が渇いたと言えば出てくるのは紅茶だったのだが、注がれたのは水だった。何故水なのかと思いながら彼女は一口飲む。口の中に今まで感じた事のない香りが広がった。
「爽やかな香り。何が入れてあるの?」
水差しもガラス製なので中に何か入っているのは見えるのだが、それが何かはサマンサにはわからなかった。
「檸檬を輪切りにして入れております。こちらでは一般的な飲み物です」
「そう。紅茶を飲む習慣はないのね?」
「茶葉の輸入は始まっておりますが、まだ広まってはおりません」
紅茶を飲む習慣がないのならば、茶会の習慣もないのかもしれないとサマンサは視線を落とした。ここで自分が何をするべきなのか見えてこなかったのだ。
「今夜はアスラン王国とレヴィ王国の今後の発展を祝う宴が催されます。それまで今暫くこちらにてお控え下さい」
サマンサは頷いた。その宴で王宮内の人達と挨拶が出来るだろう。自分が何をするべきなのかは挨拶をしてから考えようと彼女は思った。
アスラン王宮の大広間には大勢の人が集まっていた。レヴィ王宮で行われていた舞踏会とは違い、長テーブルがいくつも並べられそこに皆が着席していた。サマンサは案内されるがまま、セリムの横に腰掛ける。彼は暫く彼女の顔を見つめたまま固まっていた。
「お久しぶりです、セリム殿下」
サマンサはあまりの視線に耐えかねて挨拶をした。その声にセリムは反応し、姿勢を正す。
「あぁ、久しぶり」
セリムはそう言ったものの、サマンサを見つめる視線は動かない。彼女はどうしたものかと迷っていると、アスラン王国の大臣と思われる男性が挨拶を始めたのでそちらを向いた。二国間の今後の発展についての言祝ぎの後、グラスを手に取ったのでサマンサも置いてあったグラスを手にした。乾杯との声と共にその場の者がグラスを高く持ち上げたので彼女もそれに倣った。そして皆が一斉に飲み始めたので彼女も飲もうとグラスを近付けた瞬間、酒の匂いがして彼女は躊躇った。その様子にセリムは気付いて声をかける。
「酒は嫌い?」
「嫌いといいますか、少し飲むだけで眠くなってしまうのです」
素直にサマンサがそう告げると、セリムは空になった自分のグラスと彼女のグラスを素早く交換し、酒を一気に飲み干した。
「宴はそうそうないけれど、次からは中身を水にするように伝えておくよ」
「ありがとうございます」
サマンサは微笑んだ。二年前、顔合わせの場ではなく偶然街中で出会った時、突然セリムに手首を掴まれて彼女は怖い思いをした。その後誤解は解けたものの、どうしてもその印象が拭えなかったのだが、言葉が通じなかった二年前と違い、会話を交わす事が出来たからか悪い印象が薄らいだ。今も彼女が困っているのを察して助けてくれた。根は悪い人ではないのだろうと彼女は改めて思った。
舞踏会とは違い皆が着席しているので挨拶回りが出来ない。サマンサはどうしたものかと困りながら会場を見回した。その中で楽しそうに話しながら食事をしているジョージとライラをはじめレヴィ王国の人達がいた。しかし彼女の席とは遠く声を掛ける事は出来ない。彼女の席は長テーブルが並んでいる上座にあり、セリムと二人だけの小さなものである。その隣にアスラン国王と王妃が腰掛けているテーブルがあるが、そちらも声を掛けるには少々遠かった。
「セリム殿下。私は何をするべきでしょうか」
サマンサが小声で尋ねると、セリムは不思議そうな顔をした。
「食事をすればいい。もしかして口に合わない?」
「いえ、料理は美味しいです。挨拶はしなくても宜しいのでしょうか」
「宴で挨拶はしない。挨拶したい人がいるなら明日以降案内をするけど」
「わかりました。是非お願いします」
サマンサはこの国のしきたりに従おうと思い微笑んだ。セリムは彼女の顔をまた暫くじっと見つめた。