結婚に向けてそれぞれの思い
王宮内にある別館の一室を青年は満足そうに眺めていた。
「セリム殿下、やはりここでしたか。御一人で行動をする場合はメルトに伝言をして下さいと、いつもお願いしていますよね」
褐色肌に黒髪を後ろに束ねた青年はセリムと呼びかけた青年に困り顔で近付いた。
「それよりもハサン、サマンサはこれで満足してくれるだろうか? まだ足りないものがあるだろうか?」
セリムは振り返ると、ハサンと呼びかけた青年に不安そうにそう尋ねた。
「私は存じ上げません。それはサマンサ様を迎えられた後でも宜しいでしょう?」
「確かに本人に聞かないとわからない部分はあるか」
そう言いながらセリムはベッドに近付こうとする。それをハサンは腕を掴んで制止した。
「セリム殿下。何をなさるおつもりですか?」
「この国の寝台とは違いそうだから寝心地を試してみようかと」
「そのベッドは新品です。寝転がられてもサマンサ様の香りがしたりはしませんからね?」
ハサンの言葉にセリムは眉を顰めた。
「新品なのはわかっている」
「それではご自身の匂いを付けられたいと仰るおつもりですか。そちらの方が嫌なのですが」
ハサンに軽蔑されたような視線を送られ、セリムは仕方なくベッドへ向かうのを諦めた。
「初夜はここで過ごされるのですから、もう暫くの辛抱でしょう?」
ハサンはため息交じりにそう言った。セリムはハサンに不満気な眼差しを向ける。
「もう暫くと言われ続けて二年も待っている。長過ぎる」
「先方にも都合があります。一国の王女が簡単に嫁入りなど出来ません」
「だからこちらから会いに行くと言ったのに、邪魔をしたのはハサンだろう?」
セリムは掴まれている腕を振り払うとハサンを睨んだが、ハサンは呆れたようにため息を吐いた。
「順調にいって往復一ヶ月です。許可など出来るはずがないではありませんか」
「あぁ、サマンサに会いたいな。二年も経ったならより綺麗になっているよね」
セリムは宙を見つめて思いを馳せているようだ。ハサンは冷めた眼差しを向ける。
「そうですね。セリム殿下には勿体ない女性になっているかもしれません」
セリムはハサンを訝しげな眼で睨んだ。
「一体誰なら似合うんだ。その者達を連れて来い。私より相応しいと言う男を全て地下牢に繋いで私が一番似合う男になってやる」
「そういう器の小さい発言が宜しくないと思います」
ハサンに冷静に指摘され、セリムは返す言葉がなく視線を外した。
「宜しかったですね、殿下は王太子になられて。そうでなければ成立しませんでしたよ、この結婚」
「そ、そのような事はない。サマンサは私の運命の相手なのだ。どういう状況でも絶対に結婚していた」
「大陸も違うのに、どのように巡り合うのですか」
「兄上が亡くならなければ私は自由の身だった。レヴィに行く事もあり得る」
「王太子でもないセリム殿下が、王女殿下に会えるとは思えませんけれどね」
「それは運命が何とかしてくれる」
「運命と言えば片付くと思われているのでしたら大間違いです。サマンサ様との接し方を今一度考え直された方がいいと思いますよ」
ハサンの淡々とした言葉に、セリムは不機嫌そうな表情を浮かべたまま黙り込んだ。ハサンはそんな主の態度を見て小さくため息を吐く。
「今はこの話は結構です。今夜は夕食会があるのですから、そろそろ準備をお願いします」
セリムは頷いた。しかし考え事をしているのか視線はハサンの方には向かなかった。
――愛しのサマンサ様
そちらはまだ寒い季節と伺っておりますけれども、いかがお過ごしでしょうか。こちらは貴女を迎える準備が整いました。いついらっしゃって下さっても大丈夫です。本当は迎えに伺うべきだと思っておりますが、どうしても国を離れられない事情があり申し訳ありません。貴女に会える日を、あの日の笑顔を思い出しながら一日千秋の思いで御待ちしております。どうか御身体には気を付けて下さい。旅の御無事をお祈りしております。 セリム――
サマンサはアスラン語で書かれた手紙を折り畳むと封筒にしまった。
「サマンサ殿下、もう辞書がなくても読めるようになられたのですね」
「内容は想像つくから辞書なんて不要よ」
サマンサは声を掛けてきた侍女に冷たくそう言った。この侍女ポーラは婚約が決まった後、彼女と共にアスラン王国へ向かう条件で雇った彼女と同い年の娘である。彼女の侍女はいつも彼女のご機嫌を窺うように何も言葉を発しない者ばかりであったが、ポーラは思った事は何でも口にする。それを彼女は案外気に入っていた。
「それでも凄いです。私はまだ文章を読む事は出来ません」
隣国ならまだしも海の向こうにある大陸の一国に嫁ぐので、言葉はおろか文字も風習も違う。サマンサは婚約が決まった後、それらを習得する為に勉強をした。彼女は元々賢いのでその習得に特に苦労はしていない。手紙を持ってくるアスラン王国の使者とも今では難なく会話が出来る。その点に不安はない。不安があるとすれば結婚に対してだけだった。
「御返事を書かれなくて宜しいのですか?」
「書く気にはならないけれど、やはり書かないといけないかしら」
「いけないに決まっています。先方は楽しみにしてらっしゃいますよ」
ポーラにそう言われ、サマンサは視線を落とした。セリムは悪い人ではない。それはわかっている。婚約した後こうして手紙をこまめに送ってくるし、贈り物も貰った。しかし彼女の心は動かなかった。二年あれば徐々に気持ちが高まるだろうと思ったのに一切なかった。彼の気持ちと自分の気持ちの違いが、今後の結婚生活を不安にさせていた。いっそ表面的な政略結婚の方が気楽だと思うのだが、そのような事を誰かに言えば贅沢な悩みだと相手にされなさそうで、彼女は長らく悶々としていた。
サマンサは渋々ペンを執った。心で思っていなくとも文字ならいくらでも書ける。刻一刻と迫る嫁ぐ日に不安を抱いている事など露とも感じさせない返事をしたため、封をしてポーラに渡した。ここまで進んでしまった以上、この結婚からは逃げられないのだから、いい加減覚悟を決めなくてはいけない事くらい彼女も重々承知である。それでも彼女には運命が何かはわかっていなかった。焦らなくていいと思うのに、どうしても不安で仕方がなかったのだ。