誘いの手紙
セリムはハサンと共に別館から王宮へと歩いていた。メルトも護衛をしているが、二人から確認出来る場所にはいない。
「セリム殿下、昨夜良い事でもありましたか」
昨日の夕食までは悩んでいる雰囲気があったセリムだが、今朝は清々しい表情をしている事がハサンには意外だった。
「サマンサと夫婦としての一歩目を踏み出せたと思う」
「やっと初夜を迎えたのですか」
呆れ顔のハサンにセリムは眉を顰める。
「迎えていない。それはサマンサの気持ちを待っていると以前説明したはずだ」
ハサンは非難するような視線をセリムに送った。気持ちを待っている状態でどのような一歩を踏み出したのかわからなかったのだ。
「これは私とサマンサの問題だ。口を出すな」
セリムの口調は不機嫌そうだが、表情は明らかに機嫌が良さそうだ。
「私はサマンサ様がセリム殿下の妻でいてくれると言うならば、何も言う事はございませんけれど」
「それは私の今後の頑張り次第だ。今抱えている案件をひとつひとつ片付けていく」
「王太子として立派に振る舞われるという事ですか?」
セリムは違うと言おうとして言葉を呑みこんだ。ハサンはオルハンより王太子になった弟を支えて欲しいと言われ、今隣にいる。サマンサが嫌なら王太子を譲ればいいと言ってくれた事が嬉しかったとは言えない。しかし彼はその言葉が本当に嬉しかった。王太子になってから二年半以上が過ぎたとはいえ、まだまだ彼は兄の足元にも及ばず、軍議以外は隣にハサンがいないと対応出来ない。自分の能力不足を嘆いても始まらないので少しずつ学んではいるものの、エイメンを王太子にと言う声が消えていない以上、周囲の期待する所までは到達できていないのだろうという自覚はある。だからこそ求められる王太子の枠に無理矢理嵌らず、自分らしい王太子になればいいと言う言葉も嬉しかったのだ。
「サマンサに認められる王太子になりたい、かな」
「そういう事ですか。それならばせいぜい頑張って下さい」
「その言い方はどういう意味だ? 適当にあしらって」
「いいえ。サマンサ様は優秀な方と御見受けしております。サマンサ様が認められるのでしたら我が国の大半の者も納得いくような王太子になるでしょうし、異論はありません」
「引っかかる物言いだな」
「そうですか? これでも柔らかく言っているつもりなのですけれど」
淡々とそう言うハサンにセリムは返す言葉はなく、小さくため息を吐いた。
「おはようございます。サマンサ様、仲直りは出来ましたか?」
サマンサは今朝もベッドから起きてソファーに腰掛けていた。しかし、肘掛に凭れかかっておらず、図書館から借りてきた本を読んでいた。彼女は本を閉じるとポーラの方を向く。
「新婚生活を始められそうだから、レヴィに戻らず暫くここにいる事にしたわ」
「そうですか。やっとですね。すぐに妊娠という事はないでしょうけど、サマンサ様の子供なら男女どちらでも可愛いでしょうねぇ」
サマンサはポーラの勘違いに不機嫌そうな顔を向ける。
「ポーラ、何の話をしているの?」
「夫婦生活を始めたのですよね?」
「セリム殿下なら昨夜も自分の部屋で寝たわ。そういう夫婦生活は始まっていないの」
ポーラは訝しげな表情をサマンサに向ける。
「私の気持ちが動くのを待ってくれているのよ。いつになるかはわからないけれど」
「サマンサ様はセリム殿下の事を好きではないのですか?」
「悪い人ではないとは思うけど、それだけね」
ポーラは疑うような表情をサマンサに向ける。
「悪い人ではないというだけで、あれほど苛立たれますか?」
「それは彼の考え方に苛立っただけよ。好きな男性に対してはときめくものなのでしょう? そのような感情はないわ」
「サマンサ様も案外ロマンチストなのですね」
「そうかしら? カイルに口付けを強請るような王女なのに?」
「えぇ? まさか権力を使って強引にしてもらったのですか?」
ポーラは侮蔑の眼差しをサマンサに向ける。サマンサは強めにポーラを睨んだ。
「してくれなかったわよ。だから私はまだ口付けもした事がないの。セリム殿下にして欲しいと思えるようになったら、気持ちが動いたという事ではないの?」
「今はしてほしくないのですか?」
サマンサはセリムと口付けをする想像をしようとしたが、上手く出来なかった。
「そもそもされない気がするわ」
「セリム殿下の好意は明らかではないですか」
「でも迫られる気がしないの」
サマンサの言葉にポーラも想像しようとしたが、そもそもセリムがサマンサの手を取る事さえも想像出来なかった。
「確かに、想像は出来ませんけれど」
「でしょう? もうお喋りはいいから朝食の準備をして頂戴。敷布を織る時間が減ってしまうわ」
サマンサは微笑んだ。恋愛感情はさておき、セリムを妻として支えたいという気持ちはある。早く敷布を織って今度こそ手渡しをしようと思っていた。
機織りは順調に進んでいた。サマンサの上達は早く、敷布を一枚織った後は二色の糸を使って格子柄を織ろうという話になっている。彼女はセリムに何色が好きか聞いてから織ろうと思っていた。この国の男性は普段白色の服しか着ないので、好みの色が全く想像出来ない。一方女性は色とりどりだ。使用人でさえ赤や青など好き勝手な色を身に纏っている。
サマンサが部屋でセリムの戻りを待っていると、使用人が扉をノックした。ポーラが返事をして扉を開けると、使用人は困ったような表情をしながら手紙を差し出した。
「こちらはエイメン殿下からサマンサ様宛なのですけれども……」
使用人は断る事が出来ずに受け取ってしまったものの、本当は受け取ってはいけなかったのではないだろうか、しかし握り潰す事も出来ずそのまま持ってきたと言う。サマンサは柔らかく微笑んだ。
「手紙の内容はこちらで確認して対応をするから気にしなくていいわよ」
サマンサの言葉を聞いてポーラは使用人から手紙を受け取り、使用人は一礼すると戻っていった。ポーラは扉を閉め、ペーパーナイフと共にサマンサに手紙を渡す。サマンサはすぐに封を切って中を検めた。
「一体何用でしょうか」
「先日の夕食のお礼として、今度昼食に招待したいから都合を教えて欲しいとあるわ」
「サマンサ様の望んでおられた交流ですか?」
ポーラの質問にサマンサはゆっくりと首を横に振る。
「先方は私一人しか招待していないわ。対応に困る手紙」
サマンサは手紙を折り畳む事もせず、テーブルの上に置いた。もうすぐセリムが帰ってくる。隠すとやましい事をしているみたいで嫌だから、彼にも見せようと思ってそうしたのだ。彼は朝食だけでなく昼食も王宮で済ます。朝食は王家の食事に対し、昼食は大臣等との会合のようなものらしい。彼女の国は元々昼食がなかったので今も食べていない。それを理由に断れば角が立たないかもしれないけれど、彼女はエイメンと二人きりで話してみたいとも思った。しかしそれを彼が認めてくれるかはわからない。
暫くしてセリムが部屋を訪ねてきた。彼の視線が左右に動く。サマンサは彼の迷いに気付いて微笑む。
「お好きな方で宜しいですよ」
ポーラが控えているのでサマンサは言葉を砕く気はない。しかしセリムがどちらに腰掛けるかは彼に任せる事にした。彼はもう一度左右に視線を動かした後、彼女の向かいのソファーに腰掛けた。
「これは?」
「どう対応するべきか一緒に考えて頂けませんか?」
セリムが手紙に気付き、サマンサはそれを手に取るとセリムに渡す。彼は手紙に目を通すと微妙な表情を浮かべた。
「最後に私には内緒でとあるのに、堂々と見せてもいいのか?」
「私がエイメン殿下の指示に従わなければならない道理はありません。そのような無礼な手紙を送ってくる方が悪いと思いますけれど、違いますか?」
「いや。それなら私に内緒という体で食事に招かれたらいいと思う」
意外な返事に、サマンサはセリムに困惑の表情を向けた。彼は柔らかく微笑む。
「サマンサがエイメンに異性として興味を持っていないのは理解しているよ。流石にエイメンもサマンサを殺したりはしないだろう。不安だと言うなら腕の立つ女性を侍女として一緒に連れて行くといい」
「そのような女性がいるのですか?」
「あぁ。元々兄がこの別館の留守を任せた女性で、当時から使用人として働いている。彼女の本職はハサンと家政婦長しか知らない」
セリムが出かけている時は当然メルトも別館にはいない。門衛はいるが、内部に護衛を置いておくのは不思議な事ではない。
「それではその女性に同行をお願いします。殺される不安はありませんが、手を出されるのは困りますので」
サマンサの言葉にセリムが眉を顰めた。
「気のある素振りをした以上、何かされても文句は言えません。ですが対策もせずに出かけて嘆くような愚かな真似もしたくありませんでしたので、そのような女性が侍ってくれると安心です」
「エイメンに襲われると思っているの?」
「自分に自信のある方でしたら落としたい女性に対し、甘い言葉を囁いて口付けをするのは容易い事ではありませんか? 私はアスランの男女の事情がわからないので、何もされないかもしれませんけれど」
「それは私もわからないけれど」
何故わからないのかと問うとしてサマンサはやめた。セリムが女性に慣れていない事くらいわかる。男女の事など、今まで興味を持たずに生きてきたのだろう。元軍人の彼にそれを責めても仕方がない。
「私はあくまでもセリム殿下の妻として赴きます。それだけははっきりと伝えますので、心配はなさらないで下さいね」
サマンサはにっこりと微笑んだ。エイメンが何を考え行動をしているのか、それさえわかれば後は近付かなければいい。セリムも笑顔で頷くと、今日は豊穣の神を祀っている神殿に行こうと誘ってくれたので彼女も笑顔で了承し、二人は神殿へと出かけた。




