義弟と従姉
翌日、サマンサはセリムに貰った指輪をはめた。そして家政婦長に少しだけ外出をしたいから、別館の使用人を一人連れて行きたいとお願いをした。家政婦長は少々渋ったものの、セリムが戻るまでには戻るからとサマンサが言うので一人の女性を呼び、なるべく早く戻って下さいと念を押した。全ては昨日、機織りをしながら考えた脚本通りである。
サマンサは護衛の侍女を連れてエイメン宅へと向かった。同じ敷地内にある別館なので大して遠くない。しかし彼女にしてみれば王宮以外の別館はどれも同じような建物であり、どこに誰が住んでいるのか全く分からない為、案内役としても侍女は必要だった。だからポーラ以外の女性を連れていたとしても、不審がられないだろうと思っている。
「御待ちしておりました。エイメン殿下が中で御待ちです、どうぞ」
エイメンの暮らす館の前の護衛がそう言って扉を開けた。サマンサはその横を通り過ぎる。侍女は護衛に一礼をして彼女の後ろをついていく。屋敷内に使用人の女性がいて、二人を食堂へと案内をした。歩きながら彼女は館内を観察していた。建物の構造に大きな差はなさそうである。
「わざわざお越し頂きありがとうございます」
エイメンは笑顔でサマンサを迎え入れた。彼女も彼に笑顔を向ける。
「本日は御招き頂きありがとうございます」
使用人が椅子を引いたのでサマンサはそこに腰掛けた。向かいに腰掛けているエイメンがにこやかに彼女に微笑む。
「酒は何がお好みですか?」
「いえ。匂いがするのは困りますから遠慮させて下さい」
先日の夕食の時にサマンサは水を飲んでいたのだが、そこまでは確認されていなかったのかと思うと、あえて苦手だと言う気にはならなかった。エイメンも納得したように頷くと、使用人に水を持ってくるよう指示をした。
「料理人は館によって違いますから、是非その違いも楽しんで下さい」
サマンサが頷くと、給仕が食事を運んできた。約束の時間通りに来たので準備が整っていたのだろう。彼女とエイメンの前に皿を置くと、別の給仕が水を持ってきて彼女のグラスに水を注いだ。
「君もそこに立っているのは辛いだろう? 食事を用意させるから下がるといい」
「いえ、彼女は出来たら控えさせてもらえませんか?」
エイメンが侍女を追い出しそうになったので、サマンサは微笑みながらそう言った。この部屋に流石に二人きりになる気はない。しかし彼は不満そうな表情を彼女に向けた。
「二人きりでという事でしたら私はこのまま失礼させて頂きます。セリム殿下に露見した時に申し開きが出来ませんので」
サマンサは憂いを含んだ視線でエイメンを見つめた。彼女は今日セリムに内緒で来た設定なので、夫に内緒で素敵な男性に誘われて遊びに来た女性を演じている。エイメンはそんな彼女の演技に気付かなかった。
「本当に内緒でいらっしゃったのですか?」
「えぇ。ですからセリム殿下が戻るまでに帰らなければなりません。長居出来ず申し訳ありませんが、短い時間でも楽しみたいと思っております」
最初から長居するつもりなどない。その為にもこの設定が必要だった。お忍びで来たというのは盛り上がる演出だろう。サマンサはエイメンにはにかむような微笑みを零した。
「そうですね。私もサマンサ様とゆっくりと親交を深めたいと思います」
サマンサは心の中でゆっくりではなく、すぐに欲しい情報だけを引き出して帰りたい気分だったが、急いては事を仕損じる気がしたので焦らないようにしようと思った。
「先日の夕食はとても楽しい時を過ごせました。なかなか対等に話せる人間がいないので困っていたのです」
「私の読書は趣味ですから、実用性は一切ありませんけれど」
先日の夕食会でサマンサは政治的な話はしていない。あくまでも本で得た知識での会話である。しかしアスランはそもそも識字率が低く、仕事以外に読書をする人間は少ない。セリムでさえ軍記以外は読まない有様である。
「それでも同じ本を読んで感想を言い合える相手は初めてです。国は違えども同じ本を読んでいるとは、何か感じるものがありますね」
何も感じませんけれど、という言葉をサマンサは呑みこんで微笑んだ。そして食事をしながら本の感想を言い合った。彼女は食事の味が少し濃いと思いながら、エイメンに当たり障りのない答えを返していく。彼女は兄弟しかいない為、読む本に偏りがあったのだが、それが妙な所で役に立ったと思った。いい本と言うのは翻訳され別大陸にまで広がっているというのも興味深い発見である。
「兄は読書をしないでしょうから、会話をしていてもつまらないのではありませんか?」
「セリム殿下は私を色々な場所に案内してくれます。目で見るというのも楽しいものですよ」
「しかしそれでは案内出来る場所がなくなった後はどうするつもりなのでしょうか」
「それは伺っておりませんのでわかりません」
サマンサは困ったように微笑んだ。実際聞いていないのでわからない。それでも市場に行けば毎日同じという事もないだろうし、ケィティ料理店へ珈琲を飲みに通うのも悪くない。今日の予定も聞いていないけれど、どこかに連れて行ってくれるだろうと彼女は勝手に期待をしている。
「こちらへはいつ来て頂いても構いません。図書館にない本も色々所有していますから」
「お気遣いありがとうございます。今は先日借りた神話の本をゆっくりと読んでいる最中ですから、何か読みたい物が出来た時に伺いますね」
サマンサは今日から午前中は機織りを一旦止めて読書に切り替えた。彼女はアスラン王国で一生暮らすならば、この国に根付いている神話を読み込んで覚えたいと思っていた。
「神話を読まれているのですか?」
「えぇ。私の母国は宗教がありませんでしたから、とても興味深いです」
「ケィティには信仰があると聞いておりますが」
「ケィティは元々レヴィとは違う国です。それにケィティには神殿などはなく、海の神に旅の無事を祈るという比較的軽いものですね」
宗教は国が違えば色々と異なる物である。政教一致の国もあるが、アスランは切り離されている。それでも国民の拠り所であり、神殿に祈りを捧げるのは日常である。
「本当にサマンサ様は多くの事を御存知なのですね」
「王女は案外暇なので、読書の時間はいくらでもありましたから」
「それは私も同じです。王子も案外暇なのです」
王女と違って王子は暇ではいけないだろうと思いながら、サマンサは微笑む。ハサンが言ったようにエイメンは政治には詳しくないのかもしれない。彼女は彼が微笑んでいるので、もう一歩踏み込めそうだと判断をした。
「王位継承権を放棄される予定はおありなのでしょうか」
「その予定はありません。ただ王位を狙っているわけではなく、既に兄が三人亡くなっていますから権利だけは保持している方がいいだろうというだけの話です」
エイメンは微笑を崩さなかった。サマンサは彼の本音を判断しかねた。急いで王位を奪わなくてもセリムに何かあれば勝手に王位は転がってくる、とも聞こえたのだ。
「周囲の皆様もその方が安心されるでしょうからね」
「えぇ」
サマンサは微笑むエイメンの瞳の奥に野望の光が宿っているような気がした。彼女はそれに気付かなかったように微笑み返す。あくまでも彼女は彼に興味を抱いているように勘違いをさせながらも、一線を引いて越えさせない態度を貫いた。その後はレヴィ語の発音の仕方などを話しながら時間を過ごした。
サマンサがエイメンの館から帰ろうと歩いていると、横から声を掛けられた。
「何故エイメン殿下の館から出てきたの?」
サマンサはゆっくりとゼフラの声のした方を向いた。彼女はエイメンには敬称を付ける最低限の礼儀は持ち合わせていたのかと、呑気に考えていた。
「昼食に誘われただけです」
「昼食? そのような理由が通ると思っているの?」
「嘘ではありません。彼女も侍っておりましたから二人きりでもありませんでしたし」
ゼフラは侍女の方を一瞥してサマンサを睨む。
「侍女には何とでも言わせる事が出来るわ」
「ここは王宮の敷地内です。あまり大声で話されるのは宜しくないかと思いますけれど」
「やましい事をしていると思っているからそう思うだけでしょう?」
常識的な話をしているのだとサマンサは思ったが、そもそもゼフラと常識の認識が同じとも思えなかった。
「セリムに言いつけてやるわ」
「お好きにして下さい。それでは失礼させて頂きます」
サマンサは帰るべく歩き出した。ゼフラは明らかに不満そうな顔をして、サマンサの腕を引っ張ろうとした。しかしそれを護衛の侍女がゼフラの手首を掴んで制止させた。
「御無礼致しました。しかし、サマンサ様に手を出される事は御遠慮願います」
「誰か知らないけど邪魔をしないで」
ゼフラの言葉にサマンサは引っかかった。オルハンの頃より仕えている使用人のはずなのに、何故ゼフラが知らないのだろう。確かに紹介されたこの使用人は普段洗濯を担当しているので、顔を合わせる事はあまりない。それでもサマンサはポーラに案内を依頼した日に、使用人全てと挨拶を交わしていたので、家政婦長に紹介された時に彼女が洗濯担当の使用人だとすぐにわかった。
「あの別館に務める者は現在セリム殿下とサマンサ様の為に働いております。サマンサ様を傷付けるような行為は看過致しかねます」
「この女が先にセリムを傷付けるような行為をしたでしょうが!」
ゼフラは侍女を睨んでいるが、侍女は手の力を緩める気はない。サマンサは再びゼフラの方を振り返る。
「エイメン殿下からのお誘いを断れなかっただけです。ゼフラ様もエイメン殿下に誘われた時は断らなかったでしょう?」
「誘われた事はないわよ。そもそも普通は誘わないわよ」
「そうなのですか? 私はアスラン王国の普通がわからないものですから」
サマンサはにっこりと微笑んだ。ゼフラは悔しそうな顔をする。
「エイメン殿下がいいなら、セリムと離縁してエイメン殿下と結婚すればいいじゃない」
「そのような事は思っておりません。それでは失礼致します。ナディア、行きましょう」
侍女は突然自分の名前を呼ばれて一瞬驚いたものの、ゼフラの手を離すと歩き出したサマンサの後を追った。ナディアは気になって後ろを振り返ったが、ゼフラが追いかけてくる様子はない。
「サマンサ様、私の名前を御存知だったのですか?」
「一度挨拶をしたから覚えているわよ。ゼフラ様とは面識がなかったの?」
「いえ、別館内ですれ違う事は多々ありましたけれど、名前を聞かれた事はありません」
「そう。名前を覚えるのは人付き合いの基本なのにね」
サマンサはナディアに微笑んだ。ゼフラにとって使用人はあくまでも使用人であり、自分より下とでも思っていたのだろう。彼女は身分の違いを受け入れているが使用人も人であり心を持っているのだから、接するのに必要以上に差をつけるべきではないと思っている。特に別館はレヴィ王宮と違って狭く、使用人の数も少ないので全員で家族のような温かさがあってもいいとさえ思っていた。ただ使用人から彼女に近付いてくる事はなく、彼女も仕事を邪魔してはいけないと近付きはしなかっただけである。
「私はサマンサ様に仕える事が出来て嬉しく思います」
「仕えるのはセリム殿下にして頂戴。私とはもう少し近い距離がいいわ」
サマンサは優しく微笑んだ。ナディアは嬉しそうな表情をしながら、かしこまりましたと返事をした。




